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1 店主の日常

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 10時を過ぎた。

 本来ならそろそろ店を閉めたい時間なのだが、多分閉めたら怒られる。と言うか、明日の朝には店の前に死体が転がっているかもしれない。さすがにそれはマズい。

 さほど待つこともなく、建てつけの悪い引き戸が今にも崩壊しそうな危険な音とともに開かれ、一人の常連客が入ってきた。

「センパイ、おなかすいた……」

 可聴領域の下限ぎりぎり、かろうじて聞き取れる掠れた声とともに入ってきたのは、この店にとって特別な常連客である橘美咲だった。いつものようにガス欠寸前のポンコツっぷり全開の姿からはバスケットでそれなりに名を知られた選手だとは想像しづらい。

「今日は何にするんだ?」

「生姜焼きがいいです。ロースじゃなくて、小間肉がいいです」

「はいよ、座って待ってな」

 だいたい予想通りのリクエストだ。小間かロースか迷ったが、下ごしらえは両方してあったので問題ない。

 熱したフライパンに酒と塩胡椒で下味をつけた豚の小間肉ーーこいつは脂身を好むくちなので、脂多めにしてあるーーを定量の二倍放り込む。すぐに肉の焼ける香ばしい匂いが店内に満ちる。

 カウンターに突っ伏していた美咲の顔が上がった。もうすぐ食事にありつけるという期待からか、表情に生気が戻ってきた。

 火の通ったタイミングで醤油と味醂、たっぷり目のすりおろし生姜で作ったタレを投入する。

 じゃあああああっ

 この瞬間の音と匂いは何物にも代えがたい。暴力的なまでに食欲を刺激する。この段階で、美咲の目は獲物を狙う飢えた獣のそれに近くなった。

 火の通し加減を完璧に調節し、先にせんキャベツとポテトサラダを盛り付けておいた皿に肉を山積みにする。

 丼飯と豚汁を準備すれば、豚の生姜焼き定食の完成だ。

「はいよ、おまち」

 料理の乗ったお盆を美咲の前に出す。

「いただきます!」



「いただきます!」

 豚汁を一口すする。肉と野菜の旨味がたっぷりと染み出した汁は空腹を刺激して、メインディッシュたる生姜焼きへの期待を高めてくれる。

 野菜から食べた方が血糖値が上がりにくくなっていい、という話は聞いたことがあるが、食事は理屈じゃない。美味しいか美味しくないか、それが全てだ。

 箸で掴めるだけの肉を一気に頬張る。

 間髪入れず白飯。これも掴めるだけイク。


 至福……


 今、あたしの口の中はパラダイス。

 生姜焼きと白飯が互いを高め合って胃袋にこれでもかと痛撃を加えてくる。

 多分今鏡を見たら、リスみたいなほっぺたになっているんだろうけど、知ったこっちゃない。

 肉、肉、飯、肉、肉、飯ーーーー

 リズムに乗ると、いくらでも食べれそうな気がしてくる。

 これは先輩がいけないと思う。先輩の料理ーー特に肉料理ーーが美味しすぎるのがいけないんだ。

 先輩の料理を初めて食べた時の衝撃は今でも忘れられない。

 この世にこんなに美味しいものがあるのか、と本気で思った。

 あんまり言いたくないけど、普通より裕福な家なので、食べるものもそれなりに良いものを食べているはずだけど、そのどれもが霞んでしまうほど、先輩の料理は飛び抜けていた。

 不思議なことに先輩の店は流行っているとは言い難い。こんなに美味しいのに、なんでだろう? あたしの舌に特別合うということなのだろうか? それならそれで一向に構わないけど。

 お皿の上の生姜焼きが少なくなってきた。追加の注文をしようと思ったら、先輩は既に調理に取り掛かっていた。メニューはハンバーグ。流石、よくわかっていらっしゃる。ここまであたしのことをわかってくれる人は、他にはいない。

 付け合わせまできれいに食べ終わるのと同時に鉄板でじゅうじゅうと美味しそうな音をたてるハンバーグが出てきた。普通にお店で出しているサイズよりも大きなものが二枚。嬉しい。

 この音、この匂い。暴力的に食欲を刺激してくる。

 絶妙な固さに焼き上げられたハンバーグは、箸でさっくり割れる。そこから溢れ出てくる肉汁は、最早芸術だ。

 小さく切った一口だけでも、口の中が肉汁で満たされる。ハンバーグは肉汁を楽しむ料理だというのは、先輩が教えてくれたことだ。

 肉、肉、肉、肉、肉、飯、肉、肉、肉、肉、肉ーー

 ハンバーグは、生姜焼きと比べてご飯のおかずとしては弱い、とあたしは思っている。あくまでも個人的な意見なので押しつける気はないが、単品で食べてもいいと思う。だから、生姜焼きと比べてご飯の割合は少なくなる。

 一枚目が終わった時点で先輩に目で訴える。

 まだ足りない。

 苦笑いしながらも、先輩の手は忙しく動いている。これなら大丈夫だと、安心して二枚目に取り掛かる。

 一日で一番楽しみな時間はまだ始まったばかりだ。しっかり堪能しなくっちゃ。
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