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秘密
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なんだろう。いつもと様子が違う。
たろちゃんにはいつもドキドキさせられっぱなしだったけど、こんなドキドキは初めてだった。
時計の針の音だけが聞こえる部屋で、たろちゃんは静かに口を開いた。
「あの日は……俺の、六歳の誕生日だったんだ。当時の記憶なんてもうほとんどないけど、あの日のことだけはよく覚えてる」
そう言って、遠くを見つめた。あの日──十五年前を思い出しているのだろうか。
「あの日、俺はワクワクしてた。誕生日ってものがまだよくわからなかったけど、ケーキを食べれることとプレゼントを貰えることは知っていたから」
たろちゃんはクスッと笑ったけれど、つられて笑う気にはなれなかった。私の顔を見て、たろちゃんは再び真顔に戻る。
「……だから、家に帰ったらプレゼントが貰えるんだろうなって、ワクワクしながら幼稚園のバスを降りた。……けどさ、いつもいる母親があの日だけいなくて。仕方ないから俺一人で帰ったんだ。バス停は家から二十メートルほどだったし。今考えると、誘拐されなくて本当よかったけどさー」
今度はあははと大袈裟に笑った。
「たろちゃん……なんの話?」
要点がわからずにたろちゃんの顔を覗き込む。
「まぁいいから聞いてよ」
たろちゃんはもう一口ココアを飲むと、フーと大きく息を吐いた。
「ドアにね、鍵がかかってなかったんだ。まるで俺が一人で入ることがわかってたみたいに……。部屋は真っ暗で、いるはずの母親の姿が見えないの」
六歳になったばかりの少年が、一人真っ暗な部屋に入っていく様子を想像した。その心細さはどれほどだっただろう。
「部屋の奥からさ、ジャーって水の音だけが聞こえてきたんだ。あ、お風呂かな? って思うじゃん。風呂場に行ってドア越しに声をかけたんだ。『ママ』って。でも──」
ゴトンッ──
たろちゃんがマグカップを持とうとして失敗した。手がワナワナと震えている。私はそんな彼の手を、そっと握った。
「でも……返事が、なくて……」
額に脂汗を滲ませながら、言葉をなんとか絞り出す。
これ以上はやめよう。無理に言わなくていいよ。そんな言葉が喉まで出かかった。でもたろちゃんの真剣な瞳を見たら、そんなこと言えなかった。
「……思い切ってドアを開けたんだ。そしたら──」
いつの間にかたろちゃんが私の手を強く握り返していた。沈黙の時間が息苦しい。
「──ここを」
たろちゃんは私の手を掴むと、手首を上に向けて指さした。
「え……──?」
私は息を呑んでたろちゃんを見つめた。四秒、五秒……私たち見つめ合っていた。たろちゃんの潤んだ瞳で、なぜか私が溺れそうだった。
「ここを、切って……お湯を張った浴槽に……手を入れてた。お湯は出しっぱなしで……浴槽から溢れたそれが床を濡らしてた。……真っ赤だった」
それって────
「じ、さつ……みすい……?」
言葉にならない。ただ、胸がぎゅうと締め付けられて痛い。
たろちゃんは力なく微笑んだ。
「違うよ千春さん。……自殺するつもりはなくて失敗したのか、それとも最初からそのつもりだったのかはわからないけど……母親は、死んでた」
『死んでた』──
何かで頭を殴られたような衝撃に、その場から一歩も動けずにいた。まさか、そんなことって──。
「馬鹿みたいだけど、風呂場で血を見ると、今でもフラッシュバックしちゃうんだよね。その度に女の子から冷たくされて……もう慣れたけど……。だから千春さんも、無理しないで『気持ち悪い』って言ってもいいんだよ?」
たろちゃんはニッコリと笑う、だけど泣いているようにも見える。
「言わないよ……!」
気づいたら、涙が頬を伝っていた。
「言うわけないじゃん……そんなの……」
たった六歳で、しかも自分の誕生日に母親の自殺を目にするなんて……そんなの、辛すぎるよ。悲しすぎるよ。
今年の誕生日。暗い部屋にキャンドルを灯して、たった一人で過ごそうとしていたたろちゃんを思い出す。あの時は『みんなでワイワイとか、苦手』なんて言ってたけど、きっと一人で過ごすことに意味があったんだと思う。
私はたろちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「私は……私は絶対にいなくならないから! たろちゃんのそばにいるから! なにがあっても、ずっと……」
我ながら陳腐なセリフ。だけど言わずにはいられなかった。目の前の大きなたろちゃんが、急に六歳の少年に見えて、抱きしめずにはいられなかった。
過去は変えられないけれど、せめてこれからは、幸せにすごせるように。たろちゃんの未来が幸せで溢れるように。
その願いは、涙となってたろちゃんの頬に落ちた。
「本当……千春さんって……変な女」
