125 / 206
第3部 仇(あだ)
83:生存者 終話
しおりを挟む
(前注:バハールは春を意味する。
アリーの名は第4代にして最後の正統カリフにちなむ。
オマルは、第2代正統カリフのウマルにちなみ、これをトルコ語式に呼んだもの。
ハーリドは永遠を意味する)
隊商の唯一の生き残りであるアリーについては、走り出す少し前の時点に戻り、語ることにしよう。
サマルカンドは平静を取り戻りつつあり、そして未だ少ないとはいえ、人々の往来もあった。
アリーには、全てがあやまちの如くに想われた。祖父がオマル隊長に己を薦めてくれたことも。オマル隊長がカンに仕えたことも。カンがホラズムに隊商を発したことも。
(どうして、祖父は・・・・・・。どうして、オマル隊長は・・・・・・。どうして、カンは・・・・・・。
そして、どうしてハーリドはあの時、あんなことを言ったのだろう。己に子がいるなんて)
長らく一家の者を、何より妻の身を案じておった。しかし安易に戻ることはできなかった。下手に戻っては、皆に迷惑がかからぬとも限らなかった。己が虐殺されたあの隊商におったとホラズム政府の官の知るところとなれば、どうなってしまうか。あのようなことの後である。自ずと恐れの想いは強かった。
それがようやく戻って来られたのである。サマルカンドがカンの軍に破壊される前に自ら降伏したゆえ、徹底的な破壊と略奪はまぬがれたと聞いた時は心底からホッとした。
しかし実際に到着し、外城の城壁があらかた破壊されたのを見た後は、あの話は果たして本当であったのかとの疑念が湧き上がり、走って自らの家を目指した。
雨が降らぬゆえに舞い上がる砂と、街中を巡る水路を流れるサラサラとの水音は旧日のサマルカンドの夏そのものであったが、それにひたれる心の余裕が今のアリーにあろうはずもない。
己の街区に戻り、家々が残っておるのを見て、初めてほっとした。それでも走って向かう。辿り着き戸口で呼びかけると、弟の声を忘れたとでもいうのだろうか、警戒心もあらわな硬い兄の声がした。
「アリーだよ。兄さん。開けてくれよ」
と呼びかけると、ようやく顔を見せてくれた。すると急な階段を転げ落ちないかと心配せねばならないほど、慌てて一家の者が降りて来た。昼食中であったのか、あるいは駐留しておるモンゴル軍を恐れ、外出を控えておったのか。皆そろっておった。ただ妻の顔だけが見えない。
ただいまとも無事で良かったとも言わず、「バハールはどこ」と問わざるを得なかった。
母は先ほどから、まるで己の体を現実のものかどうかを確かめる如くに、ベタベタと触っておった。
「お前。生きていたのかい」
との震える声。やつれた母の目にみるみる涙があふれた。
「オマル様の隊商は皆殺しにされたとの話を多くの人から聞いた。誰も彼もがそう言うんだ」と兄。
そしてそこから先を母が引き取った。
「そんな大事件にどうして巻き込まれたんだろう。皆でしばらく嘆き悲しんでおった。てっきり殺されたものと想いこんでね」
「母さん。バハールはどこなんだい」
アリーは想わず声を大きくした。
「これこれ。大きな声を出すもんじゃないよ。幼子が起きちまうだろう」
と涙まみれの母に叱られる。
「兄さん。子供ができたのかい。じゃあ、バハールはその面倒を見ているんだね」
「何、言ってんだ。お前。なら、俺の嫁が面倒を見て、バハールに降りて来させるよ」
とやはり涙をたたえる兄。
「そうよ。私を何だと想っているの。でも、良かった。帰って来れて。良かったよ。本当に」
と言う兄嫁もまた涙ぐむ。
「おう。みんな。アリーは知らんのだよ。見たら、びっくりするぞ」
そう父まで、声は震えておるのに、はやし立てる如くに言う。そして、母の体を己から引きはがすと、
「ほら。アリーを上に行かせておやり。ずっとここにいるのだから。この後、いくらでも一緒にいられる」
アリーは、もしかしてと想いつつ、階段を急いで上がる。
バハールがおった。腕に幼子を抱いて、あやしておった。
「ほうら。お父さんがやっと帰って来たよ。ねえ、あなたにそっくりでしょう」
アリーは、バハールに、そして自らの子に近付いた。
涙があふれ、二人の顔も良く見えない。
泣き崩れるしかなかった。
アリーの名は第4代にして最後の正統カリフにちなむ。
オマルは、第2代正統カリフのウマルにちなみ、これをトルコ語式に呼んだもの。
ハーリドは永遠を意味する)
隊商の唯一の生き残りであるアリーについては、走り出す少し前の時点に戻り、語ることにしよう。
サマルカンドは平静を取り戻りつつあり、そして未だ少ないとはいえ、人々の往来もあった。
アリーには、全てがあやまちの如くに想われた。祖父がオマル隊長に己を薦めてくれたことも。オマル隊長がカンに仕えたことも。カンがホラズムに隊商を発したことも。
(どうして、祖父は・・・・・・。どうして、オマル隊長は・・・・・・。どうして、カンは・・・・・・。
そして、どうしてハーリドはあの時、あんなことを言ったのだろう。己に子がいるなんて)
長らく一家の者を、何より妻の身を案じておった。しかし安易に戻ることはできなかった。下手に戻っては、皆に迷惑がかからぬとも限らなかった。己が虐殺されたあの隊商におったとホラズム政府の官の知るところとなれば、どうなってしまうか。あのようなことの後である。自ずと恐れの想いは強かった。
