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駅に向かい、通り過ぎて歩いていく。
紗季との出会いを若干脚色したからと道々説明を受け、感謝したものの改めて頭を抱えた。本当にあの時の自分はどうかしていた。どうかしていたからこうなっているわけではあるが。
てくてくと歩きながら話す。
「よく行くの? お兄さんのお店」
同居人の兄とは聞いたが、そういえば名前は知らない。
「行くと言えば行く」
「?」
聞けば、店に時々手伝いに行くらしい。
「パートのおばちゃんが都合つかん時とか」
「ああ、それで料理うまいんだ」
「そういうわけでもない」
ぼつぼつと語るところによると、洗ったり片付けたり洗ったり運んだり切ったり洗ったりが主な手伝いらしい。愛想がないから表には極力出ないという、たしかに威圧感があるだろう。
「料理もなあ」
あいつのは真似できん、と言った。
「同じもん使って同じ手順で作ってもレベル違うもんができる奴、たまにおるやろ。あのタイプ」
「なるほど。才能ってやつだね」
「それ」
手を繋いで、ゆらゆら揺らしながら夜の道を歩く。線路を越えて商店街のアーケードに入り、土曜の夜の賑わいを抜けていった。
「どのへんなの?」
「…角が全部薬局の交差点て分かる?」
「分かる。過剰だよね」
「アホよな。そこの西んとこ」
アーケードの灯りがまだ届くところに、小さな店はあった。
「つむぎ? ゆう?」
看板の紬という文字を見て訊ねると、つむぎだと返ってくる。中を覗いて何事か話し、手招きしたのでついて入った。今更ながらにどきどきしている。
「いらっしゃ、い。…おい正午」
こちらを見て驚いたように正午に声をかけた男性は、正午が背が高いというなら「デカい」という言葉がぴったりのワイルドな人物だった。長髪を後ろで一つ括りにして色が浅黒くて髭を生やしていて、姿だけの威圧感というならどっこいどっこいではないだろうか。にこやかで明るい雰囲気なのはさすが飲食店という感じだが。
正午は返事もせず、すたすたと勝手知ったる風で二つだけ空いているカウンター席へ向かう。
「言えよ。事前に。びっくりするだろ」
ツレがいるからまさかとは思ったけどとため息をついて、料理を盛った皿を中年の女性店員へ渡してからこちらへ向き直った。
「ちゃんと紹介しろ」
「彼女。紗季ちゃん、こいつが例のアル中」
「お前な」
「あの、こんばんは、福田紗季です」
見かねて口を出した。途端にこちらへ向けてわたわたといやどうも、正午がいつもお世話に、などと口調がころりと変わっておかしくなってしまった。
「飲み物どうしますか、こっちのやつも良ければおすすめなんで」
メニューは立ててあるのだが、指差したカウンター上に貼られている紙にもいくつも地酒の名前が並んでいる。例の日にすずめで飲んだ銘柄もある、珍しいはずだが店主は日本酒に詳しいのだろうか。正午曰くアル中の。
サワーもハイボールも梅酒も焼酎も、色々ある。
「俺生」
「お酒飲むんだ」飲まない人なのかと思っていた。飲み方への諭し方からして。
「飲まなくはない」
紗季ちゃんは一杯だけにしときと言われ、試してみたい銘柄はあったが素直に従うことにした。となるとビールでは面白くないので柑橘サワーで。
「あんまり強くないの?」
「逆」
「逆?」
「酔わないんだよそいつ。はい突きだし。ゆっくりしていってね」
ごつい腕がにゅっと伸びてきて小鉢を置き、面白そうに一言残して去った。
「…飲んでもあんま面白くないんよ」
「なるほど」
後ろから、賑やかな中をよく通る声がかけられて、さっきの女性が飲み物を置いてくれる。濃紺のバンダナで髪をまとめて潔く出した額がきりっと清潔そうで、大きな口で明るく笑う人だった。なんとも楽しそうに、ちょおっとー彼女? やるじゃんいつの間にと肘で正午をつついた。
