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幽冥竜宮
導き
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朝には紅顔ありて
夕には白骨となれる身なり。
【御文章】
――――――
天を仰げば、紅霞を眺めることが出来る刻限だが今は、立ち止まり空を見上げても紅霞はおろか、その雲を染める夕日さえも拝むことは出来なかった。
見上げる女の視界は覆い被さる木々に遮られ、耳朶を打つはずの鳥の囀りさえ聞こえない。
何刻程、歩いただろうか?
何処へ向かっているのかさえ、おぼろ気になる程の時間が経過したようにも思えた。
女は、年の頃十七、八。
踏み出すのも億劫になってきた重い足は、草履を引きずるように進む。顔も手足も薄汚れ、擦り切れた小袖の端々は言うに及ばず、人の目に映る部分はお世辞にも誉められたものではない。
ただ一つ、卯の花色の帯だけが光沢を放つ。一式の衣が帯と同等であれば女は差し詰、上﨟女房と遜色違わないだろう。
ただ哀しいかな、上﨟とは程遠い身形であった。
女は、畦道の脇にある石に腰を下ろした。ぼんやりと地面に視線を落とす、何かあるわけではない、ただ単に眼は乾いた土を映すのみである。
女は、ここに至るまでのやり取りを思い返していた。
◆◆◆◆◆
「芳乃様、最近物思いにふけっておられるが不可思議な悩み事ならば、ホレ!山の御殿に行ってみるといい」
「御殿?山の中にそのような物あるわけ……」
芳乃と呼ばれた女は、言葉が終わる頃にはハッ……と小さく息を吐いた、世迷い言を――そう顔に出して。
山にある小屋ならば分かる、だが目の前の男は御殿と言った。そのような物あるわけがない。
真剣に悩んでおるのに――、芳乃は男を軽く睨み付けた。
「まぁまぁ、気休めと思うて貰っても。もしハズレだとしても戻り次第、この太郎を叩いてくれても恨みはせぬよ」
太郎は、肩をすくめ坊主頭を叩いてみせた。こまめに剃っているのだろう、つるんとした頭皮はペシペシと軽快になり、芳乃はその音に楽しげな声を上げるのだが、軽快な音を鳴らす太郎の頭には、つむじから右眉に向かって斜めに伸びる傷が痛々しく残っていた。
乱闘にでも巻き込まれたのだろうか――?
芳乃は、じっとその傷を眺めた。
当然不躾とも言うべき視線なのだが太郎は、気にもしていないらしい。人の良い笑顔を見せ、言葉にこう付け加えた。
「御殿には、たどり着く者と着けない者がおるらしい。そこには主がいて世の中の理、すべてを見透かすような能力があるそうだ」
そんな馬鹿な……、と思うものの芳乃は黙り太郎を見返す。太郎は芳乃の後ろへ伸びる畦道を指差した。
長く続くように見える道は、何の変哲もない畦道だ。大八車は通れないが人は難なく進むことが出来る。
芳乃は、太郎の指差す行く手に視線を向けた。鬱蒼と茂る木々の中を、くり貫くように突き抜ける一本道、太郎が静かに呟く
「ずっと真っ直ぐじゃ、なぁに心配はいらん。脇道などない、ひたすら歩くと辿り着く。しかし辿り着くことが出来ぬ者もおる」
「辿り着けねば、私はどうなるのじゃ?ひたすら歩いて知らぬ土地に辿り着くのか?冗談ではない」
芳乃は眦を上げ、一気に不満を口にするが、太郎は口許に笑みを称え、首を振る。
「辿り着けぬ者は、家の前に戻ってきてしまうそうじゃ……と言うわけじゃ、心配事があるのならば騙されたと思って出掛けてみても良いのではないか?」
そう告げる太郎の顔は、濃い影を面に受け、三日月のように細い双眸も、静かな声音を吐く薄い唇も、芳乃は捉えることが出来なかった。
ただ、風に散る木々の葉音と共に、太郎の読経のような低い声音が耳朶を撫でる。
「二陪織物……いや、その卯の花の帯の事、きっと思い出せるであろう」
「帯……?」
芳乃は、視線を落とした。左腹の上で大きく結われた蝶々は片側のみ長く垂れ下がる、一見何の変哲もない物だ。
「太郎どん、私は帯のことなど……太郎どん?」
面を上げた芳乃の眼前には太郎の姿はなく、ただの畦道が広がり、風に吹かれ騒がしく鳴る木々の葉が散らばるのみであった。
芳乃は、唾を呑み込んだ、突然姿を消した太郎の行方も去ることながら、真っ直ぐに伸びる畦道にジリジリと足が向かう。
馬鹿な世迷い言だと思いながらも、どうにも心惹かれてならないのだ。
ええい!ままよ!
