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お日さま

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 爪先は文章を差すというより、削る勢いで文字を引っ掻く。余程、気に入らないのだろう。力の入る指先は、血の巡りを押さえつけ、白く色が変わっていた。

「令嬢は、結婚を心待にしている……?そこが、あり得ないのでしょうか?」

 指先が紙面を、ぐしゃぐしゃと寄せる為に何を差しているのか、宵には分からなかったことから、それらしいことを口にする。

「そこは………………」
「あり得るのですか!?」

「あってはならない――と、思ってはいます」
「坊ちゃま……、まずはお相手のお気持ちを確認してみましょう」

「答え次第では、僕は生きていけなくなる……」
「逆があったら、どうされるのです!? 坊ちゃまのせいで晃子様が、好いたご婚約者と破談になって生きていられないと……」

「とんでもないこと言わないでください!」

 光留にしては、珍しく焦慮を露にする態度に宵は、晃子に関して否定的なことを口にしては、ダメなのだと感じ「それでは、何があり得ないのです」と、切り口を変えた。

「ご結婚が近い――ココです。晃子さんには、ご結婚の認可は下りません。理由は、聞いての通り。そして、苦肉の策と別の方法でご結婚を強行する場合……知ってます?どんな方法があるか?」
「いえ。宵にはさっぱり……」

「分家です。結婚の前に、晃子さんを分家とする願いを提出するのです」
「分家!? 」

「ええ、華族は何をするにしても宗秩寮そうちつりょうを通さなければなりません。勿論、分家願いも。それが許可されれば晃子さんは、平民になってしまう。平民になれば結婚は自由です。宮内省の許可なんていりません」
「まあ!それでは、晃子様は華族としてご結婚ではなく、平民として……」

「まさか!平民になってもらっては困ります!僕は言いました、視察の前に土方大臣へお願いに上がった時に」

 光留は、あの日快諾してくれた土方に「大臣の御仁恕じんじょ、一生涯忘れません……」と 頭を下げ、こう続けた。

「分家願いもお止め下さい」と。
 土方は、一瞬意味が分からなかったのか、ポカンとした様子だったが、直ぐ様、理解したのだろう。痛快だ――と、高笑いを響かせ、頷いてみせた。しかし、蓋を開ければ宗秩寮に結婚の願いが出されたのは、3ヶ月程前という。まだ強行するような期間でもなく、分家願いは出されていない。

「いずれ、出るか?出ないか?わかりません。宵さん、僕がここまでやっているのです。情けないとも、みっともないとも思います。それでも外堀を埋めてかからないと恐ろしいのです。お父上は、僕に関しての相談事をではなく、貴女にします。どうか縁談の打診がきたら、この事を思い出してください」
「わ、私に断れと!? 」

「僕の味方なのでしょう? 秘密を共有したでしょう? 」
「あ……っ!」

 光留は、してやったり――と唇を引き上げた。宵は、両手で顔を覆い無念を表すが、頼みを無下にすることなど出来ないのは、光留のことが可愛くて仕方がないからだ。

「何故、すんなりと決まるご令嬢をお選びにならないのです」
「アレ、とても綺麗でしょう?」

 光留は、にっこりと微笑み、書棚にある小さな小瓶を指差した。英国から買い求めたという黄色の香水は仕舞うでもなく、いつも目につく場所に置いてあるのだが、宵は、色のついた水としか認識していない。

「清浦さんと、ぶらぶら歩いていたら道端から目に入ったのです。ガラスケースに光が反射して、キラキラと輝く姿が鹿鳴館を思い出させました。お日さま色の姿も、神々しい香りも、すべてが一目惚れでしてね。正直、欧州で頭を冷やしたら、忘れられるかもしれないと少し過ったこともあります。だけど無理でした」

 光留は、情けないけど――と、失笑を漏らすと宵をしっかりと瞳に捉え、言いきった。

「大層、美しい人を連想させるperfumeを手にした時に、本物も絶対に必要だと思ったのです。晃子さんは、あの日僕にこう言いました――」

 学友に母親の悪口を言われ、膝をつき涙ぐんでいた情けない少年に、海老茶式部の女学生は立ち去り際、こう言ったという。
『私は、走り去った人達を憶えていることはないでしょう。でも貴方のことは忘れません。だって、とても綺麗なお日さま色なんですもの』と。

「お日さま色とは、笑われるかもしれませんが僕は、あの方にそう言われ有頂天になりました。そして、この髪色がとても尊いものに思えた。親に感謝したいほどです。わかってもらえますか?」

 宵の返事など、聞かなくてもわかる光留は新聞を盆に投げ入れた。

「男爵家に恨みがあって、進まない縁談を載せ、晃子さんを辱しめるつもりの記事なら、後日、僕との結婚で一矢報いる気でいますし、許可を出さない宮内省を批判している記事ならば、これ以上のことをやってみろって話です」

 侮蔑、露にする端正な顔立ちは、なかなか拝めるもではない。宵は「はぁ~」と大きく諦めの息をつくと「新聞、どうされますか?」と聞いた。

「捨てて結構……あぁ、明日菓子折を用意して貰えませんか?」
「菓子でございますか?どちらへ?」

「帰国した日に、俥が泥濘にはまって大事だったと話したでしょう? あの時に世話になった家へ、お礼をと思いまして」
「宵がお持ちしましょうか?」

「いえ、ずいぶん日が経ってしまいました。僕が行きます」

 似ても似つかない晃子の大和絵の横には、白袴隊の記事が載っていた。光留は記憶の彼方と化していた瀬戸物町の女を思い出す。
 無理して静かに笑っている風にも見えた、朝の容花かおばなを彷彿とさせる、幸薄な風情の女を。
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