「っす」
「可愛い子じゃないの~、大事にしなさいよ!ね!あなたちゃんと甘やかしてもらいなさいね!何ちゃん?」
「福田紗季です」
「さきちゃんね!覚えたよー、ゆっくりしてってね!」
「ありがとうございます!」
ひらひらと手を振って、声のかかったテーブルへ身を翻した。陽気でこちらまで楽しくなる。ちょっと肩をすくめてみせた正午の反応も男の子みたいで、いいものを見たと嬉しくなってにこにこしながら乾杯する。
「…! おいしーい!」
「ああそれ、よう出るよ」
「レモンかと思ってたけど違うね、何これ? すっごいいい香り」
一杯だけと約束したのが悔やまれる。ほんのり甘い香りが混ざっていて、でも味は甘ったるくなくて、そうか何種類か混ぜてある? それで柑橘サワーなのか? 今度こっそり一人で来よう、いやだめだ筒抜けだ。
「何変な顔しとん」
脚を組んでというより折り畳んでカウンターに左肘をついて、もう片方の長い腕を伸ばして正午は紗季の髪を払った。首が見たかったのだと思う。首筋が彼は妙に好きだ。
満足そうに唇を歪めて、もっとこっちへ寄れと言い出した。
「え、だってこれ以上…」
「ええから。おいで」
こんなところでそんな声を出さないで欲しい。
メニューを取ってごまかそうとした紗季を、ほほうという目で一瞥して彼は実力行使に出た。
「動くなよ」
椅子を掴んで紗季ごとがたんと寄せて、動くなと言われるまでもなく紗季は固まった。重いのになんてことをするのだ。
四角い椅子はぴったりくっついて狭い二人がけになったし、すっと腰に(と思ったら腿に)手が回って引き寄せられた。もう恥ずかしくて後ろを振り向けない。
「…!」
「何食う?」
こっ恥ずかしいことをやっておいて、本人は平然とメニューを開くのだ。
「色々あるね」
「やろ」
「正午くんは食べられないものある?」
どれだけ抵抗しても一切譲ってもらえなかったので、紗季は諦めて何事もなかったように振る舞うことにした。いいのだもう、もう、バカップルで。店長が名状しがたい顔でこちらを見ていたが、いいのだ。私は何も見ていない。
「あー、甲殻類が無理」
「アレルギー?」
「軽いけどな」それからさも付け足しのように辛いものは好かんと言うので、そうなんだと流しておいた。そうか気にしているのか。
「私もそんなにだなー。激辛とか意味分かんないよね」
「あんなんまともな生き物の食うもんちゃう」
ひとまずすぐ出てくるものをいくつか頼んだ。ポテトサラダを食べた方がいいと勧めるのでそれも。注文を取りに来たさっきの女性が、二人の座り方を冷やかしていった。
「ん? …んんんん?」
正午の二杯目とともにやってきたポテトサラダがやたらにおいしい。
「うまいやろ」
うんうんと頷くが、何が違うのか考えるので頭はいっぱいだ。飲み込んでから先日作ってくれたものは材料が違うのかと確認してみる。
「違うけど、ここで同じもん使って作っても変わらんよ。この味にはならん」
「はぁー…」
「材料は普通なんやけどな」
「たしかになんていうか、何が違うのか分からないおいしさ」
これはいや本当に才能だとしみじみ呟くと、正午は嬉しそうにそうやろと言った。
もしかして、自慢の友達を見せたかったのかな。
胸がほんのり暖かい。
「マキさん、唐揚げください」
「はいはい。タルタルつける?」
「つける」
「私里芋の煮っころがしください!」
「渋いな」
「ぜったいおいしいと思って」
さっき頼んだものが軒並み抜群の味だったのだ、煮付けの類も外さないに決まっている。
「さきちゃんそれ正解よ。あとねえ、ご飯物だけどきのことじゃこの味ご飯もおいしいから」
