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第十九話 神の世界
しおりを挟む休日でも変わらず、嵐は紫の家にやってくる。早朝から五人分の朝食を作り、昼食や夕食だけでなく、常備菜を何品も用意する。普段学校に行っている間の紫たちの昼食も準備しておく。何しろ、家主は料理関係においてまったく頼りにならないからだ。
手が空くとすぐ食以外の家事も行う。父子家庭で育った蓮華も一通りの家事はこなせるものの、嵐の無駄のない動きはなかなか真似できるものではない。
「嵐先輩は、どうしてそこまで――」
紫に尽くすのだろうか、と問いかけようとして、蓮華は口を止めた。彼らの関係を追及してもいいものか。蓮華にも言えない関係性や言いづらい事柄はある。
言葉をにごした蓮華に、嵐もまた洗濯を干す動作を止める。
「気になるか?」
その声が微笑を含んでいたから、蓮華は思わず顔を上げた。背の高い嵐の顔は思いのほか近くにあって、蓮華の手にあったバスタオルを攫っていく。嵐の干しやすい高い位置にある物干し竿にタオルをかけてしわを伸ばし、洗濯ばさみで止める。手慣れた動作に見とれ、蓮華はようやく「はい」と小さく返事をした。
「おまえと逆で、俺の家もひとり親なんだ。シングルマザーってやつだな」
洗濯かごから別の洗濯物を拾いながら、嵐は世間話のように生い立ちを語っていく。蓮華も耳を傾けながら隣で作業を続けた。
小鳥の鳴き声が林の方から聞こえてくる。小鳥の出す高い音に混じって、嵐の低い落ちついた声が耳を突いた。
「ちっさいころ、小学校に入ってないころに、俺は誰からも愛情をもらえなかった」
あまりにも平然とした話し方に、蓮華は思わず言葉をはさむ。
「でも、お母さんとふたり暮らし、だったんですよね?」
「おまえはきっと父親に大事にされて育ったんだろうな。親に愛されない子どもがいるって、想像できないんだ。ああ、それが悪いって意味じゃないぞ。想像できないのが当然なんだ。当然であるべきなんだ」
嵐の横顔は高校生らしくないほど大人っぽくて、なぜかとてつもなく悲しく見えた。
「飯はないし、着る服もない。家は、まあ部屋の隅が居場所だった。いないものとして扱われてたんだ、母親に。母親の残飯をこっそり食べたり、着古されたシャツなんかを着たりしてしのいでた。俺はいないものだったから、特に怒られることもなかったし、あの人にとっては小人が盗んでいったくらいの認識だったのかもな」
乾いた笑いをもらし、嵐は二枚目のバスタオルを干した。風によってタオルはバタバタとはためいて、蓮華は素早く洗濯ばさみを二つ手渡す。
世間ではそれをネグレクトというのだと、きっと幼児の嵐は知らなかったのだろう。無条件でもらえるはずの親からの愛を、もらえなかった子どもは、いったい何を思っていたのか。
「けっこうヤバかったんだろうな。紫さんいわく、片足は神の世界に入っちまってたらしい。まあ、七歳より前だから神の子のくくりだっただろうし、神は誘いやすかっただろうな」
人間扱いされず、影の薄かった子ども。
蓮華は紫のシャツを伸ばし、ハンガーにかける。発言をはさむ真似は気軽にできそうになかった。
「半分入ってた神の世界で、紫さんと出会った。紫さんは俺のことを保護してくれたんだ」
幼い子どもだった嵐と、神様の紫は、交わることのなかった神の世で出会う。嵐はそれを「運がよかった」と語った。
「でもな、紫さんは料理が壊滅的だからさ。俺は何回か紫さんの作った飯で生死を行き来した。各段に生きる環境は整ってたけど、衣食住の食に関してはどっちもどっちだったな!」
思いだし笑いを浮かべた嵐は、手の甲で笑い声を堪えた。いつも仏頂面の嵐にしては珍しい顔だ。蓮華は手を止めて、思わず見入ってしまった。
これはきっと嵐にとって初めての幸福の記憶なのだ。ひどくまずいと言いながら、その一見消極的な面も嵐には特別だったのだろう。
