上 下
11 / 206
第3章

和平協定2(スルターンと王子ルクン、そしてイマド)

しおりを挟む
登場人物紹介
ホラズム側
テルケン・カトン:先代スルターンであるテキッシュの正妻。カンクリの王女。

スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主
   先代テキッシュとテルケン・カトンの間の子。

ルクン・ウッディーン:スルターンの息子、ゆえに王子。

イマド・アル・ムルク:スルターンの重臣

ニザーム・アル・ムルク:スルターンの家臣。位は文官筆頭。
(これは名ではなく、称号である)

アルプ・エル・カン:スルターンのマムルーク(奴隷)であり、将。



ムイッズ・ウッディーン:かつてのグール朝の君主。
――この時点ではグール朝は滅び、この者もまた既に亡くなっておる。


登場人物紹介終了


 ここで時を少しばかり戻すと。
 チンギスの使者がホラズムへと到着したのは、一二一七年の冬間近の時。
 スルターンがアッバース朝カリフを脅すために、西方のイラク方面へ遠征しておる間のことであった。
 伝令が至って、スルターンは現地でその報告を受けた。
 しかし、それを理由に急いで戻る気はまったくなかった。
 
 引きしりぞくを決定した後のこと。
 スルターンはまず一人の者を抜擢ばってきし、直属のマムルーク部隊(注1)の将とし、アルプ・エル・カンとの称号を与えた。この者は、壊滅した部隊におりながら、数十騎を率いて戻るを得たのであった。他の者がこれだけ死んでおるのに、生き残ったのだから、きっと幸運でもありまた才覚もあるのだろうとの理由であった。(注:アルプ・エルで勇者を意味し、モンゴル語のバアトルとほぼ同意である)

 それからとして、イラク方面の地(注2)の統治を王子のルクン・ウッディーンに託した。
 授けたのは帝国の西辺の地であった。
 それにもかかわらず、ルクンはその純朴なる性格そのままに、感謝の言葉を懸命に述べ立てた。
 今回のことがあってに良い想いを抱きようがないスルターンには、それほどのものを己は与えてやれてはおれぬとしか想えぬ。
 ただこの者に与える重臣だけは、誇りうるものとスルターンは想っておった。
 国の事情もあれば、全ての王子を公平に扱う訳には行かぬ。
 既に皇太子は決まっており、ルクンではない。
 とはいえスルターンも人の親である。子を想う心はある。

 ルクンが生まれたのは、宿敵グール朝のムイッズがウルゲンチを攻囲しておるという苦難の時であった。
 そしてまさに生誕の翌日に、ムイッズが退却したのであった。
 それゆえスルターンはこの者に、「グールを破りし者」を意味するグーリー・シャーナスティーとの名を与えた。
 これがおよそ十五年前のことである。

 ルクンは、全てはまだこれからと言って良い年齢である。
 加えて、今のままでは余りに線が細いとのうれいを、抱かざるを得ぬ。
 ジャラールの如くとなってしまっては、それはそれ、人に傲岸ごうがんと非難されることになってしまう。
 しかし、もう少したくましくなって欲しい。

 その統治を補佐すると共に、ルクンを育て上げてくれとの願いを込めた任命であった。
 イマド・アル・ムルク、賢臣の誉れ高きこの者を、ルクンのアター・ベグ(注3)としたのであった。

 とはいえ、スルターンが善良さの下におったのは、ルクンがらみのことのみであった。
 それ以外のことでは、いつものスルターンであった。
 そしてその帰還中、スルターンの頭を占めておったのは、別のことであった。
 モンゴルとの和平協定のことでさえなかった。
 ニザーム・アル・ムルクをどうすれば殺せるかということであった。

 まさにスルターンが次なる敵として見定めたのは、自らの母親であった。
 もっともこれは今に始まったことではない。
 ゆえに向うべき外敵を見失い、それで旧敵に改めて挑まんとしておるというのが実情に近い。
 政敵としては無論不足はない。
 それどころか強力過ぎるほどである。
 更には実母である以上、へたに噛みつけば、自らの体を食い千切るに等しい。

 ゆえにまずはニザームであった。
 遠征の失敗の責任を押しつけると共に、カリフにしてやられたさもこれで晴らせる。
 そう想えば、まさに一石二鳥であった。

 スルターンはまずは、イマームとの会議にも同席した臣下に尋ねた。
 しかしこの者たちは、まったく頼りにならなかった。
 恐れの余りであった。

 母上は、己とホラズムを二分するほどの権力を有しておった。
 確かにスルターンの称号を己は有する。
 それでも、本当のこの国の支配者は誰かと問われれば、どうか。
 果たしてホラズムの臣民のどれだけが、己を選び、どれだけが母上を選ぶのか。
 果たして己もあのニザームの如くに、称号に見合わぬ存在、名ばかりの存在として揶揄やゆされておるのではないか。
 ふとその恐怖が身内みうちに湧き上がり、急ぎ追い払う。
 加えてホラズムの軍の半ば以上は、カンクリ勢が抑えておった。
 その者たちのあるじが母上に他ならなかった。
 母上を敵とすることは、ホラズムの軍の半ばを敵に回す覚悟が必要であった。
 無論のこと、そのような気骨を有する者は、それほど多くない。
 よってスルターンは、そうであろうと見込む者に意見を求めた。
 今回ルクンにアター・ベグとして授けたイマドであった。
 そもそも、そう見込むゆえにこそ、ルクンを託したのでもあったが。

