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第3部 仇(あだ)

83:生存者 終話

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(前注:バハールは春を意味する。
 
 アリーの名は第4代にして最後の正統カリフにちなむ。

 オマルは、第2代正統カリフのウマルにちなみ、これをトルコ語式に呼んだもの。

 ハーリドは永遠を意味する)



 隊商の唯一の生き残りであるアリーについては、走り出す少し前の時点に戻り、語ることにしよう。

 サマルカンドは平静を取り戻りつつあり、そして未だ少ないとはいえ、人々の往来もあった。

 アリーには、全てがあやまちの如くに想われた。祖父がオマル隊長に己を薦めてくれたことも。オマル隊長がカンに仕えたことも。カンがホラズムに隊商を発したことも。

(どうして、祖父は・・・・・・。どうして、オマル隊長は・・・・・・。どうして、カンは・・・・・・。
 そして、どうしてハーリドはあの時、あんなことを言ったのだろう。己に子がいるなんて)

 長らく一家の者を、何より妻の身を案じておった。しかし安易に戻ることはできなかった。下手に戻っては、皆に迷惑がかからぬとも限らなかった。己が虐殺されたあの隊商におったとホラズム政府の官の知るところとなれば、どうなってしまうか。あのようなことの後である。自ずと恐れの想いは強かった。

 それがようやく戻って来られたのである。サマルカンドがカンの軍に破壊される前に自ら降伏したゆえ、徹底的な破壊と略奪はまぬがれたと聞いた時は心底からホッとした。

 しかし実際に到着し、外城の城壁があらかた破壊されたのを見た後は、あの話は果たして本当であったのかとの疑念が湧き上がり、走って自らの家を目指した。

 雨が降らぬゆえに舞い上がる砂と、街中を巡る水路を流れるサラサラとの水音は旧日のサマルカンドの夏そのものであったが、それにひたれる心の余裕が今のアリーにあろうはずもない。

 己の街区に戻り、家々が残っておるのを見て、初めてほっとした。それでも走って向かう。辿り着き戸口で呼びかけると、弟の声を忘れたとでもいうのだろうか、警戒心もあらわな硬い兄の声がした。

「アリーだよ。兄さん。開けてくれよ」

 と呼びかけると、ようやく顔を見せてくれた。すると急な階段を転げ落ちないかと心配せねばならないほど、慌てて一家の者が降りて来た。昼食中であったのか、あるいは駐留しておるモンゴル軍を恐れ、外出を控えておったのか。皆そろっておった。ただ妻の顔だけが見えない。

 ただいまとも無事で良かったとも言わず、「バハールはどこ」と問わざるを得なかった。

 母は先ほどから、まるで己の体を現実のものかどうかを確かめる如くに、ベタベタと触っておった。
「お前。生きていたのかい」
 との震える声。やつれた母の目にみるみる涙があふれた。

「オマル様の隊商は皆殺しにされたとの話を多くの人から聞いた。誰も彼もがそう言うんだ」と兄。

 そしてそこから先を母が引き取った。

「そんな大事件にどうして巻き込まれたんだろう。皆でしばらく嘆き悲しんでおった。てっきり殺されたものと想いこんでね」

「母さん。バハールはどこなんだい」

 アリーは想わず声を大きくした。

「これこれ。大きな声を出すもんじゃないよ。幼子おさなごが起きちまうだろう」

 と涙まみれの母に叱られる。

「兄さん。子供ができたのかい。じゃあ、バハールはその面倒を見ているんだね」

「何、言ってんだ。お前。なら、俺の嫁が面倒を見て、バハールに降りて来させるよ」

 とやはり涙をたたえる兄。

「そうよ。私を何だと想っているの。でも、良かった。帰って来れて。良かったよ。本当に」

 と言う兄嫁もまた涙ぐむ。

「おう。みんな。アリーは知らんのだよ。見たら、びっくりするぞ」

 そう父まで、声は震えておるのに、はやし立てる如くに言う。そして、母の体を己から引きはがすと、

「ほら。アリーを上に行かせておやり。ずっとここにいるのだから。この後、いくらでも一緒にいられる」

 アリーは、もしかしてと想いつつ、階段を急いで上がる。

 バハールがおった。腕に幼子を抱いて、あやしておった。

「ほうら。お父さんがやっと帰って来たよ。ねえ、あなたにそっくりでしょう」

 アリーは、バハールに、そして自らの子に近付いた。

 涙があふれ、二人の顔も良く見えない。

 泣き崩れるしかなかった。
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