「おいしそう!後で頼みますー」
私大好きなのよと言い残し、別のテーブルへまた向かいつつマキさんは厨房に注文を通した。
「マキさん、名字な」
むせた。
「そっ…んなの、別に気にしないよ」こそこそ返す。
「そんなに嫉妬深くはないです」
「へーえ」
俺は嫌やけどと続いたので、今度は喉に詰まった。
唐揚げは不思議に芳ばしくてハイボールが欲しくなったし、里芋はじんわりと優しい味で日本酒を合わせたかった。ものすごくおねだりしたらお酒を解禁してくれるだろうかと真剣に考えてしまう。いやしばらく酔わない程度に飲んでみせて信頼を積むべきか、そうだきっとその攻め方が正解だ。
「タルタルソースもおいしい…」
「俺これめっちゃ好き」
「正午ー、お前飯食う?」
「食う」
マキさんに、空になっていたジョッキを持っていきざまにお冷やとお茶とどちらがいいか訊かれてお茶をもらった。正午は水も。ついでに勧められたじゃこご飯を頼む。空いた皿が下げられて、かわりにご飯類が来た。
「明日紗季ちゃん何すんの」
「特に何もないかなあ…正午くんは?」
「俺もなんもない」
二人で過ごしたいとは思うが、くっつくまでしかできないのに一緒にいてとは言いづらかった。言ったっていいのにと思いはするが、紗季は言えないのだ。
「ああ、そうだラグ探そうかな」
「ラグ? ああ、敷いてあったな。買い換えるん?」
「そうそう」
いくつかネットで絞り込んではあるが、もう少し掘り下げてみてもいいかもしれない。実物を触れないので、他のサイトで同じものが別写真で紹介されていないかチェックして感じを掴んで、サイズをもう一度確認して。
「手触り重要だからなあ…ラグで寝転ぶの好きなんだよね」
「見に行く?」
「え」
正午はショッピングモールの名前を挙げたが、行き帰りでちょっと疲れるかもしれないと躊躇してしまった。
「なんか近くにも家具屋あったろ、確か」
「あるある、おっきいのが。でもあそこ結構遠いよ。電車乗り継ぐか、それかバスしかない」
「智哉ー、明日車貸してくれん?」
いつの間にか食べ終わっていた器をカウンターに乗せ、ついでに伸び上がって奥へ声をかけたのに遠くからいいよーと返事が来て、車があると正午は言った。トモヤさんというのか。
「え、いいの?」
ん、と頷いて頬杖をつき、
「デートやな」と笑った。
きのことじゃこの炊き込みご飯もおこげがまたおいしくて、おかわりしたい気持ちを抑えてご馳走様をした。おいしかったし楽しかったしで気分がよくなって、帰り道は繋いだ正午の手をぶんぶんと振って笑われた。
コンビニで歯ブラシとひげ剃りを買った。
単身用のワンルームだから洗面化粧台などという設備はなく、歯ブラシはユニットバスの中にケースを置いて立ててある。そこに髭剃りも置いた。自分以外のものが差してある光景は初めてではないが、紗季は歯を磨きながら不思議な思いで見た。
三十になって何も変わらないことに、仕事でうまく立ち回れないことに、それから二十代の恋の残滓が予期せず殴りつけてきたことに荒れていたのがつい一週間前なのだ。別れてあんなに落ち込んだのに、今はなぜあんな奴のために努力して我慢していたのだろうとさえ思う。何が今カノは巨乳だ、あんなのと付き合っていたのは汚点だ。
ちょっと思い出してもやもやしてしまった。
仕事のこともだ。ルーチンになっている仕事、利用されることの多さ、上がらない給与。会社も小さくて展望があるとは思えず、この先一人で生きていくとしても破綻せずに済むだろうかと暗い気分だった。今考えれば、蓄積していった精神面の疲労があの日の悪酔いに帰結したように思わないでもない。
人生は何があるか分からない、分岐点に立っている時は気がつかないと言うが。…いや、紗季の場合の気がつかないは意味合いが違っていたか。