たろちゃんはそう言って優しく微笑むと、涙で濡れた頬にそっとキスをした。
たろちゃんにはいつもドキドキさせられっぱなしだったけど、こんなドキドキは初めてだった。
時計の針の音だけが聞こえる部屋で、たろちゃんは静かに口を開いた。
「あの日は……俺の、六歳の誕生日だったんだ。当時の記憶なんてもうほとんどないけど、あの日のことだけはよく覚えてる」
そう言って、遠くを見つめた。あの日──十五年前を思い出しているのだろうか。
「あの日、俺はワクワクしてた。誕生日ってものがまだよくわからなかったけど、ケーキを食べれることとプレゼントを貰えることは知っていたから」
たろちゃんはクスッと笑ったけれど、つられて笑う気にはなれなかった。私の顔を見て、たろちゃんは再び真顔に戻る。
「……だから、家に帰ったらプレゼントが貰えるんだろうなって、ワクワクしながら幼稚園のバスを降りた。……けどさ、いつもいる母親があの日だけいなくて。仕方ないから俺一人で帰ったんだ。バス停は家から二十メートルほどだったし。今考えると、誘拐されなくて本当よかったけどさー」
今度はあははと大袈裟に笑った。
「たろちゃん……なんの話?」
要点がわからずにたろちゃんの顔を覗き込む。
「まぁいいから聞いてよ」
たろちゃんはもう一口ココアを飲むと、フーと大きく息を吐いた。
「ドアにね、鍵がかかってなかったんだ。まるで俺が一人で入ることがわかってたみたいに……。部屋は真っ暗で、いるはずの母親の姿が見えないの」
六歳になったばかりの少年が、一人真っ暗な部屋に入っていく様子を想像した。その心細さはどれほどだっただろう。
「部屋の奥からさ、ジャーって水の音だけが聞こえてきたんだ。あ、お風呂かな? って思うじゃん。風呂場に行ってドア越しに声をかけたんだ。『ママ』って。でも──」
ゴトンッ──
たろちゃんがマグカップを持とうとして失敗した。手がワナワナと震えている。私はそんな彼の手を、そっと握った。
「でも……返事が、なくて……」
額に脂汗を滲ませながら、言葉をなんとか絞り出す。
これ以上はやめよう。無理に言わなくていいよ。そんな言葉が喉まで出かかった。でもたろちゃんの真剣な瞳を見たら、そんなこと言えなかった。
「……思い切ってドアを開けたんだ。そしたら──」
いつの間にかたろちゃんが私の手を強く握り返していた。沈黙の時間が息苦しい。
「──ここを」
たろちゃんは私の手を掴むと、手首を上に向けて指さした。
「え……──?」
私は息を呑んでたろちゃんを見つめた。四秒、五秒……私たち見つめ合っていた。たろちゃんの潤んだ瞳で、なぜか私が溺れそうだった。
「ここを、切って……お湯を張った浴槽に……手を入れてた。お湯は出しっぱなしで……浴槽から溢れたそれが床を濡らしてた。……真っ赤だった」
それって────
「じ、さつ……みすい……?」
言葉にならない。ただ、胸がぎゅうと締め付けられて痛い。
たろちゃんは力なく微笑んだ。
「違うよ千春さん。……自殺するつもりはなくて失敗したのか、それとも最初からそのつもりだったのかはわからないけど……母親は、死んでた」
『死んでた』──
何かで頭を殴られたような衝撃に、その場から一歩も動けずにいた。まさか、そんなことって──。
「馬鹿みたいだけど、風呂場で血を見ると、今でもフラッシュバックしちゃうんだよね。その度に女の子から冷たくされて……もう慣れたけど……。だから千春さんも、無理しないで『気持ち悪い』って言ってもいいんだよ?」
たろちゃんはニッコリと笑う、だけど泣いているようにも見える。
「言わないよ……!」
気づいたら、涙が頬を伝っていた。
「言うわけないじゃん……そんなの……」
たった六歳で、しかも自分の誕生日に母親の自殺を目にするなんて……そんなの、辛すぎるよ。悲しすぎるよ。
今年の誕生日。暗い部屋にキャンドルを灯して、たった一人で過ごそうとしていたたろちゃんを思い出す。あの時は『みんなでワイワイとか、苦手』なんて言ってたけど、きっと一人で過ごすことに意味があったんだと思う。
私はたろちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「私は……私は絶対にいなくならないから! たろちゃんのそばにいるから! なにがあっても、ずっと……」
我ながら陳腐なセリフ。だけど言わずにはいられなかった。目の前の大きなたろちゃんが、急に六歳の少年に見えて、抱きしめずにはいられなかった。
過去は変えられないけれど、せめてこれからは、幸せにすごせるように。たろちゃんの未来が幸せで溢れるように。
その願いは、涙となってたろちゃんの頬に落ちた。
「本当……千春さんって……変な女」
たろちゃんはそう言って優しく微笑むと、涙で濡れた頬にそっとキスをした。
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