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幽冥竜宮
再会
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朧が、ハッキリと名乗った。
不動明王だと。
関白は、ギョッと目を見張り倒れている菅公を振り返った。未だにひっくり返ったままの姿に、ホッと息をつく。
菅公は、実の名を名乗るのを好まない。いや、好まないどころではない、芳乃がやって来た時も不機嫌を露にした。あれはまだ良い方で、以前関白がうっかり菅公の名を呼んだ時は、雷が落ちたほどだ。
そんな関白の心配事など、何処吹く風とばかりに朧は、しなやかな指先を伸ばし高坏から胡桃を摘まむと、ピンと指先で跳ね上げた。胡桃は高く上がると、そのまま太郎の鏡に吸い込まれる。
「関白、この鏡は浄玻璃鏡と申して、閻魔庁にある物だ」
「あれか?地獄で死者の生前を映すという……」
「ああ、それだ……あれ?待てよ、そしたら今頃、地蔵は閻魔庁で裁きが出来ぬではないか」
はたと思い至り朧は、首を捻ると「あ!」と声を上げた。
目の前の浄玻璃鏡には、ピタリと止まった芳乃と六郎、血肉が飛び散った中に佇む地蔵菩薩――の背後に赤い小袖を着た太郎どんが、こちらを見上げヒラヒラと手を振っていた。
「あのクソ地蔵……」
朧の漏らした悪態に合わせるように、鏡の中の太郎が両手を大きく開く――パンッ!! と打ち鳴らした途端に、刻が動き出した。
天を仰げば、紅霞を眺めることが出来る刻限だった。風に揺れる木々も、落ちる葉も周りは全てが茜色に染まっていたが、目の前に立つ女が夕日に染まっているだけではないことに、六郎は恐怖を覚えた。
女の小袖は、本来の柄も分からぬ程に返り血を浴び、足元には両手で持ち上げる程の石が転がり落ちている。血溜まりの中、唇を引き上げ笑っているのは、忘れもしない焼け死んだ筈の妻芳乃だった。
しかし、その顔は記憶の中では存在しない狂気を露にしていた。
「そなた……死んだのではなかったのか?」
六郎は、何とか絞り出したものの声が掠れ、はきとした言葉が継げなかったが、芳乃には聞こえたようだ。ふふ……と喉を鳴らすと「この通り、生きております」と告げる。
六郎は、芳乃の足元に転がるモノに気付くと、よろめくように後退りした。血溜まりに横たわるのは足をこちらに向けた人だ。状況的に死人であることは一目瞭然なのだが、六郎にとって重要なのは、それが誰かであった。見覚えのある紺藤の小袖は、妻が好きな紫陽花の色だ。よく好み着ているのは勿論、今朝がた、身に付けていたことも――。
六郎は、ゴクリと生唾を呑み込み芳乃の足元に転がるそれを凝視した。見開かれた眼は恐れおののく色を宿し、瞬きを忘れたかのようだ。
微動だにしない六郎に、芳乃は微笑を称え、愛を囁くような声音を奏でる。
「あなた様の妻ですよ」と。
しかし、何やら思い至ったのか、ああ……と小さく漏らすと、畦道を覆う木々の葉に視線を巡らせ「もう死人ゆえ、元妻……」と漏らした。先程の囁きとは一転、地獄の底から沸き上がるような薄気味の悪い声に、六郎は「何故……?」と返す。この一言で精一杯だったのだ。
「何故……?このようなことを、と申されるか?」
芳乃から、笑みが消えた。真っ直ぐに向けられた眼差しは、在りし日の優しく美しい妻のものではない。
柔らかな眼差しだった眼は、ギラギラとした異様な輝きが備わり、睨み付けてくる。貧しく紅などさしたことがなかった唇だったが今は、やけに赤い。
それが返り血なのか、斜陽によるものなのか六郎には興味はなかった、目の前の女をどうするか?バッタリ出くわした瞬間から考えていたことだ。ただ、状況から落ち着いていられるわけがない。叫びたいくらいだったが芳乃と言葉を交わしていくうちに、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
―― 女ひとり、どうとでもなる。
芳乃が、妻を惨殺した。おそらく自分と吾子への仕打ちを知り、仇を討ったのだろう。
六郎は、妻を殺し逃げずに待ち伏せをしている芳乃の目的が、次は自分であること、下手をすれば畦道の先にある新しい女の家を襲撃するかもしれないと考えた。
