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第3部 仇(あだ)
30:ブハーラー戦3: 声3:ヤラワチの場合
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人物紹介
モンゴル側
マフムード・ヤラワチ:チンギスの使者。商人出身。ホラズム地方出身
オマル・ホージャ:(ホラズムに向かう)チンギス・カンの隊商を率いる隊長
アリー:隊商のラクダ係
人物紹介終了
あの夜、鳴いておったナイチンゲールはここを去り、
あの夜、責めさいなんでおったスルターンはとうにおらず、
あの夜、責めさいなまれておったニザーム・アル・ムルクもおらぬ。
そのいずれも安居を求めてであった。
ただ、その次の夜、そしてその次の夜もスルターンに呼ばれたヤラワチのみは、ブハーラーを囲む攻囲軍の中におった。
その最後の夜に、チンギスとスルターンの和平協定が結ばれた。
それが全ての始まりとなった。
和平協定が結ばれたことを己より伝えられたために、オトラルに向かったオマル率いる隊商。
ヤラワチが自らの体験として知るは、そこまでであった。
てっきりホラズムの商品を満載して帰って来るものと想っておった。そうしたならば、再び酒を酌み交わそうと心待ちにしておった。
その後、報されたのは隊商の皆殺しであった。
あのアリー、
――我がサイラームに至ったとき、オマルに頼まれて、スルターンとの謁見での出来事を話した青年、
――あの者のみが生きのびるを得たと聞く。
我は、あの者が訪ねて来るのを心待ちにしておった。
アリーはサイラームのノヤンに事件を報告したと聞く。
ならば、そこにて会えるのではと、期待した。
そして一体何があったのか、聞きたくて仕方がなかった。
ただ未だに訪ねて来てくれぬ。
あの時、オマルはひたすらに、アリーの心配をしておった。
我はその時、オマルの取り越し苦労に過ぎぬと高をくくった。
今になってはオマルが正しかったと、我にも分かる。
皮肉なことであるが、会ったことのないオマルの方が、直接に会った我より、スルターンを良く理解しておったことになる。
我は、自らがスルターンに殺されなかったことを過大評価し過ぎたのか。
しかし、それのみではないのだ。
あのスルターンは我と確かに和平協定に合意したのだ。
それを信じられぬとすれば、何を信じうるというのか。
何のために。
何のゆえに。
ただヤラワチが、今、酒をあおるは、その解けぬ疑問を、とりあえず今夜一晩忘れるためだけではなかった。
モンゴル軍による投石の攻撃は、その日の昼から始められており、
――ブハーラー側からも、モンゴル軍の投石機を狙って、石が放たれておった。
――その激しき投石の応酬は、深更になっても止まず、ヤラワチに眠れぬ夜をもたらしたゆえでもあった。
ゆえにそのギョロリとした眼にて天幕内の闇を見つめるしかなかった。
とうの昔にランプの油は切れておった。
また炉の薪も燃え尽き、炭の熾火が残るのみとなっておった。
ただ、一時の光・一時の暖のために立ち上がり入れ替えるのも億劫であった。
毛皮を二重にまとい、身を丸めて朝の来るのを待つ。
ここの冬はモンゴルに比べれば暖かかった。
あれから、もう少しで2年というのに、昨日の如くに想い出す。
――スルターンと和平協定を結んだ夜。
――そしてオマルとアリーと話したこと、その後、オマルと最後に飲んだこと。
そして己は見ておらぬはずの、立ち会っておらぬはずの隊商の虐殺の場面が、なぜか目の当たりにした如くに想い浮かぶのだ。
そしてそこで、オマルは、他の隊員は我に何かを告げようとしておるのだ。
ただいつまで経っても、その声を聞き取ることができぬ。
聞き取れぬままに、その者たちは死ぬのだ。
後書きです
ヤラワチとスルターンが協定に合意した後の各々の心情は、第1部第4章第1話『カンの隊商1(スルターンと使者ヤラワチ)』にあります。
ヤラワチがオマルとアリーと話した場面は1部第5章第1話『アリーとオマル隊長、そして使者ヤラワチ』にあります。
