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時計 × 羽

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遼(りょう)は、昔ながらの時計店を営む若い職人だった。祖父の代から続くこの小さな店は、時代の流れに逆らい、静かに町の一角で営業を続けている。アンティークの時計を修理する腕前は評判で、年配の客が多いが、遼の職人としての技術に惹かれて訪れる若者も少なくなかった。

そんなある日、ふらりと現れた女性がいた。店の扉が開くと同時に、風に舞うように入ってきたその姿に、遼は一瞬息を飲んだ。彼女の名は、紗絵(さえ)。肩まで伸びる柔らかな髪と、目尻に少しの余裕を感じさせる瞳が印象的な彼女は、遼に家族から受け継いだという古びた懐中時計を修理してほしいと頼んだ。

「この時計、母の形見なんです。ずっと止まったままで…直りますか?」

遼は彼女から時計を受け取り、じっと見つめた。確かに古びた時計だが、形見にしては随分と手入れがされていない印象を受けた。しかし、紗絵のどこかふわりとした雰囲気と、この時計の佇まいが、妙に重なる気がした。

「少し時間はかかりますが、きっと直りますよ。大切なものなんですね。」

「ええ、母が亡くなってから、ずっと使ってなくて…私、あまり時間に縛られるのが苦手で。」

そう言って、紗絵はふっと微笑んだ。遼はその笑顔に心を引かれるのを感じた。

それから数日後、紗絵は再び店を訪れた。時計の修理はまだ途中だったが、彼女は「ついでに近くを通ったから」と言って、遼と少し会話を楽しんだ。彼女は時間に縛られない生き方をしていると語った。予定やスケジュールに縛られることなく、気ままに生きることが自分には合っているのだと。

「あなたみたいに、毎日きちんとしたリズムで仕事をするの、すごいなと思います。私は、どうしてもそれができなくて。」

紗絵のその言葉に、遼は一瞬戸惑った。彼にとっては、時間を守ることが当たり前で、むしろそうしなければ落ち着かない性分だったからだ。しかし、彼女の自由な生き方に、どこか憧れを感じていたのも事実だ。

「きちんとしてないと、なんだか不安になるんです。逆に、紗絵さんみたいな生き方、どうやってできるんだろうって思います。」

「そう? でも、たまには自由に生きてもいいんじゃない? 時計がない生活って、案外気楽だよ。」

紗絵は、遼の目をじっと見つめながら言った。その瞳の中には、彼の知らない世界が広がっているように感じられた。いつの間にか、彼は彼女の言葉に耳を傾け、自分の価値観が揺らぎ始めているのに気づいていた。

ある夕暮れ、修理が終わったと連絡を受けた紗絵が、再び店を訪れた。その日は雨が降り出し、店の窓から外を眺めると、しとしとと降る雨がガラスにしずくを描いていた。

「時計、もう直りましたか?」

紗絵の声に、遼は頷き、修理した懐中時計をそっと彼女に手渡した。彼女は嬉しそうにそれを受け取り、手のひらで大切に包むように握りしめた。

「ありがとう。これで母との思い出を再び感じられる気がする。」

彼女の言葉に、遼は胸が温かくなるのを感じた。しかし、その直後、紗絵はぽつりと言った。

「でも、私はもうすぐこの町を離れるの。」

遼は驚き、彼女を見つめた。

「どういうことですか?」

「新しい挑戦をしに、海外に行くことに決めたの。」

彼女の告白に、遼の胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。これまで彼女との出会いを通じて、少しずつ心を通わせてきたというのに、突然の別れを告げられるとは思ってもみなかった。

「そんな…急ですね。」

「ごめんね、こんな話。私も決めたばかりで…でも、時計を直してくれたお礼をちゃんと言いたくて。」

紗絵はそう言うと、遼に向けて微笑みかけた。その笑顔には、どこか切なさが混じっていた。

その夜、遼は店を閉めると、店内の照明を消したまま、しばらく椅子に座って考え込んだ。紗絵との出会い、彼女の自由な生き方、そしてこれからの別れ。自分がどれほど彼女に惹かれていたのか、遼はようやく気づき始めていた。

ふと、遼は立ち上がり、時計の修理作業台に目を向けた。そこに残された紗絵の時計が、今も静かに時を刻んでいる。彼は手に取り、その針を見つめた。

「彼女と一緒にいた時間は、まるで羽根のように軽やかだった…」

その瞬間、遼は彼女を引き止めたくてたまらなくなった。時計が動いている今、この時間を止めたいという願望が胸の中で大きく膨らんでいったのだ。

このままでは、彼女は去ってしまう。しかし遼は、どうすることもできない自分の無力さに打ちひしがれていた。彼は彼女に告白すべきなのか、それとも黙って送り出すべきなのか、迷い続けたまま時間が過ぎていく。


雨の音が、夜の静寂に溶け込むように遼の店の窓に当たっていた。彼は作業台に置かれた羽を見つめていた。それは、紗絵が初めて訪れたときにふと舞い込んできたもの。ほんの小さな鳥の羽だったが、それ以来、彼にとって何かの象徴のように感じられていた。