それがようやく戻って来られたのである。サマルカンドがカンの軍に破壊される前に自ら降伏したゆえ、徹底的な破壊と略奪はまぬがれたと聞いた時は心底からホッとした。
しかし実際に到着し、外城の城壁があらかた破壊されたのを見た後は、あの話は果たして本当であったのかとの疑念が湧き上がり、走って自らの家を目指した。
雨が降らぬゆえに舞い上がる砂と、街中を巡る水路を流れるサラサラとの水音は旧日のサマルカンドの夏そのものであったが、それにひたれる心の余裕が今のアリーにあろうはずもない。
己の街区に戻り、家々が残っておるのを見て、初めてほっとした。それでも走って向かう。辿り着き戸口で呼びかけると、弟の声を忘れたとでもいうのだろうか、警戒心もあらわな硬い兄の声がした。
「アリーだよ。兄さん。開けてくれよ」
と呼びかけると、ようやく顔を見せてくれた。すると急な階段を転げ落ちないかと心配せねばならないほど、慌てて一家の者が降りて来た。昼食中であったのか、あるいは駐留しておるモンゴル軍を恐れ、外出を控えておったのか。皆そろっておった。ただ妻の顔だけが見えない。
ただいまとも無事で良かったとも言わず、「バハールはどこ」と問わざるを得なかった。
母は先ほどから、まるで己の体を現実のものかどうかを確かめる如くに、ベタベタと触っておった。
「お前。生きていたのかい」
との震える声。やつれた母の目にみるみる涙があふれた。
「オマル様の隊商は皆殺しにされたとの話を多くの人から聞いた。誰も彼もがそう言うんだ」と兄。
そしてそこから先を母が引き取った。
「そんな大事件にどうして巻き込まれたんだろう。皆でしばらく嘆き悲しんでおった。てっきり殺されたものと想いこんでね」
「母さん。バハールはどこなんだい」
アリーは想わず声を大きくした。
「これこれ。大きな声を出すもんじゃないよ。幼子が起きちまうだろう」
と涙まみれの母に叱られる。
「兄さん。子供ができたのかい。じゃあ、バハールはその面倒を見ているんだね」
「何、言ってんだ。お前。なら、俺の嫁が面倒を見て、バハールに降りて来させるよ」
とやはり涙をたたえる兄。
「そうよ。私を何だと想っているの。でも、良かった。帰って来れて。良かったよ。本当に」
と言う兄嫁もまた涙ぐむ。
「おう。みんな。アリーは知らんのだよ。見たら、びっくりするぞ」
そう父まで、声は震えておるのに、はやし立てる如くに言う。そして、母の体を己から引きはがすと、
「ほら。アリーを上に行かせておやり。ずっとここにいるのだから。この後、いくらでも一緒にいられる」
アリーは、もしかしてと想いつつ、階段を急いで上がる。
バハールがおった。腕に幼子を抱いて、あやしておった。
「ほうら。お父さんがやっと帰って来たよ。ねえ、あなたにそっくりでしょう」
アリーは、バハールに、そして自らの子に近付いた。
涙があふれ、二人の顔も良く見えない。
泣き崩れるしかなかった。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。
SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。
伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。
そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。
さて、この先の少年の運命やいかに?
剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます!
*この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから!
*この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
近江の轍
藤瀬 慶久
歴史・時代
全ては楽市楽座から始まった―――
『経済は一流、政治は三流』と言われる日本
世界有数の経済大国の礎を築いた商人達
その戦いの歴史を描いた一大叙事詩
『皆の暮らしを豊かにしたい』
信長・秀吉・家康の天下取りの傍らで、理想を抱いて歩き出した男がいた
その名は西川甚左衛門
彼が残した足跡は、現在(いま)の日本に一体何をもたらしたのか
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載しています
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
三國志 on 世説新語
ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」?
確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。
それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします!
※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる