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この人は、どこかおかしい。

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「アァギャアアアァァ!!」
 
 とんでもない叫び声を上げるケモノが一匹いる。

 狂ったように身もだえし、目尻にはわずかに涙を浮かべ、頬を真っ赤に紅潮させている。
 背中に流れるゆるく巻かれた榛色の長い髪は、先ほどまで手入れの行き届いたものだった。しかし、振り乱したいまではその手入れも無残なものでしかない。
 常であれば禁欲的なまでに肌を見せない服を自ら一分の隙もなく着込む女が、今は身もだえすると同時に乱れる着衣にも、晒される足元にすらも気にする余裕が見えないケモノの醜態である。

 女に対する敬愛の情は、数年前に崩れ去った。

(何も知らなかった、あの頃に戻れるのなら)

 荒み、凍りついたはずの想いが浮かんだ瞬間に、自嘲の笑みが漏れる。

「姉さん。いい加減にし」

 口元を動かしたついでに浮かべたまま怒りを込めてそう口にすれば、すべてを言い切る前に、

「最高ですっ!!我が弟よ!その冷たい口調、蔑むような顔つき、何よりその制服に負けない知的な顔と男性的でありながら成長途上の体!くうぅっ……完璧です!!我が弟の通う学校で、我が弟以上にその制服を着こなせる生徒は存在しないでしょう。姉は断言いたしますよ!我が弟こそが、その制服に選ばれし者である、と」

 喜色満面の笑みを浮かべ、興奮した声で食い気味に断言された。

 引いた。

「年に一度のことだ。大目に見てやれ」
「叔父上」

 まだまだ青二才の子供を見る目で叔父に諭された。
 むしろ、こちらの態度を大目に見てはくれないだろうか。

「我が叔父の軍服も大変素晴らしい!壮年から中年に近づきつつある体に衰えを感じる時期ですのに、弛ませることなく今もなお鍛え上げられた体が軍服との相乗効果で風格を醸し出しておりますわ!」

 数年前に少々の贅肉を蓄えられましたときには、不安に駆られたものです。

 ぽそっ、と急に無表情になった姉がつぶやいた言葉に叔父は撃沈した。

 嫁さんが菓子作りに凝ってさぁ。張り切っっちゃって、もう家を出てる息子たちの分まで作るじゃん?あいつらに食いに帰って来いって伝えても、同僚との付き合いがなんだって言って帰って来ねーしさぁ。余った菓子を寂しそうに見つめる嫁さん見たら、俺が食うしかないだろ?

 言い訳めいたことをめそめそと伝える叔父を、

(あの姉の叔父だな。どんなに取り繕っても残念なヘタレ)

 他人事のように“姉の叔父”だと内心で切って捨てた。
 僕は叔父を大目には見る気はない。

「兄さんたちは、いいんですか?妹さんが“こんなの”で」
「“こんなの”とは何だ?実の姉に向かって」
「これも個性でしょうね」

 長兄はわざとかどうか知らないが答えをはぐらかした。
 次兄はのほほんとして答えを返してくれたが、分かっていて受け入れてやがる。

「我が長兄は近衛騎士らしい華やかな容貌が美麗な制服の高貴さを際立させていますわ!我が次兄の慈愛の笑みを絶やさぬ顔は、取り立てて装飾品もないはずの神官装束を神聖なものにしております!」

 王家バンザイ!神様わっしょい!

 姉は腕を振り上げて心から言っているのだろうが、どちらに対しても、とてつもなく不敬だと思った。

「本当に、いいんですか?」
「何がだ?私が取り締まるべき、王家に対する不敬罪が適用されるようなことをしていないではないか」
 
 この長兄は本気で言っているのか、それともはぐらかしているのか、本当にわかりにくい。
 いや、狐と狸が皮かぶって化かし合っている上流社会で、一族を率いて矢面に立つ当主としては、かなりポイント高いけど。
 でも、やっぱり分かりにくい。
 一応、自分が生まれたときから身内やってるはずなのに、全然分かんない。

「神様はこの世界をその腕に抱くほど大きく、罪人の声にすら耳を傾けるほどその御心は広いから、罪を犯してない者の祈りが神官が導いて祈る時より多少ズレていてもお怒りにはなられないよ」

 次兄はやっぱり分かってて言ってる。
 不敬かもって分かってるくせに、受け入れてる。
 兄弟姉妹の中で、自分と次兄がいちばん感性似てるのに、分かりあえる気がしないのはなんでだろう。

(というより、この場に分かり合える人間がいるのだろうか)

 我に返って部屋を見回してみる。
 
 叔父はまだめそめそしていた。鬱陶しい。あっ、いま姉にまでそう指摘されて、頑張ってきりっとした態度になった。
 長兄は固くもなく、かといって柔らかくもなく真面目な顔で、叔父に対し軍服を着る者があるべき姿を説いている隙に、姉が乱していた衣服に手を出して整えてあげている。
 次兄はその様子を慈愛に満ちた微笑みで見守っていた。不機嫌丸出しであろう自分のほうにも視線をくれて、仕方ない子だねとでもいうように笑う。仕方ないのはこちらではなく状況だ。

