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幽冥竜宮
導き ②
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◆◆◆◆◆
「誰か来た」
薄氷を打ち砕くような振動と裂ける音に、女は口元に含ませかけた胡桃をピタリ、と止めると、眼前に座る男にひたと視線をあてた。美しい眼は、蝋燭の火先を思わせる朱をチロチロと揺らめかせ、顎をしゃくる。
玉水のような瑞々しい紅が動かずとも、女が言いたいことはハッキリと態度に出ていた。
「わざわざ迎えに出なくても勝手に上がってくるだろう」
顎で使われかけた男は、事も無げに結論づける。その答えに女は小首を傾げてみせるが直ぐに「それもそうじゃな」とだけ漏らし、何事もなかったように、二人して胡桃を口にした。
几帳の生絹は、庭先から吹き込む夜風に撫でられ、軽やかに揺れる、その風に誘われる様に目を向けた女は、眉間に描かれた紅の花鈿に悩ましげに指先をあてた。
腕を伸ばし、庭先に突き出た渡殿を指さすと、腕に掛かる領巾は生絹と同じく優しげに揺れるが、次の瞬間、舌を打つ音と共に漏れた女の声音は、そよぐ領巾の優美な様とも、鮮やかなる朱色の屋根を持つ御殿の絢爛さとも、全くそぐわないものだった。
「面倒なこと。朱の御殿など……此度のモノは都と近しい者であろうか?」
「さぁ、ここは訪れ人の記憶で再現されるからなぁ。帝に近しいのやら、ただ単に都に憧れているのやら……」
皓皓と浮かび上がる朱の御殿に、ゆらゆらと水面に揺れる月影。男は微笑み女を振り返る、
「朧殿、先日の朽ちかけた小屋よりマシではないか」
「あれは、訪れ人がどうかしておったのだ。懐かしく夢を見る場所が、すきま風が吹き込む小屋などと……そう考えると響殿、此度の訪れは、やんごとない殿上人やもしれぬぞ?」
「ここには、一人殿上人がおったではないか、気が合うやもしれぬな――あ、早速出迎えに行ったようではないか?」
響は、ふと視線を東に向けた。そこには広々とした廊下が広がるのみだが、双眸は先まで見渡しているように微動だにしなかった。朧は又しても顎をしゃくると鼻で笑って見せた、瑞々しい紅に沿わせるように舌を這わせるとボソリと漏らす――
「菅公の政敵だったら面白いのだが」
◆◆◆◆◆
靄が晴れた途端、見たこともないような風景が広がる様に芳乃は、瞼を瞬かせる。
光輝く漆喰の白壁は、見渡す端まで長く伸び、正面に構えられた楼門は、立派な朱色の屋根に金で何かの形を型どった飾りが乗せられていた。
「あれは……何であろうか?」
芳乃は、金で型どられた物を凝視した。靄はすっかり晴れたが、宵ということもあり月光だけではハッキリと捉えることが出来ないのだ。
鳳凰か――?