彼女が去ってしまうことを考えると、胸の中に押し寄せる寂しさと切なさが増していく。時計は時間を刻むが、彼はどうしてもその時を止めたいと思っていた。

翌朝、紗絵は再び店を訪れた。彼女が再び来るのは最後かもしれないという考えが、遼の心に影を落としていた。

「おはよう、遼さん。昨日はお礼をちゃんと言えなかったから…」

遼はその言葉に戸惑いながらも微笑んで、彼女を迎え入れた。紗絵はふと、店の中に目を向け、彼が大切にしている時計たちを眺めた。その視線の先には、羽が置かれていた。

「この羽、覚えてる?最初に来たとき、ちょうど風に乗って舞い込んできたやつ。あのときは何気なく拾ったけど、これを見てると君のことばかり考えるようになって…」

彼の言葉に、紗絵は一瞬驚いたようだったが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。

「時計も羽も、どちらも時間と関係してるんだよね。時計は過去から未来までのすべての時間を刻む。けれど、羽は今この瞬間にふわっと飛んで、風に乗って消えていくみたいに…。」

紗絵の言葉に、遼は自分が彼女に対して感じている思いを、はっきりと自覚した。彼は心の中で、羽のような自由を持つ彼女に惹かれていたが、同時に、彼女を捕まえたいという欲望もあったのだ。

「紗絵さん…君を引き留めたい。君が自由に生きていることは理解しているけど、どうしてもこのまま君を失いたくない。」

その言葉に、紗絵は一瞬沈黙した。そして彼女は、時計をじっと見つめながらぽつりと呟いた。

「私も、遼さんに会ってからいろいろ考えたんだ。この時計がずっと止まっていたのは、私が何かを避けていたからかもしれない。でも、遼さんが直してくれたおかげで、また動き出した。私も…何か変わらなきゃいけないって思った。」

遼は彼女の言葉に耳を傾け、胸が高鳴るのを感じた。彼は、もう一度紗絵に向かって静かに言った。

「僕と一緒に、ここに留まってほしい。君の自由な生き方を尊重するけど、僕は君と共に歩みたい。」

紗絵は少し考え込んだあと、ゆっくりと頷いた。

「遼さん…私、あなたのことが好き。でも、これまでの私の生き方も、全部捨てることはできない。でも…。」

彼女の言葉の途中で、遼は自然と彼女に歩み寄り、その小さな肩に手を置いた。そして、紗絵の唇にそっと触れるようにキスをした。彼女の柔らかな唇の感触が、彼の心を満たしていった。

二人はしばらくの間、無言のままその場に立ち尽くしていた。まるで時間が止まったかのように、互いの存在を確認し合うかのような瞬間だった。

その夜、店を閉めたあと、二人は遼の部屋で過ごしていた。窓の外では、夜風が涼しく吹き、星空が広がっていた。

「時間なんて、ほんとはどうでもいいのかもしれないね。」紗絵がそう呟きながら、遼の胸に顔を埋める。彼女の声は、少しだけ震えていた。彼女が抱えていた不安や葛藤が、今まさに解き放たれようとしているのを感じた。

遼は優しく彼女の背中を撫で、そっと囁いた。「時間がどうであろうと、今この瞬間が大切なんだ。」

二人はゆっくりと互いの体に触れ合い、その静かな時間の中で感情を交わし合った。紗絵の細い体が遼に寄り添い、彼の手が彼女の髪を優しく撫でる。彼女の呼吸が少しずつ乱れ、遼の耳元で彼女の声が震えた。

「もっと…近くに…」

紗絵の言葉に、遼は彼女を抱きしめ、さらに深くその感情を共に感じた。その瞬間、まるで二人の間に羽が舞うような軽やかさと、同時に時計の針がしっかりと進んでいるような重みがあった。

翌朝、遼は目を覚まし、隣で眠る紗絵を見つめた。彼女の寝顔は穏やかで、どこか安堵したように見えた。遼は、そっと起き上がり、作業台の上に置かれた羽を手に取った。

「やっぱり、この羽は君を象徴しているみたいだな…」

遼はそう呟きながら、羽を時計の上にそっと置いた。これからの時間は、二人で共に刻んでいくのだろう。彼はそれを強く感じていた。

しかし、ふと彼が振り返ると、紗絵は目を覚まして彼を見つめていた。

「遼さん、羽って、本当に不思議ね。いつかはまた風に乗って飛び去るかもしれないけど…」

「その時が来るまでは、しっかりと持っておこう。」遼は彼女に微笑みかけ、そっとその羽を彼女の手に渡した。

それから数日が過ぎ、紗絵はついに海外へ旅立つ決断をした。二人は最後の別れの前に、駅のホームで向かい合って立っていた。

「きっとまた会えるよ。」遼がそう言うと、紗絵は微笑んで頷いた。

「うん、でもその時は、もっと強くなった私で会いたい。」

そして彼女は、懐中時計を遼に手渡した。

「この時計、預かっていて。私が戻ってきたら、また直してもらうから。」

遼はその時計を受け取り、静かに頷いた。

「分かった。それまで、しっかり持ってるよ。」

二人はお互いに最後のキスを交わし、紗絵はホームを歩いていった。遼はその姿を見送りながら、彼女がいつか戻ってくる日を信じて、手の中の時計と羽を強く握りしめた。

遼はその後も、静かに時計店を営み続けた。店には多くの時計が並んでいるが、その中で紗絵の時計だけは特別な場所に置かれていた。そして、彼はいつか彼女が戻ってくることを信じて、その時計が再び動き出す日を待ち続けていた。

時折、風が吹くと、店の中に羽が舞い込むことがあった。そのたびに、彼は心の中で紗絵のことを思い出しながら、時計と羽を見つめていた。

いつかまた、彼女と共に時を刻む日を夢見て。
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