紗季との出会いを若干脚色したからと道々説明を受け、感謝したものの改めて頭を抱えた。本当にあの時の自分はどうかしていた。どうかしていたからこうなっているわけではあるが。
てくてくと歩きながら話す。
「よく行くの? お兄さんのお店」
同居人の兄とは聞いたが、そういえば名前は知らない。
「行くと言えば行く」
「?」
聞けば、店に時々手伝いに行くらしい。
「パートのおばちゃんが都合つかん時とか」
「ああ、それで料理うまいんだ」
「そういうわけでもない」
ぼつぼつと語るところによると、洗ったり片付けたり洗ったり運んだり切ったり洗ったりが主な手伝いらしい。愛想がないから表には極力出ないという、たしかに威圧感があるだろう。
「料理もなあ」
あいつのは真似できん、と言った。
「同じもん使って同じ手順で作ってもレベル違うもんができる奴、たまにおるやろ。あのタイプ」
「なるほど。才能ってやつだね」
「それ」
手を繋いで、ゆらゆら揺らしながら夜の道を歩く。線路を越えて商店街のアーケードに入り、土曜の夜の賑わいを抜けていった。
「どのへんなの?」
「…角が全部薬局の交差点て分かる?」
「分かる。過剰だよね」
「アホよな。そこの西んとこ」
アーケードの灯りがまだ届くところに、小さな店はあった。
「つむぎ? ゆう?」
看板の紬という文字を見て訊ねると、つむぎだと返ってくる。中を覗いて何事か話し、手招きしたのでついて入った。今更ながらにどきどきしている。
「いらっしゃ、い。…おい正午」
こちらを見て驚いたように正午に声をかけた男性は、正午が背が高いというなら「デカい」という言葉がぴったりのワイルドな人物だった。長髪を後ろで一つ括りにして色が浅黒くて髭を生やしていて、姿だけの威圧感というならどっこいどっこいではないだろうか。にこやかで明るい雰囲気なのはさすが飲食店という感じだが。
正午は返事もせず、すたすたと勝手知ったる風で二つだけ空いているカウンター席へ向かう。
「言えよ。事前に。びっくりするだろ」
ツレがいるからまさかとは思ったけどとため息をついて、料理を盛った皿を中年の女性店員へ渡してからこちらへ向き直った。
「ちゃんと紹介しろ」
「彼女。紗季ちゃん、こいつが例のアル中」
「お前な」
「あの、こんばんは、福田紗季です」
見かねて口を出した。途端にこちらへ向けてわたわたといやどうも、正午がいつもお世話に、などと口調がころりと変わっておかしくなってしまった。
「飲み物どうしますか、こっちのやつも良ければおすすめなんで」
メニューは立ててあるのだが、指差したカウンター上に貼られている紙にもいくつも地酒の名前が並んでいる。例の日にすずめで飲んだ銘柄もある、珍しいはずだが店主は日本酒に詳しいのだろうか。正午曰くアル中の。
サワーもハイボールも梅酒も焼酎も、色々ある。
「俺生」
「お酒飲むんだ」飲まない人なのかと思っていた。飲み方への諭し方からして。
「飲まなくはない」
紗季ちゃんは一杯だけにしときと言われ、試してみたい銘柄はあったが素直に従うことにした。となるとビールでは面白くないので柑橘サワーで。
「あんまり強くないの?」
「逆」
「逆?」
「酔わないんだよそいつ。はい突きだし。ゆっくりしていってね」
ごつい腕がにゅっと伸びてきて小鉢を置き、面白そうに一言残して去った。
「…飲んでもあんま面白くないんよ」
「なるほど」
後ろから、賑やかな中をよく通る声がかけられて、さっきの女性が飲み物を置いてくれる。濃紺のバンダナで髪をまとめて潔く出した額がきりっと清潔そうで、大きな口で明るく笑う人だった。なんとも楽しそうに、ちょおっとー彼女? やるじゃんいつの間にと肘で正午をつついた。
「っす」