 まさにイマドをルクンと共にイラク方面に残して行くその前夜のこと。
 呼び出して問うたのであった。
 遠征途上においてでさえ我の心中がニザームのことで一杯であったこと、
――イマドがそれを知れば、あきれられるかもしれぬとは危惧きぐした。
 しかし、それでもなお問わずにはおれなかった。
 それもあって、『を処刑できるであろうか』というような生々しい聞き方はさすがに避けた。
 あくまでもと「ニザームに遠征失敗の責任を問うことはできましょうか」と問うに留めた。

「その責をニザームに押しつけること。
――それは不可能ではなかろうとは想います。
 しかしそれをおおやけに罪とすれば、やがてその矛先ほこさきはスルターン自身にも及びましょう。
 今回の遠征はスルターンの主導であったと、既に多くの者が知っております。
 そしてスルターンには敵がおります。」

 イマドは、それが誰であるかを明言する気は無いようであった。
 しかしその者の姿がスルターンの心中に浮かび上がって来るのを待つが如くに、そこで黙した。
 その間、軍征用の天幕に激しく吹き付ける砂のみが音を立てておった。
「その者は将来、このことできっとスルターンを追い詰めましょう。
 スルターン自ら格好の攻撃材料を与えるに等しき行いです。」
 あくまでもイマドは首を縦に振らなかった。

 次の日。
 スルターンは、ルクンやイマドと別れて、帰還の馬上にあった。
 そして一人想わざるを得ぬ。
 やはりイマドをこそ頼りにすべきと。
 ルクンの下にイマドを残すことにして良かったと。
 更にはこの遠征にてを得た最善のことかもしれぬとさえ。
 他方でスルターンがこの遠征にて亡くなった多くの軍兵に想いを至らせることは、なかった。
 この時スルターンに母やカンクリ勢と戦をする気があった訳ではない。
(しかし将来何が起こるとも限らぬ。
 もし母上が我を廃位するを欲したならば。)
 考えられる限りで最悪なことであった。
 しかしその恐れがまったく無いとは言い切れなかった。
 そして最悪にこそ備えるべきというのが、スルターンの信条でもあった。
 その場合、頼りになるのは「カンクリの娘」を母とせぬ王子たち、このルクンやジャラールに他ならなかった。
 ジャラールにはグールとガズナを与えておった。
 ルクンもジャラールも、その分封地はいずれも遠地であった。
 とはいえ、スルターンが逃げ込むとすれば、その方が都合が良いはずであった。
 そしてその時はイマドが我を補佐してくれよう。

 翌年二月に、ニーシャープールに至ると、そこに留まり兵馬を休めた。
 肥沃ひよくなこの地には、軍馬に与える麦わらはありあまるほどにあった。
 そして一月ばかりを過ごしてから、ようやく出発した。
 とはいえ決して急ぐことはなく、メルヴを通った時には既に四月に入っておった。
 アームルの渡しにてアムダリヤ川を北へと渡る。
 かつて栄えたパイカンドの廃墟はいきょの側らを過ぎて、ブハーラーに至った。

 凱旋がいせんという雰囲気はまったく無かった。
 帰還した軍を歓迎する儀礼は、スルターン自身の命により、最も簡素なものに留められた。

 イラク征討
――実質的には臣従の確認に過ぎぬ
――とそこをルクンに委ねたこと、
――その二つがわずかに喜ばしきこととして公布された。

注1 マムルーク(あるいはグラームとも):奴隷のことである。アジア西方の歴史を語るにおいて、マムルーク部隊を外すことはできない。そもそもはアッバース朝に始まる。豊富な騎馬軍を有した遊牧勢力のセルジューク朝でさえ、時代が下るにつれ、君主はそれに頼るようになる。ガズナ朝の建国者アルプ・テギンは、サーマーン朝に仕えたマムルークであった。

注2 イラク:バグダードのカリフやクルド勢は臣従しておらぬのだから、ここでは、それより東方の地、現在の国でいえばイラン西部を指している。
 古来よりの地名としての「イラク」は、バグダードを中心としたチグリス・ユーフラテス川流域(現イラク国の中心)に加え、イラン西部も含む。
 ルクンへの分封を伝えるムスリム史料も、単に「イラク」としています。
 現代風に言い替えても良いのですが、小説ですので古風な呼び方で行きたいと想います。

注3 アター・ベグ:トルコ語。アターは「父」の意。
 王子にとって「父代わりをなすベグ(臣・将)」の意。
 加えてトルコ・モンゴル系では、相手を「父」・「兄(アカ)」・「叔父(タガイ)」と呼ぶことは、それだけで尊称となりうる。ゆえにこの役職名(官名)は尊称の響きもまた有する。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

三國志 on 世説新語

ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」? 確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。 それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします! ※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。

近衛文麿奇譚

高鉢 健太
歴史・時代
日本史上最悪の宰相といわれる近衛文麿。 日本憲政史上ただ一人、関白という令外官によって大権を手にした異色の人物にはミステリアスな話が多い。 彼は果たして未来からの転生者であったのだろうか? ※なろうにも掲載

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

鈍亀の軌跡

高鉢 健太
歴史・時代
日本の潜水艦の歴史を変えた軌跡をたどるお話。

暁のミッドウェー

三笠 陣
歴史・時代
 一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。  真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。  一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。  そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。  ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。  日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。  その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。 (※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...