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第十六話 裏切り
しおりを挟む梨花の暴行で受けた傷が癒え、教室に顔を見せると美代やほかの友人たちがいっせいに駆け寄ってきた。美代が飛ぶように抱きついてきて、押し倒されそうになりながらもしっかりと受けとめる。
「けがはもういいの?」
心配そうに顔や体を交互に見てくる彼女たちに、蓮華は笑顔を向けた。
「もう大丈夫だよ。心配させてごめんね」
「蓮華ちゃんが無事ならそれでいいんだよ。美代ちゃんから話は聞いてたんだけど、実物を見るまでは不安でさ」
「実物ってあんた……。でも、けがが治ってよかったよ。あっ、あの話は聞いた?」
目に涙を浮かべる友人に「ありがとう」と声をかけて、もう一人の問いに首を傾げた。
「話、っていうのは?」
「蓮華をいじめたやつら、自主退学したんだって」
「え……」
絶句する蓮華に、強く抱きついていた美代が顔を上げる。
「蓮華ちゃん、自分のせいとか思っちゃだめだよ。自業自得なんだから!」
「なんでも、主犯の父親の汚職が見つかったとかで、家族で雲隠れしたみたいで。取り巻きたちも今までしてきた悪さが発覚して、逃げるように退学したみたいよ」
「きっと天罰が下ったんだよ!」
頬をふくらませ、可愛らしく怒る美代の頭をなでながら、梨花たちの顛末(てんまつ)を聞く。
蓮華は驚いていたが、陽治郎はその一連に紫が関わっているだろうと考える。あいつならやる、とかつての友の本性を知る者としては、蓮華を虐げた者たちを野放しにするとは思えなかった。
――蓮華さんは神様に見守られているんだね。
語りかければ、蓮華の心はいっそう嬉しそうにじんわりと温かくなった。
編入してからは珍しく何事もない平和な一日を終え、蓮華は紫たちが待つ家に帰宅する。
玄関前に立ちどまり、胸を押さえ深呼吸をする。今日こそは、と力を入れて戸を開けようと手をかける。とたんに、中から横に開き、なだれ込む勢いで右白と左黒が抱きついてきた。
「蓮華様、おかえりなさい!」
「おかえり」
面で口元は分からないものの、満面の笑みを二人は浮かべていた。蓮華はつられるようにして笑みを深める。
「ただいま!」
初めて、心から言うことができた。陽治郎はもうほとんど表には出ていない。蓮華の意思で体を動かし、気持ちを整理づけている。
陽治郎は自分の存在が必要なくなるのも時間の問題だと感じていた。それを寂しいと思いつつ、大切な守り子である蓮華が前に進めるのならそれでいいと割りきっていた。
――私は所詮、死人であり魂だけの存在。蓮華を救えたのなら、私の役目も終わりだ。
蓮華にも伝えなければと、右白たちに手を引かれ、縁側へと誘われる彼女に思う。
別れはいつだって寂しいけれど、蓮華には紫たちがいる。心の中に住む陽治郎よりも、よほど力強い存在ばかりだ。あとは陽治郎が抱く、整理のつかない、最愛の友への罪悪感だけである。
どうしたものか、と陽治郎が考えていると、縁側には先客が日を浴びていた。
「猫神様だ!」
「おやつ、いる?」
お菓子の皿を持った左黒に突かれた猫神様は、面倒そうな顔を向けて蓮華を見て目を細めた。
「なんだ、帰ったのか。いやだ、いやだ。騒がしいのが増えたわい」
蓮華の体がびくっと跳ねる。陽治郎もぎょっとして猫神様に目を向けた。
「ね、猫がしゃべった……」
「猫がしゃべって何が悪い? そもそも、わしをただの猫だなんて思ってるんじゃないだろうね? あの狗(いぬ)どもも言ってるだろ。わしは猫神。神なんだからしゃべるくらいなんともないわい」
