子鹿くんは狼

中山

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「む。これいいな」

あれこれ見て回ってグレーのラグを見つけた。理想として探していたよりも少し毛足が短いが、触ってみると良い。グレーとライトグレー、それにモカのミックスで、遠目から見るとほんのりブラウンがかっているところも気に入った。

「それ?」

「うん!」

「決めるん早いな」

「そうかな。だいぶ付き合わせちゃったと思うけど」

正午は丸めて置いてあった中からグレーを取り出し、そのままレジまで持っていってくれた。六畳間に敷いてゆとりがある程度だ、全体で見れば比較的サイズの小さなラグだが、やはり手持ちにすれば大きい。車で連れてきてもらえて助かった。

「他は?」

「もうないよ、ありがとう。正午くんは見たいものないの?」

「ないな」

「そっか。あ!でもほら、頼まれもの買わないと」

「忘れといてええのに」露骨にチッという顔をする。

「何々だっけ?」

リストを見せてくれて、ホームセンターへ行くことになった。



箱ティッシュに洗濯洗剤に石鹸、スポンジ、トイレットペーパーにキッチンペーパー。ネジやフックもあった。なるほどこれは大量だ。ストックがきれたわけではないラインアップだから、この機に乗じた単なるおつかいなのだろう。

巨大なホームセンターの広い通路を、正午がカートを押して、紗季はその横を並んで歩く。

「なんか新婚ぽいな」

「分かる。新居に越して初めての買い出しって感じ」

そういう連想を、正午もするのか。自分だけだと思っていたから嬉しくなった。

「紗季ちゃん買うもんないん」

「ないかな。断捨離してからあんまり物増やさないようにしてる、ストックとかも」

「…シンプルライフ」

いきなり似合わないことを言う、いやある意味では彼にこそ似合うのだろうか。たぶん雑誌か何かの受け売りだ。

正午が少し工具を見ていいかと言うので、喜んでついていった。



「どうする?これから」

時間を見ると四時半だ。帰ろうと言うとちょっと驚かれた。

「うーん、でも朝早かったし、一日運転してもらったし。今日は早めに解散して、ゆっくり休んでよ」

それならということで帰途に着いたが、車を置いたところで部屋に帰ってもつまらないと言い張った正午により自分の部屋へ連行された。せっかくなのでとラグを敷いてお茶でもと思ったのに、その上で襲われた。早く帰った意味がない。ないのだがすっかりぐにゃぐにゃにされてしまった。





水曜日、嫌で嫌で仕方のないミーティングがやってきて、しかも事態は予想していたよりもずっと悪かった。食欲が失せて、昼休みをわざわざ徒歩十分かけてコーヒーを飲みに行ったぐらいだ。コーヒーさえ残した。

ミーティングでは先日リリースしたプロジェクトの運用報告や事後提案の検討があり、プロジェクトを成果武器として他の企業へも売り込みをかけていくための話し合いが持たれた。紗季も売り込みのためのアイデアがあれば出すように言われ、資料作りの一部も割り当てられた。そこまでは良かった。重めの業務も出てきたが予想していたことだ。だからまあ、ミーティングそのものは最悪とは言えない。

ミーティングを終え、一人呼び止められてまずいと思った。



「それで、これからはもっと強力にタッグを組んでってことになってね。専任じゃないけどまあそれに近い感じで僕と谷山さんがつくようにして、その分営業に人を増やすわけよ。あそこ全国に支店があるでしょ? 僕らも出張で訪問させてもらったりが出てくるから、不在も多くなるし」

例の大掛かりなプロジェクト。そのクライアントとの話だ。どうも聞いていると、業務提携に近いほどの結びつきを持つような話しぶりだ。しかし、そうなると会社全体の舵取りがかなり変わってくるのではないだろうか。

「それで私ですか? でも制作部は…」

「うん、もちろん足りなくなるからね。若い子入れようと思ってる。福田さんにも新人教育できるようになってほしいし。ああだから、営業に移っても制作の新人が育つまでは半兼任って感じになるかな」

兼任ですでに半々という意味のはずだが。いや、細かいところはどうでもいい。

「今のうちの仕事、Kさんのところだけがちょっと毛色違う感じですよね。そちらに大きく振るとなると、Kさんの仕事とそれ以外という感じで業務内容が二分するイメージですか?」

「うん、そうね。あとKさんのとこ別会社で不動産関連もやってるんだけど、そっちも入ってくるようになるね」

「不動産ですか…さしあたっての感じとしては、私はKさんのところ以外の既存分を引き受けるという感じでしょうか」

「そうねー、当座は。ただKさんのところの比重高くなっていくと思うし、さっきも言ったみたいに、Kさんとこのやつ使える企業の掘り起こしはしてくから、同業種じゃないけど似た手触りのは増えるね。その分利益出てないところからは徐々に撤退していくって方向性だから」

「…もしかして、前に少しおっしゃってたMさんとかPさんとかの」

「ああそうそう、そのあたりだね。前いた部長の仕事だったからって今もずるずる続いてるけど、制作の時間取る割に数字合ってないからねえ」

たしかに紗季が挙げたNPOや学校の仕事は、現部長の彼は嫌がるタイプだ。利益はさほど取れない、営業の手腕を発揮する場面が少ない、数字だけでは客先から評価してもらいづらい。以前の部長はこういう仕事もできるだけ大事にして、こういう案件こそ武器になると言っていたものだが。制作部としては最もやり甲斐がある種類の仕事で、紗季も好きだ。

