常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

閻魔

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 芳乃よしのの頬を伝う涙は、細い顎からポタポタと赤い雫と化し、小さく震える唇から漏れた一言は、常世とこよ全体に響き渡り、幾重にも広がった。

 ―― 地獄で太郎地蔵と会えるだろうか?

 悲痛な叫びにも似た言葉に、顔を伏せ、黒い塊と化していた菅公かんこうは、そっとおもてを上げ、芳乃よしのの心が震えておる――と言った。
 月を見上げては感嘆の声を上げ、散る花に涙する感受性豊かな菅公かんこうは、芳乃よしのの言葉に何かを感じたようだ。

芳乃よしのは六郎を討ち仕損じた。それを、今からでも本懐を遂げよと送り出したのは、そなたじゃ地蔵」
「そうじゃが、それが何じゃおぼろ殿」

「そなたは、初めにこう言った。芳乃よしのを救って欲しいと」
「……」

「それが、霊魂になっても殺生を重ねるように仕向けたのは何故じゃ?生前の罪を裁くのは地獄の沙汰じゃ。人とは過ちを犯すもの、皆それはよう分かっておる……が、常世とこよへ迷い込んだ芳乃よしのは人ではない、死人になってまで罪を重ねては、地獄の十王じゅうおうも見逃せまい」

 おぼろは、蝋燭の火先を思わせる朱をチロチロと揺らめかせ、目の前に座る太郎に問うが、静かな口調の端々には憤りが見え隠れしていた。
 そんなおぼろに太郎は、ふん!と鼻を鳴らす、地蔵菩薩の穏やかなまなこに、憎しみの色を宿し、薄い唇を引き上げると継いだ――

「あの男……六郎は芳乃よしのに、こう言った。卯の花が似合うと……違う。わしが初めにそう思うたのだ」
「は?」

「わしは、芳乃よしのが小さい時から知っておる。この位じゃ!こんなに小さい時分からじゃ!」

 太郎は、幼い芳乃よしのの身の丈を表すようにてのひらを横に振ってみせるが、聞かされている者逹は、唖然とし太郎を眺めている。それに気付いていないのか興奮し、つばきを撒き、てのひらを板間に叩きつけ語るのは地蔵菩薩だ。元々、石で出来ているからなのか、打ち付ける板はガツンガツンと鳴り、抜けるのではないか?と菅公かんこうは心配する。

「待て、待て、待て、待て!! この色欲地蔵!!」

 こう叫ぶのは、太郎に手厳しいきょうだ。今回に至っては菅公かんこうは止める気はないのか、黙り見守っている。
 きょうの言う通り、太郎の口ぶりは芳乃よしのに執着した者のように聞こえたからだ。

「うるさい!菩薩!そもそも畦道に空木うつぎを咲かせたのは、芳乃よしのが卯の花のように白く可憐だと思ったからじゃ!」
「お前……!そんなことを!? 何と気味の悪い!」

「わしのやったことを使って、六郎は芳乃よしのを誘惑したのじゃ!」
「いい加減にしろ!吐き気がする!出ていけ!」

 我慢できない!と叫んだきょうは、太郎の襟首を掴み取ると板間を引きずり、鏡の前で押さえつけた。水晶の如く澄み渡る鏡には、ゆらゆらと立ち上がり畦道を塞ぐ芳乃よしのと、その姿に驚愕する六郎が映し出されていた。
 
「その細いまなこをよぉく開いて、とくと見よ!芳乃よしのが魂になっても殺生をする所を!お前のせいだぞ、地蔵、お前が送り出したのだ。これで可愛い芳乃よしの畜生道ちくしょうどうを繰り返すかもしれぬ、いいや!地獄へ落ちるかも知れぬ、いつか救われるかもしれぬが、救いがすぐとは限らぬのだぞ!」

「救いが欲しいのは、わしとて同じじゃ!」
「はあ?」

「あの畦道にわしが居なければ、卯の花がなければ、六郎と知り合わずに済んだ!」
「馬鹿な!人の生は、生まれた時から決まっている!お前のことなど関係ないわ!」

「六郎は、わしを拝む芳乃よしのを見初めたのだ!わしが彼処におらねば……!」
「頭でっかちの石頭め!! お前のせいで余計な手間がかかるわ!」

 お互い声を張り上げ応酬するのを、呆れ遮る言葉を放ったのはおぼろだった。
「話が進まぬ」そう一言口にすると、鏡の前できょうに押さえ付けられ、這いつくばる太郎に歩み寄った。
 内衣ないいから腕を伸ばし、太郎の丸い顎に指を掛けるとニッコリと微笑む。目元に引かれた紅がやけに際立ち、玉水のように瑞々しい唇は優しげに引き上がるのだが、どうした訳かきょうは、生唾を呑み込み、ジリジリと太郎から後退した。
 しなやかな指先は、太郎の顎から喉元に下り、そっと回される。片手で太郎の首を握る形となったおぼろは、ゆったりとした声音を放った――

「つまり……そなたが畦道に居て、幼い頃から信心してくれた可愛い芳乃よしのの為に、空木うつぎを咲かせた。六郎は、そなたを拝む芳乃よしのを見初め、そして空木うつぎの歌で求愛した。つまり全ては地蔵が、居たから不幸な生涯になった。そう言いたいのか?」

 太郎の首に回された腕が、一本増えた。おぼろは十本の指を首に添え、チロチロと揺れるまなこで上下する太郎の喉元を眺める。添えた指先は緩まる気配はない。引き上がる唇から、低く怒気交じりの声音が放たれた。

「思い上がりも大概にしろ、閻魔えんま
明王みょうおう!止めよ!!」

 すかさず太郎は叫んだが、どちらが早かったか?おぼろは、軽く指をつぼめた。力が加えられたようにも見えなかったが、何としたことか太郎の首はゴトリ、と落ちた。
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