そう考えれば、すんなりと納得出来た。これ程の御殿には鳳凰しか考えられないと。
その時、視界の端に閃光を伴う熱を感じた「あ!あれは!?」思わず一人で叫ぶ形となったのだが、それもその筈、長く続く塀に沿うように等間隔を空け、突然火の手が上がったのだ。
しかし、可笑しなことに人が松明を持ち篝火を焚いたわけでもない、言葉で説明するのであれば、誰もいない場所に一斉に明かりが灯ったのだ。それも火種などない、暗闇を照らす炎は例えるならば、人魂のように独りでに浮かび、燃え盛っているのだ。
芳乃を迎え入れるように、人魂のような物は漆喰の長塀を沿い、御殿内に侵入した。
見上げる二階建ての門は、漆喰塗りで、その中央をくり貫かれ通路を開いている、ご丁寧に明かりを灯された芳乃は躊躇することなく足を踏み出した。
洞窟のような門を潜ると、大きな池に朱色の橋が掛かり、その先には立派な御殿。思わず感嘆の声を漏らした。
「これは……竜宮のようじゃ!」
月光に照らされた皓皓たる朱色の御殿、無数の篝火に浮かび上がる広大な庭に芳乃の足は駆け出し、楼門と御殿を繋ぐ朱の橋を飛び越えた――途端、耳元に生暖かいものが触れた。
「……ぞよ」低い男の声だ。ハッキリとは聞き取れなかったが、息が触れる程の近さに寄られたことが信じられなかった。何せ人の気配など全く無かったのだから。
総毛立つ思いを堪え、背後を勢いよく振り返る。人魂のような明かりに浮かび上がるのは、束帯姿の人の良さそうな殿上人。耳元で囁かれた筈が、男は芳乃の影――丁度、頭を踏む距離にあった。
芳乃は自身の行動を後悔した、立派な御殿に無断で侵入するなど殺されても文句は言えない、この男は御殿の主なのだろう――と。
ひれ伏し、命乞いを……と思いきゃ、束帯の男は静かに笑った。
「聞こえなかったか?」
「え?」
「慌てて駆け出すと危ないぞよ、と申した」
「あ……申し訳ありません」
不審な女が立ち入ったというのに、警護の者を呼びつけもしない。芳乃はもう一度、月明かりに照らされた男を仰ぎ見たが、その背後にもう一人佇んでいることに気がついた。
金糸が織り込まれた豪華な羽織を身に付け、袴は濃きと呼ばれる、黒に近い紫。見るからに、やんごとない者であった。
しかし、病を得ているのか顔色が悪い。
「さ、さ、こちらへ」
「え?しかし……私はこのような立派なお屋敷に足を踏み入れて良い者では……」
芳乃は、身分が――と口にしかけたが、やんごとない者達は顔を見合せ、噛み殺すように喉を鳴らす。何が可笑しいのやら笑っているのだ。束帯の男が言う「ここは、そなたが主のようなものじゃ」と。
濃き袴の男が続けた「ここは、そなたが夢見た場所だ」と。
意味がわからない――と思うが、やんごとない者に口答えが許されるわけもなし、と芳乃は理解したふりをした。
「誰か来た」
薄氷を打ち砕くような振動と裂ける音に、女は口元に含ませかけた胡桃をピタリ、と止めると、眼前に座る男にひたと視線をあてた。美しい眼は、蝋燭の火先を思わせる朱をチロチロと揺らめかせ、顎をしゃくる。
玉水のような瑞々しい紅が動かずとも、女が言いたいことはハッキリと態度に出ていた。
「わざわざ迎えに出なくても勝手に上がってくるだろう」
顎で使われかけた男は、事も無げに結論づける。その答えに女は小首を傾げてみせるが直ぐに「それもそうじゃな」とだけ漏らし、何事もなかったように、二人して胡桃を口にした。
几帳の生絹は、庭先から吹き込む夜風に撫でられ、軽やかに揺れる、その風に誘われる様に目を向けた女は、眉間に描かれた紅の花鈿に悩ましげに指先をあてた。
腕を伸ばし、庭先に突き出た渡殿を指さすと、腕に掛かる領巾は生絹と同じく優しげに揺れるが、次の瞬間、舌を打つ音と共に漏れた女の声音は、そよぐ領巾の優美な様とも、鮮やかなる朱色の屋根を持つ御殿の絢爛さとも、全くそぐわないものだった。
「面倒なこと。朱の御殿など……此度のモノは都と近しい者であろうか?」
「さぁ、ここは訪れ人の記憶で再現されるからなぁ。帝に近しいのやら、ただ単に都に憧れているのやら……」
皓皓と浮かび上がる朱の御殿に、ゆらゆらと水面に揺れる月影。男は微笑み女を振り返る、
「朧殿、先日の朽ちかけた小屋よりマシではないか」
「あれは、訪れ人がどうかしておったのだ。懐かしく夢を見る場所が、すきま風が吹き込む小屋などと……そう考えると響殿、此度の訪れは、やんごとない殿上人やもしれぬぞ?」
「ここには、一人殿上人がおったではないか、気が合うやもしれぬな――あ、早速出迎えに行ったようではないか?」
響は、ふと視線を東に向けた。そこには広々とした廊下が広がるのみだが、双眸は先まで見渡しているように微動だにしなかった。朧は又しても顎をしゃくると鼻で笑って見せた、瑞々しい紅に沿わせるように舌を這わせるとボソリと漏らす――
「菅公の政敵だったら面白いのだが」
◆◆◆◆◆
靄が晴れた途端、見たこともないような風景が広がる様に芳乃は、瞼を瞬かせる。
光輝く漆喰の白壁は、見渡す端まで長く伸び、正面に構えられた楼門は、立派な朱色の屋根に金で何かの形を型どった飾りが乗せられていた。
「あれは……何であろうか?」
芳乃は、金で型どられた物を凝視した。靄はすっかり晴れたが、宵ということもあり月光だけではハッキリと捉えることが出来ないのだ。
鳳凰か――?