どうやって人と同じ声色を出しているのか観察しても分からないほど、猫神様はすべるように人の言葉を使う。蓮華はびっくりして、ガラス戸に寄りかかって座りこんだ。
「猫神様ー、普通の猫はしゃべんないよー?」
「わしは神様だからしゃべるんだよ」
「でも、猫」
「猫の神様なんだから猫に決まってんだろ。つか、狗ども! わしの周りで騒ぐんじゃねえって、何度! 言ったら! 学習するんだ! よぅ!」
右白がどこかから取りだした猫じゃらしを、左黒が絶妙な技術で操る。左黒が猫じゃらしを揺らすたび、猫神様の体はぴくっ、ぴくっと反応してしまう。目を光らせた猫神様は一気に飛びついたものの、左黒の腕使いによって翻弄されている。そのさまを、右白はやんややんやと手を叩いてはしゃいでいた。
神様とは言っても、しゃべる以外、見た目のぽっちゃり体型も動作もほとんど猫と変わらない。夢中になって猫じゃらしに戯れる姿は、まさに猫である。
「たくっ! わしで遊ぶんじゃねえっていつも言ってるだろ狗ども!」
なかなか掴みとれない猫じゃらしを前足で叩き返し、猫神様は少女たちに怒鳴る。二人はまったく反省した様子を見せず、笑いながら居間の方へと逃げていった。とたとたたっと、廊下を走っていく二人の足音を聞きながら、取り残された蓮華はちらっと隣を盗み見た。
「あー、たくっ、あやつら覚えてろよ」
文句を言いながらも追いかけない猫神様は、香箱座りに体勢を直し、日向ぼっこを再開した。
手持無沙汰になってしまった蓮華は、迷った末にそろりと猫神様の隣に腰かけた。
まぶしい日差しに対して、目をまっすぐにして丸くなっている様子は、まさに猫そのもの。ぽかぽか陽気に包まれている温かそうな毛並みを触りたい欲求が込みあげる。
神様に対してこちらから手を出してはいけないと手を慌てて引っこめ、猫神様と同様に日向ぼっこをする。蓮華の紺地の制服も日向の熱で段々と温まっていく。まるで風呂に浸かっているかのような心地だ。
「おまえさん、陽治郎のことは知っているのかい?」
突然、猫神様から声がかかった。閉じていた目を見開き、隣を見る。猫神様は相変わらず気持ちよさそうに目を細め、庭の方を向いていた。
――なぜ私のことを?
蓮華がどう答えるか逡巡していると、再び猫神様が口を開いた。
「陽治郎は残念だったなぁ。まさか最も信頼を置いていた者に裏切られるとは」
もしここに陽治郎の体があったなら、それは深く低い鼓動を鳴らしただろう。陽治郎の動揺は真っ先に蓮華に伝わる。蓮華は戸惑いながらも猫神様に問いかけた。
「裏切られた、って……どういうことですか?」
「そのままの意味さ。陽治郎が死んだのは、あやつ(、、、)が病魔を引き寄せたからだ」
「それは、故意に、ってこと?」
「その通り。陽治郎を殺して、あやつはいったい何がしたかったんだか」
ずどんっと衝撃が心をむしばみ、陽治郎は魂の形を保っていられなくなった。
――神様が、私を殺した?
蓮華が心の中で陽治郎を呼ぶ。その声は、溺れていって遠のいていく。蓮華が心の奥底でかたくなに閉じこもっていたときと同じく、陽治郎の魂は深い闇に包まれる。
信じていた。最愛の友を信頼していた。
その友に殺されたと知って、陽治郎は自分の形を確立できない。真実が知りたくて、真実を突きつけられるのが恐ろしい。
それならば、一生知らないまま死んでいられたときに戻してほしかった。
蓮華の声がもうほとんど聞こえない。陽治郎の魂は浮上できない底へ沈みきってしまった。
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