とある日

だるまさんは転ばない

文字の大きさ
上 下
37 / 46

香ばしい思い出

しおりを挟む
小さな町の片隅に、古びたパン屋があった。木の看板には「クローバー・ベーカリー」と手書きの文字が並び、外から漂う甘い香りが、通りを歩く人々を引き寄せる。けれど、このパン屋にはいつも同じ人たちしか来ない。それは町の人々にとっては慣れ親しんだ風景であり、特別な場所だったからだ。

ある日、そのパン屋にひとりの少年が現れた。小学5年生の海斗は、真新しいリュックを背負い、興味深そうに店の中を覗き込んでいた。母親に「夕飯の前に甘いものはダメよ」と言われていたが、彼はどうしてもこの店に足を踏み入れたかった。

「いらっしゃいませ」

優しい声が響き、海斗は顔を上げた。店主の真理子がカウンターの向こうから微笑んでいた。彼女は長年このパン屋を営んでおり、近所の子供たちからも慕われている。真理子は海斗をじっと見つめ、何かを思い出すように目を細めた。

「初めて来たのかな?好きなパンを選んでごらん」

海斗は大きな目を輝かせながら、ショーケースの中をじっくり見つめた。クロワッサン、あんパン、フルーツがたっぷりのデニッシュ。どれも美味しそうだったが、彼の目は一つのパンに釘付けになった。

「この、四つ葉のクローバーの形をしたパン、これください!」

それは「クローバーパン」と呼ばれる、真理子の店の特製だった。ほんのり甘い生地にバターが練り込まれていて、一口食べれば口いっぱいに幸せが広がる。

「それは、特別なパンなんだよ」

真理子は微笑んでパンを包みながら、そっと語り始めた。

「このクローバーパンは、私が作り始めたのはちょうど君くらいの年の頃だったの。私のおじいちゃんがパン職人で、私はその手伝いをしていたんだ。おじいちゃんが亡くなってしまってからも、私はこのパンを焼き続けているの」

海斗は興味津々で耳を傾けた。彼は、真理子の手の中で包まれているパンがただの食べ物ではないことを感じた。それは、彼女の家族の歴史と想いが込められた、特別なパンだった。

その時、ドアのベルが鳴り、もう一人の客が入ってきた。そこには、海斗の母親、彩香が立っていた。

「やっぱりここにいたのね、海斗。夕飯の前に…あら?」

彩香は真理子を見て、一瞬驚いた表情を見せた。しかしすぐに、懐かしさを含んだ笑みを浮かべた。

「真理子さん、お久しぶりです」

真理子は一瞬目を見開いた後、驚きと喜びが混ざった声を上げた。

「彩香ちゃん!こんなに大きくなって…いや、今はもう立派なお母さんね」

二人は再会を喜び合い、昔話に花を咲かせた。実は彩香は、幼い頃このパン屋に頻繁に通っていたのだ。真理子はそのことをすっかり忘れていたが、今こうして母親になった彩香を前に、当時の記憶が鮮やかによみがえってきた。

「昔、彩香ちゃんもよくこのクローバーパンを買ってくれたのよね」

真理子が笑顔で話すと、彩香は頷きながらパンの包みを見つめた。

「そうですね。母がこのパンが大好きで、いつもお土産に買って帰っていました。でも母が亡くなってからは、しばらく来ることがなくなってしまって…」

彩香の言葉に、少し寂しさが混じっていた。彼女の母親もまた、このパンを愛していた。そして今、海斗がそのパンを選んだことに、彩香は何か運命的なものを感じていた。

「でも、こうしてまたここに戻ってこられたのは、嬉しいことです。海斗もパンが大好きで、こうして彼が選んでくれたのも何か縁があったのかもしれませんね」

真理子は優しく頷き、温かな目で海斗を見つめた。

「そうね。パンは、いつも誰かの記憶と結びついているものだから。大切な人との思い出が詰まっているのよ」

その言葉に、彩香はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。そして、海斗もまた、家族のつながりや過去の物語が、ただのパンに込められていることを少しだけ理解した。

「さあ、海斗。夕飯まで我慢して、このクローバーパンを大事に持って帰りましょうね」

彩香は微笑みながら、海斗の手をそっと握った。海斗も嬉しそうに笑いながら、真理子に「ありがとう」と礼を言った。

「またいつでもおいでね。おいしいパン、たくさん焼いて待ってるから」

真理子の言葉に、海斗は力強く頷き、店を後にした。

夕暮れの街を歩く母と子。手に持ったクローバーパンが、これから新しい思い出を作るのだと、静かに香ばしい香りが漂っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

雌犬、女子高生になる

フルーツパフェ
大衆娯楽
最近は犬が人間になるアニメが流行りの様子。 流行に乗って元は犬だった女子高生美少女達の日常を描く

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件

フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。 寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。 プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い? そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない! スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...