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第十話 気持ちは体を越えて
しおりを挟む朝起きたとき、嵐と友達になりたいと陽治郎は思った。紫はすでにかつての友人だ。右白と左黒は友人というよりは妹に近く、振り回されることが多いため関係性は友人らしくない。
嵐は気遣いのできる優しい男だ。きっと蓮華に対しても親切にしてくれるだろう。この家に来て初めて会った人間でもある。彼ほど適格な人選はないはずだ。
嵐に友達になってほしいと頼んでみよう。陽治郎はそう考え、すぐに蓮華の記憶が制止をかけた。
この令和の時代では男女間の友情は物議をかもしているようだ。思春期という厄介な期間が、友情か恋愛かの判断をつきにくくしている。異性同士の距離が近いだけではやし立てたり、恋人関係にある相手の異性と話しているだけで問題になったりする。
男女間に友情はないと考えている者が一定数いる世の中なのだと認識するにつれて、陽治郎は心の中で「なんて面倒くさい世の中なんだ」とぼやく。
蓮華の記憶で、彼女が異性と話をする場面は少ない。世間話もせず、連絡事項だけ。その連絡も最低限だった。潔癖すぎるほどに蓮華の異性との関わりはない。
――私が嵐と友人になるのはおかしい、ということか。
ふと、昨日の学校での出来事を思い浮かべる。
嵐の見た目は、男の陽治郎の目から見ても伊達である。無愛想ながら垣間見える優しさにときめく女子は多いだろう。おそらく学校でも人気があるにちがいない。
人気者の嵐が、見知らぬ女子と連れだって歩いていたら。登校中の生徒やクラスメイトの視線を思いだし、陽治郎は昨日の時点で気づかなかった自分を恥じた。
――蓮華さん、申し訳ない! 私はすでに多大なる間違いを起こしているかもしれない!
起きた瞬間からもう一度眠ってしまいたい。この時代ではそぐわない自分の失態に目をそらしたかった。
蓮華と嵐は適切な距離感ではなかったのだ。周囲がざわめいていた理由を陽治郎は一日遅れて知る。
嵐と友達になる道は不可能。むしろ、学校では距離を空けるべきだと考えに至る。
「蓮華様ー! 起きないの? ご飯できてるよー?」
「できてる、できてる」
部屋の外から右白と左黒の声がして、急いで布団から飛び起きる。二人にはすぐに行くと返事をして、制服に手をかけた。
今、陽治郎にできることは、蓮華の代わりに学校へ行くことだけだった。昨日と同じように、朝食をともに囲み、嵐のあとについて風巻高校へ登校する。嵐の作った弁当だけを楽しみにして、勉学に励む。
そう心がけ、迎えた昼休み。蓮華は昨日と同じように梨花という名の少女に絡まれていた。梨花の友人たちによって、蓮華の机周りは取り囲まれる。
「あんたさ、調子乗ってんの?」
ぽかんと口を開けてしまった。呆気に取られた陽治郎は、目の前の少女の意図をまったく理解できていなかった。
「なんで、今日も一緒に登校してんのって聞いてんの! それくらいわかれよ。岩泉先輩の迷惑になんだからさ、ひとりで行動ひとつできないわけ?」
梨花の後ろから「ちょっと聞いてる?」と別の女生徒が机を押す。
ふたを開けたばかりの弁当箱がずれ、慌てて落ちるのを防いだ。せっかく嵐が作ってくれた力作を崩すわけにはいかない。
落とさぬよう懸命な様子が、彼女たちには必死に見えたらしい。嘲(あざけ)る笑い声に、蓮華の体は恐ろしさを感じとって震えた。
「弁当ごときで焦ってんじゃねえよ」
「意地汚ねえなぁ」
わざと机をガタガタ揺らし、ニタニタと見下ろされる。
「ちょっと! やめなよ!」
「美代(みよ)っ!」
美代と呼ばれた髪の短い少女が、止めに入ろうと動いたのを視界の端で捉えた。ほかのクラスメイトの女子に制止され、歯がゆそうな顔を浮かべている。
周囲はこそこそと声をひそめるだけで間にはいろうとはしない。問題事にわざわざ首を突っこむ真似をしない者ばかりだった。
陽治郎にとって今の状況は、程度の低いいやがらせだった。しかし体の主の蓮華にとっては、彼女たちの圧力は恐怖以外の何物でもないようだ。段々と芯から硬直していく体と、下がっていく視線に、陽治郎は対抗できない。体の操作が蓮華の心に従っているからだ。
「岩泉先輩に近づかないでよ。あんたみたいな芋臭いのが先輩の周りうろつくとかありえないから」
いっせいに嘲笑を浮かべた彼女たちの声は教室中に響いた。周囲のクラスメイトは顔をゆがめる者もいる中で、絡まれないように顔をそむける者がほとんどだ。
小刻みに微動する体。首の後ろに気持ちの悪い汗がにじんでいく。心の中で陽治郎が蓮華に呼びかける。応答はないが、体は明らかに反応している。どうしよう、怖い、どうしようと叫んでいる。
バンっと大きな音を立てて、梨花は机を叩いた。手を突いたまま、蓮華の顔を覗きこんで声を落とした。
「ねえ、分かってるよね」
ひゅっと息を呑む。きっと聞こえただろう蓮華の悲鳴に、梨花は満足そうに笑う。その底意地の悪い顔に、唇は小刻みに震えた。
言わなくちゃ、と蓮華は頭では分かっていた。言わなくちゃ、言わなくちゃと、繰り返し頭に響く。嵐との関わりを楽しく感じていたのは、陽治郎だけではないから。
「それは……無理、です」
声は可哀相なほど細くて、小さくて、揺れていた。
陽治郎はその振り絞った声を、支配下にない体の内側で聞いていた。
――蓮華さん?