「それは、…いつ頃から…」

「さっき言ったけど、谷山さんが昇進するのが十二月だから、その穴を埋めてもらうようになるかな。あーでも制作にいつ人が入れられるか分からないから、入るまでは制作にも椅子置いといて」

打診ではなかった。決定事項だ。



会社員はこういう時が辛い。

泣いても喚いてもどうにもならないことは分かっている。

谷山の下について営業を学ぶといい、提案力もあるし喋りも上手いから勉強になるだろう。そう言われた時には胃がかっと熱くなった。上司のくせに何一つ見てないのか、喋りはともかくその提案は半分近く紗季が作ったものだと。

しかし、分かってもいる。

後になって読み返せるメールやチャットで、谷山は依頼も指示も出してこない。それには気づいていたが強くも言えず転がすこともできず、手足になったとしか証明できない結果になったのは自分だ。紗季が思いつき採用されたアイデアもいくつもあるが、証拠を残していないものも少なくない。都合よく利用されているのを分かっていながら戦えなかった自覚はあった。

今も何も言えない。要所要所で言い返して突っぱねればいいのだろうが、それができるならこんなことにはなっていないと、ただただ思考が一つ所を回るだけだ。仕事はきちんとしているのに、でもそれだけではだめで報われる地点にも辿り着けない、なぜ要領のいいものだけが良い目を見る…ああだめだそんな風に考えたら、でもやっぱり。

帰宅の足は重かった。

「ごめんね。…知ってたんだけど」

「…言えないですよ。心配してくれるだけでありがたいです」

総務の先輩が慰めてくれた。定時に上がったのに、遅くなる紗季をわざわざ寒いエントランスホールで待ってまで。

「飲みに行く? 話聞くぐらいしかできないけど」

「うーん、正直すごくありがたいですけど…今日は帰ります。なんか、たぶんまだまとまってなくて」

「そっか。…そうだよね」

社歴も紗季よりずっと長い先輩は、しばらく押し黙ってからぼつりと言った。

「辞めちゃってもいいと思う。私は」



電車に揺られながら、そうか退職という手があるのかと考えた。辞めてやろうか、転職してやろうかと考えたことは何度もあったのだが、実際に行動に移せるものだとは思っていなかったのかもしれない。あんなに嫌な内示だったのに、脳裏をかすりもしなかった。見事な社畜だな。いいように使われるはずだ。

ずっと見てきたけどね、ここの会社って営業ばっかり大事にしてさ。大事にはするけどやっぱさ、愛社精神とか育つ会社じゃないんだよね。皆お客さん連れて出てっちゃうじゃん。制作の子は使い潰されるし。事務にも人居つかないし。今度はあのやばそうな会社と組むとか言い出すし。

吐き出すように話していた先輩の目が潤んでいたのを、紗季は見てしまった。先輩は小学生の子供がいるシングルマザーだ。辞めたくても辞められないと以前ぼやいていた。

辛いなと思う。辛いし、無力だ。ああまだ水曜日か。



駅でいつもどおりに振る舞えるか不安だったが、隠しても無駄だと心を決めた。正午は気づくだろう。

「お疲れ」

「お疲れ様ー、ありがとう」

髪を撫でた左手がそのまま鞄を取っていって、持ち替えて空けた手を差し出されて、いつもどおりにその手をとった。いつもどおりの正午だ。彼は仕事のアップダウンをまったく見せないが、言わないだけで色々あるんだろうななどとつい考える。

歩き始める。ずいぶん冷え込むようになって、繋いだ手が温かい。

「なんかあったやろ」

やっぱり気づかれた。

「…うん」

「会社?」

「会社。…でもちょっと、落ち込ませといて。まとまってないし、考えたいから」

「分かった」

「…うー、でもやっぱり聞いてほしくなったら話してもいい?」

「おう」

それ以降は黙りがちになった。星の少ない夜空を飛んでいく飛行機の灯りを、なんとなく見て歩いた。



ごきげんな時ばかりなわけがない。悲しいことも腹が立つこともある。分かっているが、怪我をすれば痛いように辛い時は辛い。それでも時間の流れ方が変わるわけではないし、どうにもならないことはどうにもできない。重苦しい胃を抱えたまま、忘れたふりをして部屋まで送り届けてもらって、玄関先でいつものようにキスをした。

自分の部屋へ帰るべく身を返した正午が、ドアノブに手をかけたまま振り返った。

「ほんまに平気?」

咄嗟に声が出なかった紗季をじっと見て、両手を広げてん、と言った。だから紗季は遠慮なく抱きついて、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。冷たいコートの生地の内側に煙草の香りがする。もっと強く抱き返されて、正午の体温と、彼自身のいい匂いがした。

「平気じゃないけど、でも大丈夫」

「無理すんなよ」

「…うん」

でも本当に大丈夫だ。今のハグは効いた。

ハグには人を癒やす効果があるとか言うが、あれはきっと真実だ。

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