芳乃は、新しい女のことなど興味もなかったのだが、それを知らぬ六郎は鬼女のような元妻をどうやって排除しようか――と考えを巡らせていた。
不動明王だと。
関白は、ギョッと目を見張り倒れている菅公を振り返った。未だにひっくり返ったままの姿に、ホッと息をつく。
菅公は、実の名を名乗るのを好まない。いや、好まないどころではない、芳乃がやって来た時も不機嫌を露にした。あれはまだ良い方で、以前関白がうっかり菅公の名を呼んだ時は、雷が落ちたほどだ。
そんな関白の心配事など、何処吹く風とばかりに朧は、しなやかな指先を伸ばし高坏から胡桃を摘まむと、ピンと指先で跳ね上げた。胡桃は高く上がると、そのまま太郎の鏡に吸い込まれる。
「関白、この鏡は浄玻璃鏡と申して、閻魔庁にある物だ」
「あれか?地獄で死者の生前を映すという……」
「ああ、それだ……あれ?待てよ、そしたら今頃、地蔵は閻魔庁で裁きが出来ぬではないか」
はたと思い至り朧は、首を捻ると「あ!」と声を上げた。
目の前の浄玻璃鏡には、ピタリと止まった芳乃と六郎、血肉が飛び散った中に佇む地蔵菩薩――の背後に赤い小袖を着た太郎どんが、こちらを見上げヒラヒラと手を振っていた。
「あのクソ地蔵……」
朧の漏らした悪態に合わせるように、鏡の中の太郎が両手を大きく開く――パンッ!! と打ち鳴らした途端に、刻が動き出した。
天を仰げば、紅霞を眺めることが出来る刻限だった。風に揺れる木々も、落ちる葉も周りは全てが茜色に染まっていたが、目の前に立つ女が夕日に染まっているだけではないことに、六郎は恐怖を覚えた。
女の小袖は、本来の柄も分からぬ程に返り血を浴び、足元には両手で持ち上げる程の石が転がり落ちている。血溜まりの中、唇を引き上げ笑っているのは、忘れもしない焼け死んだ筈の妻芳乃だった。
しかし、その顔は記憶の中では存在しない狂気を露にしていた。
「そなた……死んだのではなかったのか?」
六郎は、何とか絞り出したものの声が掠れ、はきとした言葉が継げなかったが、芳乃には聞こえたようだ。ふふ……と喉を鳴らすと「この通り、生きております」と告げる。
六郎は、芳乃の足元に転がるモノに気付くと、よろめくように後退りした。血溜まりに横たわるのは足をこちらに向けた人だ。状況的に死人であることは一目瞭然なのだが、六郎にとって重要なのは、それが誰かであった。見覚えのある紺藤の小袖は、妻が好きな紫陽花の色だ。よく好み着ているのは勿論、今朝がた、身に付けていたことも――。
六郎は、ゴクリと生唾を呑み込み芳乃の足元に転がるそれを凝視した。見開かれた眼は恐れおののく色を宿し、瞬きを忘れたかのようだ。
微動だにしない六郎に、芳乃は微笑を称え、愛を囁くような声音を奏でる。
「あなた様の妻ですよ」と。
しかし、何やら思い至ったのか、ああ……と小さく漏らすと、畦道を覆う木々の葉に視線を巡らせ「もう死人ゆえ、元妻……」と漏らした。先程の囁きとは一転、地獄の底から沸き上がるような薄気味の悪い声に、六郎は「何故……?」と返す。この一言で精一杯だったのだ。
「何故……?このようなことを、と申されるか?」
芳乃から、笑みが消えた。真っ直ぐに向けられた眼差しは、在りし日の優しく美しい妻のものではない。
柔らかな眼差しだった眼は、ギラギラとした異様な輝きが備わり、睨み付けてくる。貧しく紅などさしたことがなかった唇だったが今は、やけに赤い。
それが返り血なのか、斜陽によるものなのか六郎には興味はなかった、目の前の女をどうするか?バッタリ出くわした瞬間から考えていたことだ。ただ、状況から落ち着いていられるわけがない。叫びたいくらいだったが芳乃と言葉を交わしていくうちに、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
―― 女ひとり、どうとでもなる。
芳乃が、妻を惨殺した。おそらく自分と吾子への仕打ちを知り、仇を討ったのだろう。
六郎は、妻を殺し逃げずに待ち伏せをしている芳乃の目的が、次は自分であること、下手をすれば畦道の先にある新しい女の家を襲撃するかもしれないと考えた。
芳乃は、新しい女のことなど興味もなかったのだが、それを知らぬ六郎は鬼女のような元妻をどうやって排除しようか――と考えを巡らせていた。
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