「嵐、先輩に、近づかないのは、無理、です」
梨花は一瞬ぽかんと間抜け面をさらし、すぐに醜く顔をゆがめた。
「はあ⁉」
蓮華の胸元を掴みあげ、机をはさんで顔を近づける。椅子は激しい音を立てて後ろに倒れ、持ちあげられた蓮華の首をいっそう絞めつける。
「んぐっ」
詰まる息に苦しみながら、目の前の不満をあらわにする梨花を見つめた。
「あんた何様のつもり⁉ 近づくなって言ってんの! これはお願いじゃないの、命令なんだよ。分かれ、ばーーか!」
唾を浴びせかける距離で、叫びに近い罵倒をかけられる。蓮華の体は固まっているのに、ぶるぶると震えている。梨花を直視するのが恐ろしくて、ぎゅっと目をつぶった。
「梨花っ!」
取り巻きのひとりが梨花に諫める声をかける。周囲は静まり返っており、椅子の音も相まって他クラスも何の騒ぎかと覗きに来ている者が数名いるようだ。
注目されるのは本意ではないのか、梨花は舌打ちを大きくして、蓮華を憎悪の瞳でにらんできた。掴んでいた胸元を乱暴に放す。蓮華はたたらを踏んで、足に力が入らずそのまま床に崩れ落ちた。
梨花は「鈍くさ」と吐き捨て、周囲に「見世物じゃねえぞ!」と叫んでから、取り巻きを連れて去っていった。
蓮華は心臓を押さえた。はぁはぁと浅い息を吐く。息を整えようとするも、どくどくと波打つ鼓動は定まってくれない。落ちつけ、と唱えても心は穏やかにならず、手は震えたままだ。
――蓮華さん、蓮華さん!
心の中から陽治郎が呼びかけても、蓮華の反応はない。表に出ていても、蓮華の意識ははっきりしていない。
――なぜ体の操作ができなかったのだろう?
蓮華がいきなり表に現れた。いつもの体が覚えているという感覚ではない。
代わりに陽治郎の魂は蓮華の奥深くに引きずり込まれた。蓮華が出ていきたいと思ったのか、訴えたいことがあったのか。
陽治郎には蓮華の気持ちをすべて推しはかれなかった。しかし、彼女が発した言葉は、陽治郎もまた同じ思いだ。陽治郎の見たものを通して、蓮華もまた感じ、考えている証拠である。
「寺坂さん!」
外側からの声に、蓮華はゆっくりと顔を上げた。先頭にはさきほど声を上げた美代という少女。その後ろにいるクラスの女子の数名が、蓮華の前にしゃがみ込む。こちらを気遣う視線に、敵意はなかった。
「寺坂さん、助けに入れなくてごめんね」
子犬のように目を揺らして、美代が蓮華の握りこんだ手をそっと包んだ。
「あの子たち、入学したときから感じ悪くて。もっと早く助けられればよかったのに。ごめん」
「だけど、寺坂さんがちゃんと意見してて、私たち自分が恥ずかしくなったよ」
「私たちも、寺坂さんみたいに自分の意見を言えるようになりたいな」
続けて周りにいた女子たちが思い思いの言葉を吐く。懸命に何かを伝えようとしてくれている彼女たちに、蓮華の目はもっと周りを見ようと大きく開く。
「寺坂さんと、友達になりたい。蓮華ちゃん、って呼んでいいかな?」
美代が蓮華の手を引く。その場にともに立ちあがり、蓮華に問いかける少女と目が合う。
蓮華の頬に体温が戻ってくる。頬はじんわりと紅潮した。
周囲の少女たちは温かい視線を向けてきて、返事をしなければとあくせくする蓮華の言葉を気長に待っていた。
「よろしく、お願いします」
小さな唇を動かして、目線を泳がせながらもはっきりと口にした。
「うん、よろしくね!」
優しい笑い声に囲まれて、蓮華はほっと息をつく。そして、緊張の糸が切れたように、蓮華はまた心の奥へ引っこんでしまった。代わりに陽治郎に体の支配権が戻ってくる。
陽治郎は目をぱちぱち瞬かせ、そっと胸をなでおろした。
――蓮華さん、よく頑張ったね。
蓮華の心が外に向けられたことは、きっかけが強引だったとしても好調の兆しだ。陽治郎は新しくできた友人たちに昼食に誘われ、一歩前に進んだ心地がした。
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