上 下
7 / 50
第1章:候補学生

第7話:空を翔ぶのに必要なのは頭じゃない、両手と両足よ

しおりを挟む
 ロックウェル教官の受け持つ航空力学の講義中、ぼんやりと窓外を眺めていたフレミングは天空に浮かぶ2筋の雲を見つけ、それを視線で追う。他クラスの候補学生が操縦するAMF-75Aの前進翼が発生させる飛行機雲ヴェイパーであろうか。その航跡をトレースするように両手両足が自然に動く。こんな座学など終わりにして、早く自分も飛びたい。
「速度350ノット、左バンク角60度で水平旋回する際にかかる荷重はいくらか」
 ロックウェル教官の発する質問を聞くともなく聞いたフレミングの両手両足は、今度はその声に反応して動く。体も少し右に傾いたようであった。その奇怪な動きを目ざとくみつけた教官は、今度はフレミングを名指しして繰り返す。
「フレミング候補学生、かかる荷重はいくらか?」
「これくらいであります。教官殿」
 悪びれずに両手のポジションを以って答に替えたフレミングにあきれたロックウェル教官はこう宣告した。
落ちこぼれスケジュールド小隊4名、後で教官室に出頭のこと」

******************************

 恒例の滑走路ダッシュを終えて敷地内にある寮舎レジデンスに戻ると玄関ホールにイッセキの姿があった。
「第18小隊のみなさんはまた特別訓練ですか?小官達も少しは見習わなければいけませんわね」
 他の者が言えば嫌味であったろう台詞もlイッセキの場合にはそのように取られないのは彼女の日頃の行いの賜物であろう。何しろ、座学にしろ演習にしろ実技にせよ、人一倍ストイックに取り組むイッセキの姿を目にしない者は航空士官学校ベンガヴァルにはいないのだから。「夕食前のわずかな休憩時間に少しでも基礎体力づくりを」 と今にも飛び出していきそうなイッセキに、キルヒホッフが問いかける。
「それでイッセキ、ワタクシ達に何かご用がおありだったのでは?」
「えぇ、そうでしたわ。フレミングさん、貴女またおやりになったそうですわね?」

 第1トップ小隊はクラスが異なるため、第18落ちこぼれ小隊が滑走路ダッシュさせられた原因については伝聞でしか聞いていないイッセキである。
「何でも、候補学生カデットであれば1号学生でも答えられるような初歩的な出題に、フレミングさんはジェスチャーでお答えになったとか?」
 因みに航空士官学校ベンガヴァルでは1年生のことを「1号学生」と呼称し、3年生のことを「3号学生」と呼称することになっている。「その通りではあるけれど、そうではないんだよなぁ~」と上手く説明する方法を思いつかないフレミングに、ファーレンハイトが救いの手を差し伸べる。
「ってか、まじ何あの出題?ぶっちゃけ、うちでも答えられるような超簡単な問題、マジメに答えろって方が無理じゃね?」
「ファーレンハイトちゃん、それ何のフォローにもなってないよぉ~」
 澄み切った清流のような透明感のある水色ライトブルーの髪と同じように濁りの無い瞳を拡げて、ケプラーが突っ込みを入れる。
「そうですわ、フレミングさん。例えどんな出題であっても、教官殿の問いには真面目に答える義務がありますわ。それとも……」

 イッセキの再度の問いに、フレミングは考えながら答える。
「えっと~、両手がこんな感じだったから、2Gくらい?」
「えっ!?」
 フレミングのことは良く知っているはずのキルヒホッフですら、赤髪マルーンの親友の返答に首を傾げる。ロックウェル教官の出題に対する正答ではあるが、今、何故、その答を?唖然とするみなの顔を眺めまわしてフレミングが確認する。
「えっと、そうだよね?キルヒー?」
「えっ、えぇ、その通りよ、フレミー。って貴女もしかして、先ほどは本当に……?」
 予想外のやりとりを聞いていたイッセキが、フレミングを窘める。
「フレミングさん、貴女……少しは航空力学の理論も身に付けなければ」
 イッセキの正論に、今度はフレミングが目をまるくする。
「でもねイッセキ、飛行機は理論で空を飛ぶわけではないでしょ?」

******************************

 航空士官学校ベンガヴァルの席次は2学年次前期課程の期末に行われる終了試験の成績に基づいて決定される。終了試験は筆記試験十科目と実技試験からなり。ひとつでも落とせば退学となる厳しいもの-能力の無い者に国防を託すほど、バーラタはお人好しの国家では無いのだ。-である。イッセキは航空士官学校ベンガヴァル創立以来初と言われる筆記試験満点の成績であり、かつ実技試験の成績も「A+」と優秀な成績であった。イッセキが「首席トップ中のオブ首席トップ」あるいは「真の首席ザ・トップ」と呼ばれる所以である。一方、フレミングの席次は39位。筆記試験は学年最下位であったという。「という」等と伝聞形式で伝わるのは、発表されたフレミングの点数には疑惑が付きまとっているが故である。

