甘いSpice

恵蓮

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甘い愛に心ごと満たされて

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――春……。


少し寝坊した私は、左手首に嵌めた腕時計と睨めっこしながら、トーストを口に咥えて出かける準備をしていた。
毎朝点ける朝の情報番組は、ほとんどタイムスケジュール感覚で眺めているだけ。
いつもは見ることのない占いコーナーを目にして、焦りが助長される。
私は、バタバタと勢いよくクローゼットを開けた。


半分ほど食べ終えたトーストを、無理矢理口に押し込む。
頬をパンパンに膨らませながら、今日はどれを着て行こうかと吟味して、ハンガーに吊るした服に視線を一往復させた。
手に取ったのは、春らしいピンクベージュのワンピース。
今日は仕事で新しい取引先の担当者と会う予定がある。
いつもよりちょっとしっかりめを意識してセレクトしたワンピースを着て、両手を後ろに回してファスナーを上げる。
その途端――。


「っ……」


背中の途中くらいまで上げて、いつまで経っても消えない記憶が蘇り、私は中途半端に手を止めてしまった。
思わず顔を伏せ、高鳴りそうになる動悸を抑えるために、大きく肩を上下させて息を吐く。
その時、テレビから今日の占いを読み上げるアナウンスが聞こえてきた。


『第三位は蟹座のあなた。春らしい、新しい出会いがある予感。好印象GETのために、いつもより念入りにお洒落を!』


それを聞いて、思わず『はは』と笑う。
お洒落のつもりはない。
ただ、この間買ったばかりのワンピースを、お披露目するいい機会だと思っただけ。
占いにそんな言い訳をして、私は止めていた手を動かし、ファスナーを上げた。


一度姿見に全身を映し、誰にともなく『よし』と頷く。
テーブルの上からリモコンを手に取り、テレビを消した。
そして、いつも使っているショルダーバッグを肩に下げ、家を出る。
途端に、春らしい優しい日光に目が眩んだ。


先月、春夏新製品が発売された。
私がメインで担当している広報マン・東雲(しののめ)さんは、すぐ次の秋冬モデルの企画に取りかかっている。
脩平とは違って、とても温厚でいつも穏やかな人だ。
だけど、東雲さんはどこか型に嵌った優等生的な広告を創る人で、厳しく言えば斬新さに欠ける。
脩平から引き継いだ、春夏のリップスティックの広告も万人受けした。
おかげでそこそこの売れ行きに繋がったものの、上層部からは『大人しく、独創性がない』と手厳しい評価を受けてしまった。


そんな東雲さんが発奮して、秋冬モデルの広告に向けて、『これまでのやり方を全面的に見直す』と言い出した。
その流れで、新規の広告エージェンシーと提携することになった。
聞いたことのない会社名。
今日、私も初めて先方と顔を合わせる。


駅までの道を小走りで急ぎながら、さっきの占いが頭を過ぎる。
新しい出会い。うん、確かにそうだ。
どんな出会いになるかは未知数だけど、次の企画が上層部にも評価されるものになればいい。


「好印象……か」


駅のホームに立ち、滑り込んでくる電車の窓に映る自分を眺め、ポツリと独り言を漏らした。
けれど、思い耽っている間もない。
私は後ろから押されるようにしていつもの満員電車に乗り込む。
心の奥底で、新しいワンピースが皺にならなければいい、なんて思った。



先方との約束は、お昼を終えてすぐの午後一時。
これまでずっと、東雲さんがやり取りをしていたから、実は私は、お会いする担当者の名前をまだ知らない。


タクシーが停まったのは、小洒落た一軒家だった。
先に外に降り立った私は、わずかに戸惑い、怯んでしまった。
どう見ても、ここにオフィスがあるとは思えなかったからだ。
そんな私を見遣り、東雲さんはちょっと面白そうに笑った。


「実は、独立起業して、フリーランスで活動している広報マンなんだ」

「フリーランス?」


門の横のインターホンの前に立った東雲さんが説明してくれて、私は短く聞き返す。


「そう。会社は設立したばかりだけど、これまでの実績は申し分ない。人脈のある人で、彼がフリーランスになった途端、大企業からもオファーがあった。メーカーだけじゃなくあらゆる分野に幅を広げて、多様な媒体に進出してるんだよ」

「そう……なんですか」


東雲さんがインターホンを押すのを、私は緊張しながら見つめていた。
彼の説明から受けた印象は、どこか私もよく知る広報マンを彷彿とさせて、ドキドキと落ち着かない気分に駆られたせいだ。


「ここは、彼のオフィス兼住居。……いい生活だよなあ。都心からも近い一等地に、こんな立派な一軒家、在宅勤務。悠々自適ってこういうことか。僕も彼みたいな広報マンになりたいもんだよ」


応答を待つ間、東雲さんはボヤくようにそう言った。
インターホンから応答が聞こえると、モニターを気にしたのか、シャキッと背筋を伸ばす。


「お世話になっております。一時にお約束しておりました、東雲です」


それに対して、『どうぞ』と短い返事が私にも聞こえてきた。
その低い声が瞬時に耳をくすぐり、ドクンと大きく胸が跳ねるのを感じた時、格子の門が自動で開いた。


「さ、行くよ」


反射的に怯んだ私を気にせず、東雲さんは颯爽と先に歩いていく。


「あ」


遅れをとってしまい、慌てて足を踏み出した私は、少し先で玄関のドアが開くのを見た。
そこに、ざっくりしたニットにブラックデニム姿の男性を見つけて、さらに大きく胸が跳ね上がる。


「東雲、久しぶり」

「郡司さん! ご無沙汰してます」


明るく呼びかけられた東雲さんが、弾むような足取りで玄関に駆けていった。
私はあまりの驚きでその場に立ち尽くしてしまう。
けれど。


「……若槻さんも、久しぶり。今日はご足労いただき、ありがとう」


東雲さんの横を通り過ぎ、私を出迎えるように優雅に手を差し伸べてくれる。


「お、久しぶり、です」


反射的にその手を取り、挨拶を返した声が、喉に引っかかってわずかに掠れた。
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