18 / 84
幽冥竜宮
空木
しおりを挟む
舌先三寸で連れ出した六郎の妻を背後に従わせ、畦道の地蔵菩薩の元へ向かう芳乃の腹には、卯の花色の帯が絞められていた。
それは豪華な錦織で、模様の上に更に鮮やかな色糸で浮織した二陪織物と呼ばれる物であったが、当然芳乃が身につけるような代物ではなかった。
芳乃は、六郎の部屋から帯を盗み出し、自分の腰に巻いた。別に物盗りの為に部屋へ入ったのではない。
妻を連れ出し、その場で殺す――。
芳乃は、そう決心していたのだが妻を屋敷から連れ出すとしても、誰にも見られずに出ることなど無理な話である。
連れ出したら最後、殺すしかない。さもなければ、妻を殺す好機など訪れないのだ。百歩譲って屋敷内で妻を殺害したとしても、芳乃が生きて屋敷を出ることはないだろう。妻の心の臓が止まったことを確認する暇もなく、押さえつけられ板間に這いつくばるのは目に見えていた。
しかし、それでは仇を討ったかも分からぬまま死ぬことになる、それだけは我慢ならぬ。
だが、外で妻を殺めたとしても、何食わぬ顔で芳乃が屋敷へ戻ることもあり得ない。つまり、どちらにせよ屋敷に再び足を踏み入れることはない。
それならば、屋敷から持ち出さなければならない物があった。吾子のでんでん太鼓だ。
先日そう思い、妻の部屋を訪れたのだが、隅に転がっていたはずの太鼓は無くなっていた。まさか捨てられたか?と、妻へ渡したことを後悔し、尋ねた。
そんな芳乃に妻は、皮肉げに口許を歪ませると、夫が持ち去ったと吐き捨てた。でんでん太鼓を目にした六郎がどんな顔をするのか見たかったのだという。
でんでん太鼓は、六郎が囲っている女に渡す為に用意した物だという芳乃のデマカセを信じているのなら、当然の行動だと頷けた。
案の定、六郎は、これを何処で手に入れた!と、掴みかかってきたらしい。妻が言うには相当、慌てふためいた様子であったという。
そんな六郎に、出所を簡単に教えるわけがない、妻は言葉で応酬したらしい。結果、聞き出すのを諦めたのか?太鼓は持ち去られたという。
その様子を、憎々しげに吐き捨てる唇から覗く歯は、親指の爪をしかと噛み、ギリギリと音を鳴らさんばかりだ。
芳乃に、一抹の不安が過った。何故なら、太鼓は六郎の物ではないのだ。慌てふためき、これをどうしたと尋ねたとしたら太鼓が死んだ吾子の物だと気づいたのではないか?と。
又、深読みすれば妻に打ち明け、二人して芝居を打ち、芳乃を謀ろうとしているのではないか――と。
芳乃は慎重に妻の様子を窺うが、怪しい言動もなく芳乃を罠にかけるような素振りもなかった。
ただ、ひたすら六郎の不貞に腹を立てている様子に胸を撫で下ろし、芳乃は六郎の部屋へ向かった。
目的は、無論吾子の形見である。
妻には、何か女に関わる物があるやもしれぬ――と理由を付け又、侍女らには北の方様のお言いつけだと言い、人払いの上、六郎の部屋へ侵入した。
壁に寄せられた文机には箱が1つ。硯と筆が収められていた。部屋の奥には唐櫃が1つ。主の部屋にしては、何とも質素なものだった。誰も使っていない部屋だと言われれば、然もありなんと頷くだろう。
芳乃は、足を進め几帳の裏を覗く。
そこには、衣架が置かれ無造作に衣と腰紐が掛けられていた。早い話、脱ぎ散らかした状態である。芳乃は、急ぎ視線を巡らせた。妻のように太鼓を転がしてはいない――と、すると隠し持っているに違いない。乱れる裾を指で押さえることもせず、唐櫃に駆け寄った。
仕舞うような棚もないことから、ここしか考えられないと徐に腕を突っ込み、引っ掻き回す。しかし指に触れるのは柔らかい上質な衣であり、どんなに腕を動かしても太鼓の腹も、結びつけられた小さな玉にも触れることはなかった。焦りだけが募る。
諦められない芳乃は、唐櫃をひっくり返す、上等の衣を振り仰ぎ1枚、1枚確認するがコロンコロンと鳴り、転がり出てくる太鼓を目にすることは、終ぞなかった。