「可愛い子じゃないの~、大事にしなさいよ!ね!あなたちゃんと甘やかしてもらいなさいね!何ちゃん?」
「福田紗季です」
「さきちゃんね!覚えたよー、ゆっくりしてってね!」
「ありがとうございます!」
ひらひらと手を振って、声のかかったテーブルへ身を翻した。陽気でこちらまで楽しくなる。ちょっと肩をすくめてみせた正午の反応も男の子みたいで、いいものを見たと嬉しくなってにこにこしながら乾杯する。
「…! おいしーい!」
「ああそれ、よう出るよ」
「レモンかと思ってたけど違うね、何これ? すっごいいい香り」
一杯だけと約束したのが悔やまれる。ほんのり甘い香りが混ざっていて、でも味は甘ったるくなくて、そうか何種類か混ぜてある? それで柑橘サワーなのか? 今度こっそり一人で来よう、いやだめだ筒抜けだ。
「何変な顔しとん」
脚を組んでというより折り畳んでカウンターに左肘をついて、もう片方の長い腕を伸ばして正午は紗季の髪を払った。首が見たかったのだと思う。首筋が彼は妙に好きだ。
満足そうに唇を歪めて、もっとこっちへ寄れと言い出した。
「え、だってこれ以上…」
「ええから。おいで」
こんなところでそんな声を出さないで欲しい。
メニューを取ってごまかそうとした紗季を、ほほうという目で一瞥して彼は実力行使に出た。
「動くなよ」
椅子を掴んで紗季ごとがたんと寄せて、動くなと言われるまでもなく紗季は固まった。重いのになんてことをするのだ。
四角い椅子はぴったりくっついて狭い二人がけになったし、すっと腰に(と思ったら腿に)手が回って引き寄せられた。もう恥ずかしくて後ろを振り向けない。
「…!」
「何食う?」
こっ恥ずかしいことをやっておいて、本人は平然とメニューを開くのだ。
「色々あるね」
「やろ」
「正午くんは食べられないものある?」
どれだけ抵抗しても一切譲ってもらえなかったので、紗季は諦めて何事もなかったように振る舞うことにした。いいのだもう、もう、バカップルで。店長が名状しがたい顔でこちらを見ていたが、いいのだ。私は何も見ていない。
「あー、甲殻類が無理」
「アレルギー?」
「軽いけどな」それからさも付け足しのように辛いものは好かんと言うので、そうなんだと流しておいた。そうか気にしているのか。
「私もそんなにだなー。激辛とか意味分かんないよね」
「あんなんまともな生き物の食うもんちゃう」
ひとまずすぐ出てくるものをいくつか頼んだ。ポテトサラダを食べた方がいいと勧めるのでそれも。注文を取りに来たさっきの女性が、二人の座り方を冷やかしていった。
「ん? …んんんん?」
正午の二杯目とともにやってきたポテトサラダがやたらにおいしい。
「うまいやろ」
うんうんと頷くが、何が違うのか考えるので頭はいっぱいだ。飲み込んでから先日作ってくれたものは材料が違うのかと確認してみる。
「違うけど、ここで同じもん使って作っても変わらんよ。この味にはならん」
「はぁー…」
「材料は普通なんやけどな」
「たしかになんていうか、何が違うのか分からないおいしさ」
これはいや本当に才能だとしみじみ呟くと、正午は嬉しそうにそうやろと言った。
もしかして、自慢の友達を見せたかったのかな。
胸がほんのり暖かい。
「マキさん、唐揚げください」
「はいはい。タルタルつける?」
「つける」
「私里芋の煮っころがしください!」
「渋いな」
「ぜったいおいしいと思って」
さっき頼んだものが軒並み抜群の味だったのだ、煮付けの類も外さないに決まっている。
「さきちゃんそれ正解よ。あとねえ、ご飯物だけどきのことじゃこの味ご飯もおいしいから」
「おいしそう!後で頼みますー」
私大好きなのよと言い残し、別のテーブルへまた向かいつつマキさんは厨房に注文を通した。
「マキさん、名字な」
