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春の宵

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「それ俺のなんだけどなー」

「いいじゃん、いいじゃん。乾杯ってことで」

そのとき、黙って皿に目を落としていた桜が、いきなり立ち上がって早足で厨房を出ていった。

「おい」

健が声をかけたが、京介が手で制する。

桜は従業員用トイレに駆け込むと、洗面所のシンクに今ほど食べたものを全てぶちまけた。

逆流してきた酸っぱい胃液が喉にへばりつき、吐くものがなくなってもえずきが止まらない。

しばらくして落ちつくと、感情というよりは生理的に溢れた涙を手の甲で拭い、水を流して淡々とシンクを掃除し始めた。

――またやっちゃった……。

大したことではなくても、何かのはずみで引き金が入ると、どんなに我慢しようとしても吐いてしまう。体が食べ物を受けつけない。

心因性嘔吐という診断名がつけられたこともある。

でも、病院でもらった薬を飲んだところで吐き気はおさまらず、結局通うのをやめてしまった。

『まだできねえのかよ、のろま』『ゴミが』『何でここにいんの?』『洗っとけっつっただろ!』『さっさと辞めろ』『邪魔なんだよ』『お前なんか誰も認めてねえから』

投げつけられた言葉の数々が、やめようと思っても一瞬で脳裏によみがえり、無限ループを始める。

足をひっかけて転ばされたり、物を投げつけられたり、つくった菓子を目の前でゴミ箱に捨てられたこともある。

無視されるのは日常茶飯事、馬車馬のように働いて疲れきっていても、寝たいのに涙が止まらなくて眠れない日が続いた。

このままだと発狂するかもしれないと、本気で怖かった。
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