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「勘太郎様!」

宮子に見送られ、勘太郎の元へと向かう沙雪。気が急いているせいなのか履きなれて革も柔らかくなっているはずのブーツがやたらと重く感じる。
それでも勘太郎の姿がはっきりと見え、声が届く程度まで近づいたところで彼を呼ぶ。

「沙雪…」

駆けてくる沙雪の姿を認めれば、読んでいた本を閉じて凭れていた門の柱から背を離し、沙雪に向かい両手を広げた。

「……っ」

そんな勘太郎に一瞬きょとんとするも、その意図を掴み、笑みを深くし勘太郎へ一直線に走りよりそのまま抱きついた。
途端に、校庭と校舎の至る所から黄色い悲鳴が聞こえたが、構うものかと勘太郎も沙雪を抱き留め、そのままきつく抱きしめる。

「沙雪…まさか君が飛び込んできてくれるなんて……」
「勘太郎様の笑顔に引き寄せられてしまったんです。それに…」

呟き、言葉を止める。
勘太郎の温もりに少しでも触れられれば昨夜の恐怖を忘れられるような気がしたのだ。
沙雪のそんな思惑は叶い、恐怖は薄らいだ。だがそれと同時に、勘太郎の温もりと抱きしめてくれる腕が優しすぎて、反対に酷く切ない思いにも駆られてしまった。
この人に捧げたいと思ったものを、望まぬ形で奪われてしまった。
そんな後ろめたい気持ちが押し寄せ、沙雪は勘太郎の胸をそっと押して僅かに離れた。

「沙雪…?」

何かあったのかと勘太郎が沙雪の顔をのぞき込む。そんな勘太郎に心配をかけまいと、笑みを浮かべて沙雪は首を振ってから口を開いた。

「勘太郎様、今日はお互いに学校でしたから待ち合わせはいつものカフェーだと思っていたのですけど…」

小首を傾げながら呟く沙雪に、ああ、と頷いてから勘太郎もまた頷く。

「うん、そのはずだったんだけど…。午後からとっていた講義が休講になってしまってね。待ち合わせまで結構時間が出来ちゃったんだよ。ならばいち早く沙雪の元へ馳せ参じようと思ってね。それに…」

そう呟きながら首を傾げる沙雪の頭にそっと手を置き、そのまま頬へその大きな手を滑らせ、親指で頬を撫でる。

「それに、何だか沙雪に呼ばれてる気がしてね」

勘太郎の手のひらの動きと言葉に思わず耳まで真っ赤になってしまう。
全くもってその通りなのだ。
昨夜のことがあってから、沙雪はずっと勘太郎に早く会いたいと思っていた。ずっと焦がれていた。
早くその笑顔を見て、その声を聞きたいと思いを募らせていたのである。
いざ本人を目の前にしたらば、募った思いが溢れ出て、つい抱きついてしまったのが先程だ。
勘太郎に焦がれている気持ちはどこにも吐露していないはずなのに、勘太郎本人にあっさりと届いてしまっていた事が、大きな喜びと同時に気恥しさも生んでいた。

「沙雪…?」
「ありがとうございます。勘太郎様…うれしい…」

小さく、それでもはっきりと目を合わせて言ってくれる沙雪に、勘太郎もまた堪らず沙雪の肩を引き寄せ再度抱きしめる。
沙雪が勘太郎に焦がれているならば、勘太郎だってもしかしたら沙雪以上に沙雪に焦がれているかもしれない。
見送ったその瞬間から既に次の約束は待ち遠しく、会えたならば離れたくなくなってしまうのだから。
その愛しさを、恋しさを伝える様にきつく抱きしめる。

「か、勘太郎様…皆が見てます…っ」

恥ずかしそうに言ってはいるものの、沙雪の腕もしっかりと勘太郎の背に回っている所がなんとも愛らしい。

「ん、そろそろ行こうか。いつものとこ。視線が痛いし騒がしさが尋常じゃないから、そろそろ先生方が鬼の形相で飛び出してくるかもしれない」

文明開化と言われても、未だ古くからの慣習は抜けないものである。
“男女七歳にして席を同じうせず”
今の学生たちですら、親の言いつけ通り、見合いすらせず初対面で結婚する者も少なくない。
くすくす笑いながら勘太郎は沙雪からそっと離れ、僅かに乱してしまった髪を整えてから、今度は彼女の手を引いた。
勘太郎が沙雪を見れば、またも勘太郎の意図をくみ取った沙雪が同じようにくすくす笑い頷く。
そして二人は手に手を取り走り出した。
今日はブーツにしてよかった。
さっき重く感じていたブーツは、信じられないほど軽く感じ、沙雪は確りと勘太郎の手を握り返し、悪戯な笑みを浮かべ合いながら共に走り去るのであった。
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