へなへな――と、腰が抜けたように座り込む芳乃の眼前には、取っ散らかされた無数の小袖が広げられ板間を埋め尽くす、太鼓は見つからなかったというのに、これを今から片付けなければならないと思うと、無性に腹が立つ。
やり場のない怒りを、ぶつけるとしたら目の前にある衣くらいしかない。おもむろに目についた物を引っ掴み、腹立ち紛れに左右に引いた――、すると引き破るつもりの衣が他の物より若干重いことに気がついた。
眉根を寄せ、念入りに手で探ると袖口に何かが縫い付けられている、慎重に糸をとき、布を開いた――出てきたのは、1尺程で、折り畳まれた卯の花色の帯。
上等の錦織が姿を見せたことに、芳乃は息を呑む。このように美しく品のある錦織を見たことがなかったからだ。
昔、六郎は言った。
佐伯山、卯の花持ちし、愛しきが、手をし取りてば、花は散るとも。
「佐伯山とは、安芸国にある山でな。朱色の御殿と同じじゃ、まぁ……万葉の頃は御殿などはないのじゃが空木、咲き誇る美しい所と聞く。そなたは卯の花が実に良く似合う」
芳乃の指先が震えた、品のある錦織は卯の花色。それはまさしく、六郎が芳乃に求愛した畦道に咲き誇った空木の色であった。
それは豪華な錦織で、模様の上に更に鮮やかな色糸で浮織した二陪織物と呼ばれる物であったが、当然芳乃が身につけるような代物ではなかった。
芳乃は、六郎の部屋から帯を盗み出し、自分の腰に巻いた。別に物盗りの為に部屋へ入ったのではない。
妻を連れ出し、その場で殺す――。
芳乃は、そう決心していたのだが妻を屋敷から連れ出すとしても、誰にも見られずに出ることなど無理な話である。
連れ出したら最後、殺すしかない。さもなければ、妻を殺す好機など訪れないのだ。百歩譲って屋敷内で妻を殺害したとしても、芳乃が生きて屋敷を出ることはないだろう。妻の心の臓が止まったことを確認する暇もなく、押さえつけられ板間に這いつくばるのは目に見えていた。
しかし、それでは仇を討ったかも分からぬまま死ぬことになる、それだけは我慢ならぬ。
だが、外で妻を殺めたとしても、何食わぬ顔で芳乃が屋敷へ戻ることもあり得ない。つまり、どちらにせよ屋敷に再び足を踏み入れることはない。
それならば、屋敷から持ち出さなければならない物があった。吾子のでんでん太鼓だ。
先日そう思い、妻の部屋を訪れたのだが、隅に転がっていたはずの太鼓は無くなっていた。まさか捨てられたか?と、妻へ渡したことを後悔し、尋ねた。
そんな芳乃に妻は、皮肉げに口許を歪ませると、夫が持ち去ったと吐き捨てた。でんでん太鼓を目にした六郎がどんな顔をするのか見たかったのだという。
でんでん太鼓は、六郎が囲っている女に渡す為に用意した物だという芳乃のデマカセを信じているのなら、当然の行動だと頷けた。
案の定、六郎は、これを何処で手に入れた!と、掴みかかってきたらしい。妻が言うには相当、慌てふためいた様子であったという。
そんな六郎に、出所を簡単に教えるわけがない、妻は言葉で応酬したらしい。結果、聞き出すのを諦めたのか?太鼓は持ち去られたという。
その様子を、憎々しげに吐き捨てる唇から覗く歯は、親指の爪をしかと噛み、ギリギリと音を鳴らさんばかりだ。
芳乃に、一抹の不安が過った。何故なら、太鼓は六郎の物ではないのだ。慌てふためき、これをどうしたと尋ねたとしたら太鼓が死んだ吾子の物だと気づいたのではないか?と。
又、深読みすれば妻に打ち明け、二人して芝居を打ち、芳乃を謀ろうとしているのではないか――と。
芳乃は慎重に妻の様子を窺うが、怪しい言動もなく芳乃を罠にかけるような素振りもなかった。
ただ、ひたすら六郎の不貞に腹を立てている様子に胸を撫で下ろし、芳乃は六郎の部屋へ向かった。
目的は、無論吾子の形見である。
妻には、何か女に関わる物があるやもしれぬ――と理由を付け又、侍女らには北の方様のお言いつけだと言い、人払いの上、六郎の部屋へ侵入した。