 筆記試験は代数学、幾何学、物理学、化学、機械工学、情報理論、論理学、航空力学、戦史・戦術理論、戦闘機動理論の全十科目からなっており、各科目の合格点は100点満点中の50点である。この筆記試験の成績、フレミングの合計得点は500点であった。この得点はあと1点でも足りなければ退学であったことを意味しており、一部の者がフレミングを「落ちこぼれスケジュールド中の落ちこぼれアンカー」と評する所以である。成績発表の場に出席したフレミングに、口さがない同期生達は
「どうせ退学に決まってるのに、今日は何しに来たの?」
 などと言い、フレミングの名前が39番目に告げられると
「よく退学にならなかったものだ」
 等と無責任にも言ったものである。

 しかもフレミングの得点は全ての科目がみな50点という、偶然とはとても考えにくい=何かの意思が働いたとしか考えられない=得点であった。フレミングの点数が疑惑まみれと言われるのも理由の無いことではないのである。この理由について候補学生カデットの間で最も人気が高い説明は
「実技の結果を惜しんだ教官がお目こぼしをした」
 というものであった。これは、フレミングの実技試験の成績が「歴代候補学生カデット中No.1」と言われる「特A++」であったことに起因している。こちらの結果については同期生の全てが納得するものであるが故に、この通説には相応の説得力があった。

 またあるいは
「フレミングの回答は正答率だけ見れば平均で80%を超えるのであるが、途中の理論や証明過程を全て省いて回答だけを記入した結果大幅な減点調整が成されたのだ」
 という言説も存在し、普段のフレミングの言動に鑑みるに、この説も候補学生カデットの間で先の説明とともに人気を二分するものであった。因みに後者の言説に対して当のフレミング自身が
「私には見えてるの」
 等と無邪気に宣うものだから、周りの者達はひそひそと
「きっと、退学がドロップアウト イズ見えてるプレディクティッドのね」
 等と噂し合うことになるのであった。

******************************
 
「そうですけれども、理論を正しく理解しなければ、正しい操縦はできないですわよ」
 フレミングの問いかけに対する、イッセキの優等生らしい返答である。無論、そのようなことは航空力学の講義中に散々聞かされているフレミングである。そしてその、頭では理解できる正論に、しかし実感としては納得のいかないフレミングであった。
「それじゃイッセキは、いつも頭で考えながら空を飛んでいるの?」
 考えながら操作するのでは反応が遅くなるではないか、そんな単純な疑問を投げる赤髪マルーンに、桃色のクルーカットが当然のように答える。
「当たり前ですわ。計器を見て高度・速度・姿勢を確認し、目標に向けて最適な航路パシュートを得るように出力とGを調整する。基本ではありませんか」

 いや無論フレミングだって、計器は必ずチェックしている。しかし、フレミングが言いたいのはそういうことではない。
「そんなの、つまんないし気持ちよくない。大体、空を飛びながら計算なんかしてたら、墜落しおちちゃうじゃない!」
 計算してから操作するのではない。想定する航路パシュートをトレースするよう操作を行い、結果を計器で確認する。要するに、順序が違うのではないか?とフレミングは言いたいのである。何Gか?なんていうのは計器が教えてくれるのだから、バンク60度で水平旋回と言われればそのように両手両足を動かすだけである。2Gは結果で、決して先に計算した答になるように操作するのではないはずだ。そんなフレミングの疑問に、しかしイッセキは予想外の理論を以って返答とした。
「そう、だから繰り返し勉強して、計算せずとも正答を得るように頭に叩き込んでおくのではありませんか」

 操縦は体で覚えるものだと思っていたフレミングであるが、イッセキは頭で覚えろという。???
「えっ、そんなの全部覚えてるの?ベクトルがどうどか、サイン・コサイン・タンジェントとか……?」
 正直そんなの無理、と言いそうなところをギリギリのところでぐっと堪えた。一方のイッセキはイッセキで、そんなことも覚えていないのに何故あんなに飛べるのだろうか、と疑問に感じている。
「逆にお聞きしますけど、それではフレミングさんはどうやって空を飛んでいると仰るの?」
 この時のフレミングの返答は、フレミングの天才を理解しているイッセキであるからこそ彼女には羨ましいものであった。ベテランパイロットであればあるいはそうなのかもしれないが、候補学生カデットはまだまだひよっこなのである。「体で操縦を覚えている」と恥ずかし気もなく言い切る落ちこぼれスケジュールドを目の当りにし、羨望と嫉妬のカクテルに諦念のビターが1ダッシュ振られた思いのするイッセキであった。
「そんなの決まってるじゃない、イッセキ。空を翔ぶのに必要なのは頭じゃない、両手と両足よ。こうやってこうすれば...ね?」
 赤髪マルーンのシャギーが華やかに揺れた。
しおりを挟む

処理中です...