常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

懺悔

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「うわぁぁぁ!!」
「あなやっ!!」

 品のない叫び声を上げ、後方へ仰け反る関白かんぱくは、慌てて真ん中の鏡から目を背けた。殿上人てんじょうびとらしい、ひどく驚く声を上げたのは菅公かんこう、こちらは仰け反ることはなかったが束帯そくたいの黒袖で顔を覆い隠し、身を固くするのだから鏡を見ることはない。

「ととととと、とんでもないことを仕出かしておらぬか!?」
「けけけけけ、穢れじゃ!」

 菅公かんこうは、余程衝撃だったのだろう。右袖で顔を隠し、左手は犬でも追い払うように、しっ!しっ!と払う。手で穢れなど払えぬのだが、気が動転し思い至らないのだろう。

「とんでもないこと……そうじゃな、芳乃よしのは妻を石で殴り付け、一撃で抵抗が出来ないようにした。妻に馬乗りになり、顔面を打ち続けておる。血肉は飛び散り、笑う芳乃よしのおもてはいうに及ばす、石を持つ両手も、小袖もすべて返り血で染まり、砕ける骨の音は……うん、もうせぬな。砕ける物などなくなったか?」

「言うな!おぼろ殿!!知りたくない!」
 関白かんぱくが、絹を引き裂く声音を上げた。

「あなや!あなや!あなや!」
 菅公かんこうは、置畳に倒れ込み、のたうち回るように足をバタつかせる――、いつも落ち着き払い、月や花をこよなく愛する風流人の変貌におぼろは、面白い……と呟いた。

「落ち着け!菅公かんこう
「落ち着けと……!?きょう殿、これが落ち着いていられるか!?」

「これは芳乃よしのの生前の行いじゃ!この後じゃ、問題は……」
「み、見とうない」

「顔を伏せておってもよい」
「そうさせてもらう」

 鏡の芳乃よしのは、高らかな笑い声を響かせ、石を振り下ろし続けていたのだが幾度も繰り返すことで指先も腕も痺れ、とうとう石を取り落とした――
 ゴ――ッ、と最後の一撃を与えるとフラフラと立ち上がりかけるが、全身に力が入らないのだろう、直ぐ様尻餅をつく。
 それでも救いを求めるように、太郎地蔵の側まで這い、池を泳ぐふなこいの如く、パクパクと口を開けるものの、発せられるのはしわがれた声であり、喉の疲労により聞き取れるような言葉など発することは出来なかった。叫びながら石を打ち付けていたせいで喉が枯れてしまったのだ。
 芳乃よしのは、六郎の後をつけると言った手前、追跡中に喉を潤す竹筒を持参していた。震える指先で腰をさぐる、二、三度左右に行き来をさせるとカッンと爪が当たった、獰猛な鷹の爪が獲物を捕らえるように芳乃よしのの指先は、勢いよく竹筒を掴むと結わえる紐がちぎれるのも厭わずに、無我夢中で飲み干した。
 ゴクリ、ゴクリ――と喉を鳴らし、流し込む水と同じように興奮し我を忘れていた高揚感も流れ消えていく、芳乃よしのは次第に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと太郎地蔵に視線を向けた。
 飛び散った鮮血は、太郎地蔵にも容赦なく降りかかったようで、掛けられた白のよだれ掛けは、ポツポツと赤い斑点模様が浮かび上がり、地蔵の台座の前は血だまりであった。ここに至って芳乃よしのは泣いた、ハラハラと流す涙は返り血により、血の涙と化す。

「太郎地蔵様には、空木うつぎがよくお似合いじゃと、卯の花色の前掛けを縫って差し上げたが……私がこんな姿にしてしもうた」

 太郎のよだれ掛けは、空木うつぎ咲き誇る畦道にちなみ、芳乃よしのが縫い上げたものだ。
 手を伸ばし、太郎の足元にも飛び散った血を拭おうと、湯巻ゆまきを外しかけたが、腰に巻いていたはずの湯巻は、いつの間にか紐がとけ、血溜まりに浸っていた。売り払い、金に代えようと思っていた卯の花の帯も、とてもじゃないが売り物にはならない。
 芳乃よしのは、何かで太郎地蔵を拭おうと自身の全身を見回すが、そですそも、とてもじゃないが太郎地蔵に触れてよい状態ではなかった。
 何一つ、太郎に触れることの出来ない芳乃よしのは、うなだれ両の手を合わせた。

「太郎地蔵様の卯の花色も、私の卯の花色も、血に染まって……私は地獄へ参ります。後悔はない。これから吾子あこのことを知りながらも、のうのうと状況に甘んじていた六郎殿を殺し、仇を討てたら本望でございます」

 芳乃よしのは、そう言うと柔らかく微笑みを浮かべた。人を執拗に殴り付け、殺害した罪だ。それも二人も――。
 そして、これから一人増えることになるだろう。

「地獄へ落とされ、畜生道ちくしょうどうへ生まれ変わり、二度と人にはなれぬでしょう。こうして太郎地蔵様の前で手を合わせることも最後になります。お怒りでしょうがお許し下さいませ……」

 今生の別れになると芳乃よしのは、許しを乞うた。それは罪を免じてくれ――ではなく、太郎地蔵が悲しむような真似をしてしまったことへの懺悔とも取れた。
 ほんの一瞬、言葉に詰まったが最後に芳乃よしのは、こう呟いた――
 もし……もしも地獄道じごくどうへ落とされましたら、太郎地蔵様にお会い出来るのでしょうか?――と。
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