壁に寄せられた文机には箱が1つ。硯と筆が収められていた。部屋の奥には唐櫃が1つ。主の部屋にしては、何とも質素なものだった。誰も使っていない部屋だと言われれば、然もありなんと頷くだろう。
芳乃は、足を進め几帳の裏を覗く。
そこには、衣架が置かれ無造作に衣と腰紐が掛けられていた。早い話、脱ぎ散らかした状態である。芳乃は、急ぎ視線を巡らせた。妻のように太鼓を転がしてはいない――と、すると隠し持っているに違いない。乱れる裾を指で押さえることもせず、唐櫃に駆け寄った。
仕舞うような棚もないことから、ここしか考えられないと徐に腕を突っ込み、引っ掻き回す。しかし指に触れるのは柔らかい上質な衣であり、どんなに腕を動かしても太鼓の腹も、結びつけられた小さな玉にも触れることはなかった。焦りだけが募る。
諦められない芳乃は、唐櫃をひっくり返す、上等の衣を振り仰ぎ1枚、1枚確認するがコロンコロンと鳴り、転がり出てくる太鼓を目にすることは、終ぞなかった。
へなへな――と、腰が抜けたように座り込む芳乃の眼前には、取っ散らかされた無数の小袖が広げられ板間を埋め尽くす、太鼓は見つからなかったというのに、これを今から片付けなければならないと思うと、無性に腹が立つ。
やり場のない怒りを、ぶつけるとしたら目の前にある衣くらいしかない。おもむろに目についた物を引っ掴み、腹立ち紛れに左右に引いた――、すると引き破るつもりの衣が他の物より若干重いことに気がついた。
眉根を寄せ、念入りに手で探ると袖口に何かが縫い付けられている、慎重に糸をとき、布を開いた――出てきたのは、1尺程で、折り畳まれた卯の花色の帯。
上等の錦織が姿を見せたことに、芳乃は息を呑む。このように美しく品のある錦織を見たことがなかったからだ。
昔、六郎は言った。
佐伯山、卯の花持ちし、愛しきが、手をし取りてば、花は散るとも。
「佐伯山とは、安芸国にある山でな。朱色の御殿と同じじゃ、まぁ……万葉の頃は御殿などはないのじゃが空木、咲き誇る美しい所と聞く。そなたは卯の花が実に良く似合う」
芳乃の指先が震えた、品のある錦織は卯の花色。それはまさしく、六郎が芳乃に求愛した畦道に咲き誇った空木の色であった。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
甘灯の思いつき短編集
甘灯
キャラ文芸
作者の思いつきで書き上げている短編集です。 (現在16作品を掲載しております)
※本編は現実世界が舞台になっていることがありますが、あくまで架空のお話です。フィクションとして楽しんでくださると幸いです。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
想妖匣-ソウヨウハコ-
桜桃-サクランボ-
キャラ文芸
深い闇が広がる林の奥には、"ハコ"を持った者しか辿り着けない、古びた小屋がある。
そこには、紳士的な男性、筺鍵明人《きょうがいあきと》が依頼人として来る人を待ち続けていた。
「貴方の匣、開けてみませんか?」
匣とは何か、開けた先に何が待ち受けているのか。
「俺に記憶の為に、お前の"ハコ"を頂くぞ」
※小説家になろう・エブリスタ・カクヨムでも連載しております
毒小町、宮中にめぐり逢ふ
鈴木しぐれ
キャラ文芸
🌸完結しました🌸生まれつき体に毒を持つ、藤原氏の娘、菫子(すみこ)。毒に詳しいという理由で、宮中に出仕することとなり、帝の命を狙う毒の特定と、その首謀者を突き止めよ、と命じられる。
生まれつき毒が効かない体質の橘(たちばなの)俊元(としもと)と共に解決に挑む。
しかし、その調査の最中にも毒を巡る事件が次々と起こる。それは菫子自身の秘密にも関係していて、ある真実を知ることに……。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる