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車内の誘惑

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 熟れ過ぎた果実のような香が車内に満ちて、むせ返りそうだ。
 運転手がハンドルを握る黒塗りの車の中で、セリカはできるだけ細く呼吸する。自分を買った男も同じ後部座席に座って、手の甲を口と鼻に押し付けて表情を苦くしている。
 セリカは広い座席の端に身を縮こまらせ、やっと現れた自分のリクトーの相手にそっと目を向けた。彼は乱暴にネクタイを緩めて、車の窓を手動で開けている。
 新鮮な空気が流れ込み、二人は同時に深く息をついた。

 「名は、セリカだけか?」

 唐突にそう問いかけられ、セリカの伏せられた耳がピクリと動いた。この耳はアシャムにとって顔の表情と同じで、感情が勝手に表れてしまう。
 彼の低い声にさえリクトーの甘やかさを感じて、セリカは苦労して声を絞り出した。

 「はい……。でも名乗る時は、タリムのセリカと」

 「タリム?」

 彼の尋問のような口調は、セリカの耳をどんどん後ろへと伏せさせる。

 「私のコロニーの名前です。故郷のタリムの仲間は、コーヒー栽培園で働いていて、」

 「故郷など、もう忘れろ」

 彼の斬りつけるような声が、セリカの言葉を遮った。

 「親も、兄弟も、全て忘れるんだ。いいな?」

 今まで苦労して飲み込んでいた涙がこみ上げてきた。この人はリクトーを感じていないのだろうかと、有り得ないことが頭をよぎる。
 トキア島の故郷では、リクトーを経て生涯の伴侶を見つけることはとても幸せなことで、つがいになったペアは自然に慈しみあうのが常識だった。セリカは人間に使役される苦しい毎日の中でもずっと、リクトーの相手を見つけたいと願っていた。
 どうしてこの人はこんなに怒っていて、ひどい言葉を投げるのか。セリカには全く分からない。

 「泣くな。俺はお前を奴隷として買った。郷愁の涙など無駄だ。境遇は同情に値するが、お前を所有する権利、支配する権利は俺にあることを忘れるな」

 なぜかその残酷な言葉が、甘い毒薬のように感じられる。

 ——私は彼のもの……。

 やっと巡り会えたリクトーの相手に所有され、支配される。それを喜べばいいのか嘆けばいいのか、セリカは途方に暮れた。
 けれど彼の低い声は心地がいい。それに素直に頷く以外、選択肢はないのだ。

 「……はい。ご主人様」

 やっと細い声で返事をすると、彼が小さく息を飲む気配が伝わってきた。セリカは今まで伏せていた目線を上げ、隣に距離をあけて座る自分のリクトーの相手をやっとまともに観察した。
 彼の黒髪は優雅に後ろに流れ、鋭い瞳の色は深い碧だ。鼻筋が通って、男性らしい薄い唇は今は堅く引き結ばれていた。
 セリカの身体中の産毛が逆立った。どんなにひどく扱われてもいい。早く彼に触れたいと、本能的な欲求が身体中に沸き上がる。

 「ご主人様も悪くはないが、その主人の名くらいは覚えておけ。ジークハード・シュヴァルツだ」

 まるで焼ごてを押し付けられたかのように、セリカの胸の中にその名が焼き付けられる。

 「それから、さっさとその下品な首輪を外せ。鍵もかかってないのに、惨めな奴隷としての演出のつもりか?」

 いきなり首輪に繋がった鎖を引っ張られた。セリカは慌てて革製の首輪を取り外そうと闇雲に引っ張るが、首元は視界に入らないので難しい。その首輪と格闘しながら、彼の視線がこちらに突き刺さるのを感じてしまう。それにさらに追い詰められて、バックルを緩める手つきはおぼつかなかった。

 「食事はちゃんと貰えていたのか?」

 セリカは彼の突然のその問いに手を止めた。顔を上げると冷ややかな彼と視線が絡み合い、胸が苦しくなる。
 
 「……はい」

 「三食?」

 「えっと……コーヒー栽培園では、ノルマを果たさないと食事はもらえないんです。だから時々一食か、二食でした」

 彼は何か鼻白むようなため息をついて、「オークション会場では?」と質問を続ける。

 「栽培園よりは沢山もらえました。でも、私、ずっと売れ残りで、最近はどんどん食事が減って……」

 声はどんどん先細りになった。そっと彼の顔色を伺うが、どうやら会話はそれで終わりのようだ。
 セリカは再び首輪を外そうと、堅いベルトに必死に指をくぐらせた。首に革の帯が食い込み、一瞬咳き込んでしまう。
 
 「不器用だな。貸せ」

 いきなりジークハードの手がこちらに伸ばされる。
 次の瞬間、車がカーブに差し掛かり、二人に遠心力がかかった。セリカはバランスを崩し、差し出されたジークハードの腕に身体ごと倒れこんでしまう。
 オークション会場で着せられたワンピースの生地は薄い。彼の手がガシリとセリカの肩を支えると、すぐに体温が交換された。触れ合ったところから、甘い痺れが身体中を駆け巡る。
 縋るように彼に目を向けると、彼の碧の瞳が燃えるようにこちらを見返してきた。
 何かを耐えるように唇を引き結んだ彼もまた、自分と同じような痺れを感じているのだとセリカは悟る。

 「……何なんだ。これは」

 彼の食いしばった歯からこぼれる声にまで、身体が震える。
 想像していた以上の感覚に、セリカは言葉も紡げなかった。至近距離で見つめ合うと、正常な思考はあっという間に溶けていく。
 突然、首についたままの首輪に指をかけられ、強引に引き寄せられた。まるでパズルのピースがピタリと合わさるように、彼の唇が自分のものに押し当てられる。彼の唇は巧みに動き、セリカの唇をこじ開けた。身体から力が抜け、彼の舌を受け入れてしまう。

 「……んっ。ふ……ぁ。んんっ」

 どれだけ夢中になってキスをしていたのか。彼の舌が乱暴に口内を蹂躙し、舌の付け根を刺激された時だった。セリカの首筋から強烈な痺れが身体を下りていき、今まで何も知らなかった秘部の奥で小さく弾けた。足の間に何かが溢れるのを感じて、「欲しい」という渇望に染まる。それなのに自分が一体何を求めているのか、はっきりとは分からない。ただこの身体の疼きをどうにかできるのは、目の前のリクトーの相手だけだというのは本能的に悟って、セリカは彼に懇願するように縋り付いた。

 「あ……ご主人様……」

 もっと、とキスを返し、彼の首筋に手を置いて無意識に引き寄せる。
 突然、セリカは強い力で突き飛ばされた。後部座席の反対側に背中を打ち付けてしまい、その乱暴な仕打ちと痛みに混乱する。

 「くそっ。こんな、冗談じゃない」

 口元を抑えて、ジークハードは息を乱している。
 その時、ゆっくりと車が停車して、エンジン音が完全に停止した。窓を見ると、先ほどまで走っていたビル街とは違う景色がある。どこに到着したのかと、勇気を出して訊いてみようかと思ったが、ジークハードは乱暴に車のドアを内側から開け放ち、一人で車を降りてしまった。
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