そう考えれば、すんなりと納得出来た。これ程の御殿には鳳凰しか考えられないと。
その時、視界の端に閃光を伴う熱を感じた「あ!あれは!?」思わず一人で叫ぶ形となったのだが、それもその筈、長く続く塀に沿うように等間隔を空け、突然火の手が上がったのだ。
しかし、可笑しなことに人が松明を持ち篝火を焚いたわけでもない、言葉で説明するのであれば、誰もいない場所に一斉に明かりが灯ったのだ。それも火種などない、暗闇を照らす炎は例えるならば、人魂のように独りでに浮かび、燃え盛っているのだ。
芳乃を迎え入れるように、人魂のような物は漆喰の長塀を沿い、御殿内に侵入した。
見上げる二階建ての門は、漆喰塗りで、その中央をくり貫かれ通路を開いている、ご丁寧に明かりを灯された芳乃は躊躇することなく足を踏み出した。
洞窟のような門を潜ると、大きな池に朱色の橋が掛かり、その先には立派な御殿。思わず感嘆の声を漏らした。
「これは……竜宮のようじゃ!」
月光に照らされた皓皓たる朱色の御殿、無数の篝火に浮かび上がる広大な庭に芳乃の足は駆け出し、楼門と御殿を繋ぐ朱の橋を飛び越えた――途端、耳元に生暖かいものが触れた。
「……ぞよ」低い男の声だ。ハッキリとは聞き取れなかったが、息が触れる程の近さに寄られたことが信じられなかった。何せ人の気配など全く無かったのだから。
総毛立つ思いを堪え、背後を勢いよく振り返る。人魂のような明かりに浮かび上がるのは、束帯姿の人の良さそうな殿上人。耳元で囁かれた筈が、男は芳乃の影――丁度、頭を踏む距離にあった。
芳乃は自身の行動を後悔した、立派な御殿に無断で侵入するなど殺されても文句は言えない、この男は御殿の主なのだろう――と。
ひれ伏し、命乞いを……と思いきゃ、束帯の男は静かに笑った。
「聞こえなかったか?」
「え?」
「慌てて駆け出すと危ないぞよ、と申した」
「あ……申し訳ありません」
不審な女が立ち入ったというのに、警護の者を呼びつけもしない。芳乃はもう一度、月明かりに照らされた男を仰ぎ見たが、その背後にもう一人佇んでいることに気がついた。
金糸が織り込まれた豪華な羽織を身に付け、袴は濃きと呼ばれる、黒に近い紫。見るからに、やんごとない者であった。
しかし、病を得ているのか顔色が悪い。
「さ、さ、こちらへ」
「え?しかし……私はこのような立派なお屋敷に足を踏み入れて良い者では……」
芳乃は、身分が――と口にしかけたが、やんごとない者達は顔を見合せ、噛み殺すように喉を鳴らす。何が可笑しいのやら笑っているのだ。束帯の男が言う「ここは、そなたが主のようなものじゃ」と。
濃き袴の男が続けた「ここは、そなたが夢見た場所だ」と。
意味がわからない――と思うが、やんごとない者に口答えが許されるわけもなし、と芳乃は理解したふりをした。
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