(あ、泣きそうなヤツ発見)

 あいつは今年から参加なのか。そういえば、あいつが通ってた学校に制服なかったしな。
 
(でも、仲間ではないんだよね。悲しいことに)

 壁際で泣きそうになりながら姉を見つめる従弟その4。叔父の末っ子だけど、自分より2つ年上だ。
 叔父は肉体派だけど、その子供たちは1人を除いて頭脳畑に行った。
 従弟その4は頭脳畑の人間で、今年の春に財務官として城に勤めるようになり、今はその証である財務省の文官着用する水色のお仕着せを身につけている。一番下っ端が着るお仕着せだ。

「我が従弟は戸惑いや不安を抱えながらも上司に鍛えられながら、使える人間になっていくという風情がよく出ておりますわ!初々しい雰囲気が、お仕着せの魅力を引き出しております!」

 ようやく姉に目を向けられて、従兄その4の顔がパッと輝いた。
 何も知らなかった頃の自分を眼前に突き付けられているようで、率直に言えば逃げ出したくなる。
 自分と従兄その4の違いは、姉の本性を知ってなお変わらずにいられたか、いられなかったかの違いである。
 
「僕を見てくれた。その視界に僕を入れて、僕に言葉を掛けてくれた。認めれくれた。気に入ってくれた。褒めてくれた。従兄その4って番号で呼ばれなかった」

 従兄その4の場合は、色々こじらせているけど。
 特に最後、姉がごめんね。自分も内心で、従兄その4って呼んでるけどね。
 ただ、目を爛々と輝かせて、明るい顔でぶつぶつ喜びをつぶやかないで欲しい。
 姉の叫びと同じくらい怖い。

 あと、喜んでるとこ悪いけど、別に姉は従兄その4を……。

 いや、言うのは堪えよう。
 なんとなく分かってはいても、傷つく現実ってあるからね。
 従兄その4がなんとなく分かっているのか、完全に現実から目をそらしているのかは知らないけど。
 
 従兄その4には話しかけない。見たこととか、聞いたこととかは無かったことにしよう。
 ぶつぶつ言ってんのが怖い。
 さらに数歩引いて、彼の位置から次兄が自分の盾になる場所へ移動してみた。
 どうせ、ヤツの目には姉しか入っていない。

(駄目だ。今、この部屋に仲間はいない)

 そう諦めたときだった。

 音もなく部屋の扉が開かれ、この家に祖父の代から勤める老年の執事が現れた。

「お客様をご案内いたしました」

 慇懃な礼をしてそう言うと、2人の客と1人の年若い執事見習いを部屋へ通す。

「それでは、晩餐までお寛ぎください」

 執事はまた一礼をして、音もなく去ってゆく。

「モッキュウウウウ!!」

 姉がまた奇声を上げる。

「遅れてすまない。街を巡回した足でこちらに伺おうとしたのだが、巡回の途中でならず者を捕縛して城に向かわねばならなかった。おや、これは言い訳にしかならぬ。今の言葉は、忘れてくれ」
「私は弟が城に戻って来たとき、どうせなら一緒に行こうかと思いまして。末っ子の弟はさっさと先に行っちゃいましたけどね」
「お茶の準備を致します。お一方はお召替えの手配をしておりますので、少々お待ちください」

 新たな混沌への入室者は、姉を喜ばせるだけだった。

「フオオォォ!!甲冑!!重いはずのそれを苦も無く着こなして、颯爽と動き回る硬派な青年!潔い言動が、危険の中に自ら飛び込んでいく身を投げやりに扱うのではなく、むしろ甲冑を着ていることで生きて民を守るという凛然とした趣を呈しておりますっ」
「従妹殿は相変わらず、健やかそうで何よりだ」

 姉は元気だけれど。むしろ、興奮しすぎて落ち着けと言いたいくらいハッスルしてるけど、そのコメントはなんか違うよ、従兄その2。

「それに見えるは白衣!命を預かるものとして真摯に患者と向き合い、ときに無茶をする患者を叱り、弱気になる患者を励ます、厳しくも温かい白衣の持つ力は根底にある誰かを助けたいという想いと優しさの現れです!」
「弟が1人だけ遅れるのは可哀想だと思ったのは、別に優しさではなく、兄としての義務感です」

 遅れそうな人を待ってあげるのは、優しいと思います。1人で遅れていくより、仲間がいたほうが心理的には楽になりますから。
 でもなんで、デレツンするんですか?従兄その1。
 デレが最初でツンが後なのは何でですか?