一抹の不安はあったが、それ以上に成り行きに任せてみたい気分でもあった。芳乃は勢いに任せ、太郎が指し示した方角へ踏み出した。
しかし、いくら歩いても似たような風景が繰り返されるだけで、人はおろか、獣にも行き当たらない。
これは、いよいよもって太郎に担がれたか?と疑念を抱き、石に腰かけた所だった。
「はて?そもそも私は、何をしに参るのだったか?」
芳乃は、はたと考え込んだ。太郎は悩み事を相談と言った、そして帯のことを思い出せると。
皆目検討もつかない、芳乃は悩みもなければ帯のことなど、どうでも良かったのだから。
「はて?そもそも太郎とは……」
視線を上げた芳乃は黙り立ち上がった。石に腰を掛けるまでは、確かに先へ伸びる畦道があり、それを隠すように木々が覆い被さっていた。
それがどういうわけか、自身が立つのは畦道ではなく、幅の広い大路であり、覆い被さる木々どころか木の一本さえもない。
眼前は、烟嵐に遮られ、ぼんやりとしているのだが、それも一瞬のことだった。
立ち上がった芳乃の行く手を導くように、靄はみるみるうちに晴れ、それと同様に芳乃の眼が見開かれた。
太郎に声を掛けられたのは、七つ半だ。道具箱を抱え家路を急ぐ職人や天秤棒を担ぐ行商人とすれ違ったのだから間違いはない。
それから、ひたすら歩いて来たのだ。覆われていた為、目にはしていないが確実に陽は落ちる頃合いである、にも関わらず靄が晴れた芳乃の眼前には、真赭の衣を纏う一天ではなく、妙に艶のある黒漆の空と皓皓たる月夜に浮かび上がる朱の御殿、
「どうなっておるのじゃ?」
黙々と歩いたとて、さすがに夜が更ければ気付くというもの。息を呑み、呟く芳乃の頭上には、緋色の平家星が鈍く輝いていた。
夕には白骨となれる身なり。
【御文章】
――――――
天を仰げば、紅霞を眺めることが出来る刻限だが今は、立ち止まり空を見上げても紅霞はおろか、その雲を染める夕日さえも拝むことは出来なかった。
見上げる女の視界は覆い被さる木々に遮られ、耳朶を打つはずの鳥の囀りさえ聞こえない。
何刻程、歩いただろうか?
何処へ向かっているのかさえ、おぼろ気になる程の時間が経過したようにも思えた。
女は、年の頃十七、八。
踏み出すのも億劫になってきた重い足は、草履を引きずるように進む。顔も手足も薄汚れ、擦り切れた小袖の端々は言うに及ばず、人の目に映る部分はお世辞にも誉められたものではない。
ただ一つ、卯の花色の帯だけが光沢を放つ。一式の衣が帯と同等であれば女は差し詰、上﨟女房と遜色違わないだろう。
ただ哀しいかな、上﨟とは程遠い身形であった。
女は、畦道の脇にある石に腰を下ろした。ぼんやりと地面に視線を落とす、何かあるわけではない、ただ単に眼は乾いた土を映すのみである。
女は、ここに至るまでのやり取りを思い返していた。
◆◆◆◆◆
「芳乃様、最近物思いにふけっておられるが不可思議な悩み事ならば、ホレ!山の御殿に行ってみるといい」
「御殿?山の中にそのような物あるわけ……」
芳乃と呼ばれた女は、言葉が終わる頃にはハッ……と小さく息を吐いた、世迷い言を――そう顔に出して。
山にある小屋ならば分かる、だが目の前の男は御殿と言った。そのような物あるわけがない。
真剣に悩んでおるのに――、芳乃は男を軽く睨み付けた。
「まぁまぁ、気休めと思うて貰っても。もしハズレだとしても戻り次第、この太郎を叩いてくれても恨みはせぬよ」
太郎は、肩をすくめ坊主頭を叩いてみせた。こまめに剃っているのだろう、つるんとした頭皮はペシペシと軽快になり、芳乃はその音に楽しげな声を上げるのだが、軽快な音を鳴らす太郎の頭には、つむじから右眉に向かって斜めに伸びる傷が痛々しく残っていた。
乱闘にでも巻き込まれたのだろうか――?