アリーが現在、何をしておるかは、第3部第1話『アリー』にあります。
モンゴル側
マフムード・ヤラワチ:チンギスの使者。商人出身。ホラズム地方出身
オマル・ホージャ:(ホラズムに向かう)チンギス・カンの隊商を率いる隊長
アリー:隊商のラクダ係
人物紹介終了
あの夜、鳴いておったナイチンゲールはここを去り、
あの夜、責めさいなんでおったスルターンはとうにおらず、
あの夜、責めさいなまれておったニザーム・アル・ムルクもおらぬ。
そのいずれも安居を求めてであった。
ただ、その次の夜、そしてその次の夜もスルターンに呼ばれたヤラワチのみは、ブハーラーを囲む攻囲軍の中におった。
その最後の夜に、チンギスとスルターンの和平協定が結ばれた。
それが全ての始まりとなった。
和平協定が結ばれたことを己より伝えられたために、オトラルに向かったオマル率いる隊商。
ヤラワチが自らの体験として知るは、そこまでであった。
てっきりホラズムの商品を満載して帰って来るものと想っておった。そうしたならば、再び酒を酌み交わそうと心待ちにしておった。
その後、報されたのは隊商の皆殺しであった。
あのアリー、
――我がサイラームに至ったとき、オマルに頼まれて、スルターンとの謁見での出来事を話した青年、
――あの者のみが生きのびるを得たと聞く。
我は、あの者が訪ねて来るのを心待ちにしておった。
アリーはサイラームのノヤンに事件を報告したと聞く。
ならば、そこにて会えるのではと、期待した。
そして一体何があったのか、聞きたくて仕方がなかった。
ただ未だに訪ねて来てくれぬ。
あの時、オマルはひたすらに、アリーの心配をしておった。
我はその時、オマルの取り越し苦労に過ぎぬと高をくくった。
今になってはオマルが正しかったと、我にも分かる。
皮肉なことであるが、会ったことのないオマルの方が、直接に会った我より、スルターンを良く理解しておったことになる。
我は、自らがスルターンに殺されなかったことを過大評価し過ぎたのか。
しかし、それのみではないのだ。
あのスルターンは我と確かに和平協定に合意したのだ。
それを信じられぬとすれば、何を信じうるというのか。
何のために。
何のゆえに。
ただヤラワチが、今、酒をあおるは、その解けぬ疑問を、とりあえず今夜一晩忘れるためだけではなかった。
モンゴル軍による投石の攻撃は、その日の昼から始められており、
――ブハーラー側からも、モンゴル軍の投石機を狙って、石が放たれておった。
――その激しき投石の応酬は、深更になっても止まず、ヤラワチに眠れぬ夜をもたらしたゆえでもあった。
ゆえにそのギョロリとした眼にて天幕内の闇を見つめるしかなかった。
とうの昔にランプの油は切れておった。
また炉の薪も燃え尽き、炭の熾火が残るのみとなっておった。
ただ、一時の光・一時の暖のために立ち上がり入れ替えるのも億劫であった。
毛皮を二重にまとい、身を丸めて朝の来るのを待つ。
ここの冬はモンゴルに比べれば暖かかった。
あれから、もう少しで2年というのに、昨日の如くに想い出す。
――スルターンと和平協定を結んだ夜。
――そしてオマルとアリーと話したこと、その後、オマルと最後に飲んだこと。
そして己は見ておらぬはずの、立ち会っておらぬはずの隊商の虐殺の場面が、なぜか目の当たりにした如くに想い浮かぶのだ。
そしてそこで、オマルは、他の隊員は我に何かを告げようとしておるのだ。
ただいつまで経っても、その声を聞き取ることができぬ。
聞き取れぬままに、その者たちは死ぬのだ。
後書きです
ヤラワチとスルターンが協定に合意した後の各々の心情は、第1部第4章第1話『カンの隊商1(スルターンと使者ヤラワチ)』にあります。
ヤラワチがオマルとアリーと話した場面は1部第5章第1話『アリーとオマル隊長、そして使者ヤラワチ』にあります。
アリーが現在、何をしておるかは、第3部第1話『アリー』にあります。
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