むせた。
「そっ…んなの、別に気にしないよ」こそこそ返す。
「そんなに嫉妬深くはないです」
「へーえ」
俺は嫌やけどと続いたので、今度は喉に詰まった。
唐揚げは不思議に芳ばしくてハイボールが欲しくなったし、里芋はじんわりと優しい味で日本酒を合わせたかった。ものすごくおねだりしたらお酒を解禁してくれるだろうかと真剣に考えてしまう。いやしばらく酔わない程度に飲んでみせて信頼を積むべきか、そうだきっとその攻め方が正解だ。
「タルタルソースもおいしい…」
「俺これめっちゃ好き」
「正午ー、お前飯食う?」
「食う」
マキさんに、空になっていたジョッキを持っていきざまにお冷やとお茶とどちらがいいか訊かれてお茶をもらった。正午は水も。ついでに勧められたじゃこご飯を頼む。空いた皿が下げられて、かわりにご飯類が来た。
「明日紗季ちゃん何すんの」
「特に何もないかなあ…正午くんは?」
「俺もなんもない」
二人で過ごしたいとは思うが、くっつくまでしかできないのに一緒にいてとは言いづらかった。言ったっていいのにと思いはするが、紗季は言えないのだ。
「ああ、そうだラグ探そうかな」
「ラグ? ああ、敷いてあったな。買い換えるん?」
「そうそう」
いくつかネットで絞り込んではあるが、もう少し掘り下げてみてもいいかもしれない。実物を触れないので、他のサイトで同じものが別写真で紹介されていないかチェックして感じを掴んで、サイズをもう一度確認して。
「手触り重要だからなあ…ラグで寝転ぶの好きなんだよね」
「見に行く?」
「え」
正午はショッピングモールの名前を挙げたが、行き帰りでちょっと疲れるかもしれないと躊躇してしまった。
「なんか近くにも家具屋あったろ、確か」
「あるある、おっきいのが。でもあそこ結構遠いよ。電車乗り継ぐか、それかバスしかない」
「智哉ー、明日車貸してくれん?」
いつの間にか食べ終わっていた器をカウンターに乗せ、ついでに伸び上がって奥へ声をかけたのに遠くからいいよーと返事が来て、車があると正午は言った。トモヤさんというのか。
「え、いいの?」
ん、と頷いて頬杖をつき、
「デートやな」と笑った。
きのことじゃこの炊き込みご飯もおこげがまたおいしくて、おかわりしたい気持ちを抑えてご馳走様をした。おいしかったし楽しかったしで気分がよくなって、帰り道は繋いだ正午の手をぶんぶんと振って笑われた。
コンビニで歯ブラシとひげ剃りを買った。
単身用のワンルームだから洗面化粧台などという設備はなく、歯ブラシはユニットバスの中にケースを置いて立ててある。そこに髭剃りも置いた。自分以外のものが差してある光景は初めてではないが、紗季は歯を磨きながら不思議な思いで見た。
三十になって何も変わらないことに、仕事でうまく立ち回れないことに、それから二十代の恋の残滓が予期せず殴りつけてきたことに荒れていたのがつい一週間前なのだ。別れてあんなに落ち込んだのに、今はなぜあんな奴のために努力して我慢していたのだろうとさえ思う。何が今カノは巨乳だ、あんなのと付き合っていたのは汚点だ。
ちょっと思い出してもやもやしてしまった。
仕事のこともだ。ルーチンになっている仕事、利用されることの多さ、上がらない給与。会社も小さくて展望があるとは思えず、この先一人で生きていくとしても破綻せずに済むだろうかと暗い気分だった。今考えれば、蓄積していった精神面の疲労があの日の悪酔いに帰結したように思わないでもない。
人生は何があるか分からない、分岐点に立っている時は気がつかないと言うが。…いや、紗季の場合の気がつかないは意味合いが違っていたか。
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