芳乃は、じっとその傷を眺めた。
当然不躾とも言うべき視線なのだが太郎は、気にもしていないらしい。人の良い笑顔を見せ、言葉にこう付け加えた。
「御殿には、たどり着く者と着けない者がおるらしい。そこには主がいて世の中の理、すべてを見透かすような能力があるそうだ」
そんな馬鹿な……、と思うものの芳乃は黙り太郎を見返す。太郎は芳乃の後ろへ伸びる畦道を指差した。
長く続くように見える道は、何の変哲もない畦道だ。大八車は通れないが人は難なく進むことが出来る。
芳乃は、太郎の指差す行く手に視線を向けた。鬱蒼と茂る木々の中を、くり貫くように突き抜ける一本道、太郎が静かに呟く
「ずっと真っ直ぐじゃ、なぁに心配はいらん。脇道などない、ひたすら歩くと辿り着く。しかし辿り着くことが出来ぬ者もおる」
「辿り着けねば、私はどうなるのじゃ?ひたすら歩いて知らぬ土地に辿り着くのか?冗談ではない」
芳乃は眦を上げ、一気に不満を口にするが、太郎は口許に笑みを称え、首を振る。
「辿り着けぬ者は、家の前に戻ってきてしまうそうじゃ……と言うわけじゃ、心配事があるのならば騙されたと思って出掛けてみても良いのではないか?」
そう告げる太郎の顔は、濃い影を面に受け、三日月のように細い双眸も、静かな声音を吐く薄い唇も、芳乃は捉えることが出来なかった。
ただ、風に散る木々の葉音と共に、太郎の読経のような低い声音が耳朶を撫でる。
「二陪織物……いや、その卯の花の帯の事、きっと思い出せるであろう」
「帯……?」
芳乃は、視線を落とした。左腹の上で大きく結われた蝶々は片側のみ長く垂れ下がる、一見何の変哲もない物だ。
「太郎どん、私は帯のことなど……太郎どん?」
面を上げた芳乃の眼前には太郎の姿はなく、ただの畦道が広がり、風に吹かれ騒がしく鳴る木々の葉が散らばるのみであった。
芳乃は、唾を呑み込んだ、突然姿を消した太郎の行方も去ることながら、真っ直ぐに伸びる畦道にジリジリと足が向かう。
馬鹿な世迷い言だと思いながらも、どうにも心惹かれてならないのだ。
ええい!ままよ!
一抹の不安はあったが、それ以上に成り行きに任せてみたい気分でもあった。芳乃は勢いに任せ、太郎が指し示した方角へ踏み出した。
しかし、いくら歩いても似たような風景が繰り返されるだけで、人はおろか、獣にも行き当たらない。
これは、いよいよもって太郎に担がれたか?と疑念を抱き、石に腰かけた所だった。
「はて?そもそも私は、何をしに参るのだったか?」
芳乃は、はたと考え込んだ。太郎は悩み事を相談と言った、そして帯のことを思い出せると。
皆目検討もつかない、芳乃は悩みもなければ帯のことなど、どうでも良かったのだから。
「はて?そもそも太郎とは……」
視線を上げた芳乃は黙り立ち上がった。石に腰を掛けるまでは、確かに先へ伸びる畦道があり、それを隠すように木々が覆い被さっていた。
それがどういうわけか、自身が立つのは畦道ではなく、幅の広い大路であり、覆い被さる木々どころか木の一本さえもない。
眼前は、烟嵐に遮られ、ぼんやりとしているのだが、それも一瞬のことだった。
立ち上がった芳乃の行く手を導くように、靄はみるみるうちに晴れ、それと同様に芳乃の眼が見開かれた。
太郎に声を掛けられたのは、七つ半だ。道具箱を抱え家路を急ぐ職人や天秤棒を担ぐ行商人とすれ違ったのだから間違いはない。
それから、ひたすら歩いて来たのだ。覆われていた為、目にはしていないが確実に陽は落ちる頃合いである、にも関わらず靄が晴れた芳乃の眼前には、真赭の衣を纏う一天ではなく、妙に艶のある黒漆の空と皓皓たる月夜に浮かび上がる朱の御殿、
「どうなっておるのじゃ?」
黙々と歩いたとて、さすがに夜が更ければ気付くというもの。息を呑み、呟く芳乃の頭上には、緋色の平家星が鈍く輝いていた。
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