「紫さんに任せてたらやばいって思って、自分で料理するようになった。生きる術のほとんどは紫さんが教えてくれた。大して人と関わりたいわけじゃないのに、紫さんはお人よしだから。……人じゃ、ねえけどな」
今の紫を見ていると、忘れてしまいそうな違和感。蓮華はやはりと直感的な推測が正しかったと知る。
紫は神様でありながら、人の世界で暮らしている。人の嵐の作った料理を食べ、人の蓮華の後見を務めている。しかし、彼は人に率先して関わろうとはしない。自分の許容できる範囲から、出ようとはしていないのだ。
紫は人と一線を引いている。特別を、わざと作ろうとはしないでいる。
「人が好きなのに、人と積極的に関わろうとしない紫さんの、そばにいたいと思ったんだ。あんなにきれいな心を持つ存在を、俺は本当に知らなかったから。俺に、感情を教えてくれたのは、間違いなく紫さんだったから。そばにいたいって思うのは、何かしてやりたいと思うのは――」
当然の結果だった。
紫の存在を、心を、優しさを知ってしまったら、離れるなんて発想は思い浮かばない。
だから、嵐は紫のそばにいるのだ。彼のために尽くすのだ。ひとりになろうとする優しい神様を、決してひとりにしないために。
「そのあと、お母さんとは……?」
気になって尋ねると、嵐はためらう仕草を見せず淡々と答える。
「縁を切るのは可能だって、紫さんに言われたよ。親子の関わりを断絶できるって。けっこう呆気なく、あっさりと」
ばさばさ、と真っ白のシーツを嵐は広げる。蓮華は反対側に回って、風をまとったシーツに手を伸ばす。
「でも、断った。切らない選択をした」
白いシーツに太陽光が反射して、嵐の顔が映える。キラキラと何の憂いもない顔。
「俺をいないものと決めつけるけど、俺に愛情をくれない人だけど、俺にとっては母親であることにちがいないから。縁を切って、全部をなかったことにはさせてやりたくなかったんだ」
もしかしたら、死んでいたかもしれない。殺していたかもしれない。その事実を、忘れさせたくなかった。忘れさせない選択を下した。
「紫さんが、強制的に話をつけた。母親の【悪縁】を切って、俺の存在を強制的に見るように仕向けた。理を捻じ曲げて、別人みたいになったよ。今では人並みの母親だ」
それは本物の母親だと言えるのか。
嵐は答えをもう知っているはずだ。紫によって変貌させられた嵐の母親は、【悪縁】からの解放を罰とされた。人格を殺された。嵐にしたすべてが自分に返ってきた。因果応報であるものの、見方を変えれば嵐による復讐にちがいない。
その復讐を背負って、今の嵐があるのだ。
小鳥の鳴き声がやんで、羽ばたきの音。いっせいに飛び立っていった鳥の羽音が段々と遠ざかっていく。
「神の世界ってどんなところか知ってるか?」
布巾などの細かいものを洗濯ばさみでつけながら、嵐は世間話のノリを崩さず聞いてくる。
蓮華はすぐに「いいえ」と答える。嵐は「そりゃそうだよな」と洗濯物がなくなった、空(から)のかごを持ちあげた。
「神は人に無関心で、ときどき思いつきのままに人で遊ぶんだ。その戯れを許された存在が神だ」
残酷で、薄情で、人とはまったく異なる存在。人と関わることのない尊き頂点。
紫と同種には見えない、想像の域を出ないモノ。
「紫さんと大違いだろ? 紫さんだけが特別で、異質なんだ」
神の世界を知っている嵐にとって、紫だけが唯一の神なのだ。それは紫以外の神しか知らない蓮華にとっても同じだと言えた。
干し終わった洗濯ものが風に揺られてそよいでいる。満足げに見渡して、二人は家の中に戻った。
ふと、整理のついた言葉を嵐はつぶやく。
「紫さんが【悪縁】を引き受けるのも、紫さんが人を愛しているからなんだろうな」
人を愛してしまった神様。
その最初の人とは、誰かと聞かなくても蓮華は察する。これほど重く厚い思いを陽治郎は抱かれている。
蓮華はそっと、胸の奥に眠ったままの陽治郎に呼びかけた。
応答は、できないままだ。
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