「そ・し・て!燕尾服ーー!!一分の隙もなく着こなした白と黒を基調とする控えめな装いは、主人の影となり手足となって働く健気な印象を与えつつ、決して侮られることを許さない誇り高さを隠すことはしないわ」
「お嬢様。お身内とご親族だけの場とはいえ、そのように大きな声を出されるのは淑女としていかがなものかと」

 ブレないな。相変わらず。この人が動揺してるのとか見たことないや。
 あと、他人行儀な言葉吐いて執事見習いしてるけど、君も親族だろう?従兄その3。

「アアアアァァ!!ぞくぞくするわ!何て素晴らしい光景なの!目の保養だわ。こんなに来ている制服がぴったりと似合う人たちが、この世に存在していいのかしら!?とりあえず私は最高に幸せになれるからいいけれどっ!」

 姉は従兄その3の話を全く聞いていない。
 慇懃な笑みを崩さないけど、従兄その3は絶対怒ってる。
 だって、笑ってるのに雰囲気が極寒だもん。

「……でも、我が弟は今年で学校卒業なのよね。飛び級スキップなんてするから」
「優秀さを非難されるような言葉を掛けられたのは初めてですよ、姉さん」

 明らかに拗ねている口調に、呆れてから言葉を返す。

 すると、姉が何かを思いついたように眩しいほどの満面の笑みを浮かべた。
 碌なことを言いださないに違いない。

「我が弟よ!卒業した後も、入らなくなるまではその制服を着ない?保管は私がしておくから!!」
「却下です」

 本当に碌でもないことだった。

「もうっ。我が弟は姉想いではないのね!」

 悲しそうに言うな、姉。
 姉の方こそ弟のこと想ってそんなこと言ってんのか?
 想って言ってるとか冗談でも口にしたら、出るとこ出たって構わんぞ。

 あと、従兄その4、こっちを睨むのを止めろ。

 さっきはみなまで言うのを避けたが、どう考えてもこの姉が陶然とする対象は弟でも叔父でも兄でも従兄でもない。
 断言する。

 姉が好きなのは人間ではなく“制服”だ。

 人間は、制服を彩る添え物に過ぎない。

「今年で居なくなるのですね、学校の制服着てくれる方は……。我が弟より年下の男の子はいませんもの」

 憂い顔が美しいのが、この姉のくせに腹立たしい。
 幼い日の自分は、何度この顔に騙されてきたことか。

「そろそろ適齢期ですし、着てくれる子を私が産むしかないわね」




 は?





 ぽかんとした。
 皆、ぽかんとしてる。
 あ、違った。従兄その3だけは平然とお茶の準備してた。

「んー、あなたが年齢的にいいと思うのだけど、あなたの結婚相手として私をどう思いますか?我が従弟その3」
「承りました。執事に相談ののち、晩餐前には帰宅される旦那様に、その旨をお伝えしておきます」
「よろしくね。それから、あなたはこれから私のことを、お嬢様ではなくエメーリアと呼んで。エメルでもいいのよ?」
「旦那様がお認めになられればそう御呼びさせていただきます。お嬢様」

 状況についていけない。
 今何が起こっているのか。

「それから、お嬢様にもう1つご注意を申し上げます」
「なにかしら?」
「できれば、私のことはベイナードと御呼びください」

 どうして、従兄その3は状況に対応できているのか?

 さっきまで極寒の薄ら笑いだったのが、柔らかくベッタベタに甘い雰囲気を漂わせているのは何なのか?



 制服が大好きすぎて、どこかおかしいと思うようになった美貌の姉。
 その美貌を持ちながら、残念すぎる嗜好への情熱が結婚なんてしないわ、と姉に宣言させていた。
 
 誰もが知っているわけではない姉の醜態にブレることなく対応しているのは、従兄その3だけでなく自分を除いた姉のこの姿を知る人間全員だ。
 けれど、年に1度しかその醜態を晒さない姉は、受け入れるふりをして、みんなが姉のその姿を認めてはいないことにも気づいていた。

 弟の自分は拒否感丸出し。
 叔父は1年に1度だからと耐える。
 長兄は有耶無耶にはぐらかす。
 次兄はそうですか、と受け入れるだけ。
 従兄その4は現実を見ない。
 従兄その2は都合のいいところだけ。
 従兄その1は分かっていながら触れはしない。

 ただ1人、この従兄その3を除いて。

 従兄その3だけが、姉の醜態を受け止め、認め、肯定し、その上で行き過ぎな醜態にマナーの面から苦言を呈す。

 正直、この姉のすべてを知った後で、まるっと好きになるのは自分には無理だ。

 だから、このどこかおかしい姉を好きになる人は、姉と同じようにどこかおかしい。

 この人は、どこかおかしい。

 それが、たまらなく嬉しかった。

 きっと、この人は姉に共感することは絶対にないだろう。
 けれど、拒絶することも絶対にないと思えた。

 

 コンコン、と扉をノックする音がした。
 お茶の用意を整えた従兄その3は、姉を抱擁するでもなく愛を囁くでもなく、甲冑を着た自分の兄の前まで進み出て、軽く一礼していった。

「着替えの用意が整ったようです。では、こちらへ」

 ブレなさすぎだろう、おい。





 数年後の今日と同じ日に「小さな天使!」と叫びながら、小さな子供にミニチュア版のさまざまな制服をかわるがわる着せて、最終的に大泣きさせる美貌の妻の傍らで、何事にも動じない燕尾服を着た夫が子供の扱いに関して、妻を注意する姿があったとか……。
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