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第二十話 暗闇は音もなく
しおりを挟む「蓮華様は陽治郎様のことを知ってるの?」
「知ってる?」
右白と左黒とともに庭で野花を摘んでいたとき、彼女たちは蓮華にそう問いかけてきた。
蓮華はぱちりと目を瞬いてから固まり、どう答えようか迷った。もしかすると、この間、蓮華が紫に話していた夢の話を聞いていたのかもしれない。
右白はヒルガオを突きながら「あのね!」と続けた。
「陽治郎様はね、私たちを直してくれたの!」
「直してくれた。痛かった」
「ひび割れたり、欠けたりしてたんだけどね、丁寧に丁寧に、みんなと一緒に直してくれたの!」
「綺麗になった」
二人はそろって犬の面に手を当て、嬉しそうに目もとを細める。
蓮華の頭に、陽治郎の記憶がよぎる。
子どもたちとともに、古びた神社の狛犬を直した陽治郎の姿。その狛犬の顔は、右白と左黒が身に着ける面の顔と似ていた。
蓮華はひとり納得する。
ただの少女でなく、神である紫の使いであるとは知っていた。犬の面をした彼女たちの正体が、神社を守る狛犬であるとは思いもしなかったが。
「私たち、陽治郎様が好きなの!」
「大好き」
「蓮華様も陽治郎様のこと好き?」
「同じ?」
蓮華は胸をぎゅっと抑え、泣きそうに目を伏せてから笑う。
「うん。私も、陽治郎さんが大好きだよ」
口に出して、蓮華の心はまっすぐに定まっていく。まるで紫が束ねる【悪縁】の縄のように、蓮華の思いもまたひとつに固まる。
「ちょっと家の中に戻るね」
一声かけると、右白と左黒は楽しそうに手を振った。蓮華は縁側から家の中に入っていく。
いじめの主犯たちが退学してから、蓮華の学校生活は一変した。平和な日常とはこの光景を指すのだろうと、友人たちに囲まれて楽しく過ごせている。
家に帰れば、可愛らしい少女たちが迎えてくれる。ひとりっ子の蓮華にとって、右白と左黒と戯れる時間は心弾むものだった。
温かなおいしいご飯を並べてくれる嵐には、消極的な蓮華も心底懐いた。手伝うことはないか、と親鳥を追うひよこのように後ろをついて回る。強く出られない嵐から、やかましく走り回る少女たちの世話を任される機会も多くなった。
話を聞いてほしいとき、紫は先読みしたように居間の定位置に座っている。「今日は学校でこんなことがあった」「友達とこんな話をした」と、拙い語彙で説明すると、紫は穏やかに笑ってうなずく。蓮華が父親にしていた代わりを、紫は平然と担う。
蓮華は優しい空間に染まりすぎていた。優しい生活、優しい日々、優しい人たち。自分を害するものなど何ひとつないと錯覚しそうになるほど、蓮華は父親と一緒だったときのような幸せを思いだしていた。
この毎日を大事にしたい。優しくありたい。このまま、ずっとこのままであればいい。
ずっとこの家にいたい、と強く思うようになっていた。
「二人と遊んでくれてありがとう」
「いえ。あの子たちと遊ぶのは楽しいので」
居間で本を読んでいた紫は、庭から帰ってきた蓮華に茶を淹れてくれた。
いつも通り、紫とお茶を飲みながら、日常の場面ごとに楽しい会話を繰り広げる。紫は頬をゆるめて話を聞いて、蓮華も落ちついた心で楽しさを感じていた。
だから、自然と欲があふれていた。右白と左黒たちと話をして定まった気持ちを、すぐに聞いてほしい気がはやったのだ。「ずっと、一緒にいたい」、その一言を口に出す。
「ずっと、紫さんたちと、この家で一緒にいたいな」
この時間がずっと続けばいい、と本音をぽろり。
すぐに、言ったことを後悔した。
紫が顔を強張らせ、悲しそうに目もとを伏せたから。
「ごめんね。それは無理だよ」
失敗した。
勘違いした。
紫が、嵐が、右白や左黒が、友人たちが、優しいから思い違いをしていた。
周りが変わったからと言って、蓮華自身が変わったわけではないのだから。蓮華の卑屈な性格も弱い心も、何ひとつ変わってはいないというのに。
顔がかっと赤く染まる。恥ずかしさと、悲しさで圧し潰されそうになる。どこかから湧いてでた悔しさに目の奥がじわじわと熱くなる。
蓮華はせめてもの意地で、震える声を発した。
「そう、ですよね」
自身でも肯定して、「みんなとずっと一緒にいたい」という夢は粉々に砕け散った。
プルル――、と固定電話が鳴った。すぐに音は聞こえなくなったので、嵐が代わりに電話を取ったのだろう。話し声が廊下の方から聞こえてきても、蓮華のほてった顔はなかなかもとに戻らない。
「紫さん」
居間にやってきた嵐が、紫の耳もとに顔を寄せる。蓮華は紫の顔を見られないまま、膝に目線を向け続けた。
「蓮華さん」
聞きとれない二人の話が終わり、紫に声をかけられて、ようやく顔を上げた。視線の先の紫は真剣な目をしている。
あっと、息を整える前に、紫の形のいい口は開かれる。
「蓮華さんのお母上から、お電話のようだ」
心臓がぎゅっと音を立て、止まってしまったような心地だった。何も聞こえない。何も見えない。
怖くてしかたない、暗い闇を思いだした。
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