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第五部

190 エレナ、殿下と王立学園に通う

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 首を傾げながら教卓まで辿り着いた先生は、こちらに顔を向けた。

「おっおうおう、王太子殿下がどうして⁈」

 騒ぎの理由を理解したらしくこちらを指刺してオットセイのようにオウオウと言って慌てだす。
 建前上は先生と生徒だとしても、身分の壁はしっかりとある。普段の先生なら殿下にそんな態度を取るはずもないだろうから、よほど動揺してるんだろう。

「せっかく王立学園アカデミーに通っているのだから、わたしも多くの生徒と同じように講義を受けようと思ったのだ。いつものように講義をしてくれればい構わない」

 殿下は嫌な顔どころか笑顔を向ける。
 イケメンの笑顔は同性にも有効らしい。先生はまだ聞きたいことがあるだろうに、何も言えなくなり講義が始まった。

「エレナ。教本テキストを一緒に見せて?」
「あ、はい」

 開いた教本テキストを机の真ん中に置く。
 ぐいっ。
 わたしは腰を抱き寄せられて、殿下に密着した。

「きゃあ! なっ、なにし……」

 思わずあげた声に大勢が振り返る。

「しぃぃ。講義中大きな声を出してはいけないよ?」

 わたしの唇を人差し指で一瞬触れてすぐ離す。わたしが黙ったのを確認すると優しい笑顔で窘める。
 叫ばせるようなことをしたのは殿下なのに……

「……こんなに密着しなくても教本テキストは読めるわ」
「エレナは照れ屋だね」

 わたしの非難に殿下はくすくすと笑うだけだ。
 周りの視線を感じながら講義が始まった。

 一般教養の講義内容はいつも通り、国内の主な領地と地理や主要産業についてだ。
 先日王立学園アカデミーに通うことは少なくてもいいけれど試験は必ず受けなくてはいけないと、テストを受けたけれど。講義を聞いてなくても満点が取れた。
 わたしですら子供の頃に習ったことばっかりで退屈なんだもの。殿下にとっては無駄な時間だろう。講義を受けずに公務に従事していた方が有意義な気がする。
 王宮内で殿下に押し付けられていた書類の量を思い出す。この時間で殿下の確認を待つ書類の山が幾つできるか……

「……殿下はご公務に戻られた方がよろしいんではないの?」

 小声で殿下に尋ねる。

「つれないな。私はエレナと一緒に過ごしたいのに。ここにいたら迷惑なのかな?」
「そっ……そう言うことではなくて、書類の確認が溜まってしまうんではないかと心配しただけです」
「いま私付きの官吏は優秀なものばかりだからね。不備のある書類を山積みにしたまま待ちぼうけている愚者はいないよ」

 イスファーン王国との交易に関わるあれこれの対応のため特設部署を作った殿下は、優秀なのに上司に恵まれず不遇な立場に置かれていた役人達をたくさん引き抜いてきた。
 特設部署は解散してもステファン様をはじめ一部の役人はそのまま殿下付きの秘書官として登用している。
 確かにステファン様達が事前に書類を確認していれば殿下の仕事量は減るだろう。

「でも……ステファン様たちは大変なままだわ」
「ステファンが心配なの?」

 真剣な視線に捉えられる。湖みたいな深い青が不安に揺れている。

「ステファン様がお身体を壊したらネリーネ様が悲しまれます。わたしはお友達が心配なだけです」

 わたしの説明にホッとした様子の殿下は「エレナは優しいな」と呟いた。

「お兄様からは一般教養の講義は一年目に受講すると説明を聞きました。殿下は二年前に修了済みの講義なのでしょう? 何度も受講されなくても……」

 先生には悪いけど、何回も聞く必要はない内容だ。

「修了はしていることにはなっているが受講はしていないんだよ」
「どういうことです?」
「王太子教育で修了してるとみなされているが、常に公務に駆り出されて講義は受けられなかったのだ。ただ周りからは講義に出られなかったのではなく講義に出られないほど勉強のできない愚かな王子だなどという悪評が広まっている。講師も私が講義を聞いても理解していないと思っているだろうな」

 そう言って殿下は前を向く。
 私も書き進められている板書を見つめる。
 前に講義を受けた時は南部だったけど、今日は西部についての内容だった。

 西の隣国リズモンドと大河を挟んで隣接しているマグナレイ侯爵領にかかる橋はリズモンドのクーデター以降閉鎖されており、国交が断絶されている。
 マグナレイ侯爵領は綿花のプランテーションと紡績工場があり栄えているものの、リズモンドとの交易ができなくなったことで販路が途絶えて凋落の一途を辿るなんていう内容。
 リズモンドとの交易路が途絶えたことは事実ではあるものの凋落まで印象付けるのは反マグナレイ派閥が王立学園アカデミーの主流なんだろう。

 わたしは「学生に向けて印象操作を行うなんて……」そう呟くのを止められなかった。

「リズモンドとの販路が途絶えたことで凋落の一途をたどっていると言うことだが、根拠はあるのだろうか?」

 ため息をつくわたしの隣から凛とした声が響く。板書を書いていた先生の手が止まった。

「……マグナレイ侯爵領の木綿糸はリズモンドへの輸出が主だったのです。その販路を失ったらどうなるか王太子殿下でもお分かりでしょう? 教本テキストにも二十年前と現在の木綿糸の輸出量が掲載されております。数字は嘘をつきません」

 こちらを向いた先生の目は泳いでいた。嘘をついていると言っているようなものだ。

「数字は嘘をつかなくとも、数字を使うものは正直だろうか? マグナレイ侯爵領にあるのは紡績工場だけか? 織布工場もあるはずだ。では、紡績工場と織布工場のどちらが多い? 圧倒的に織布工場の方が多いだろう。 木綿糸の輸出量は確かに減っただろうが織物の生産量はどうなった? 国内でのマグナレイ侯爵領産の綿織布工物の流通量は増えているはずだ。木綿糸と綿織物はどちらが利益率が高い?」
「それは……綿織物ですね。その凋落は言い過ぎでした」

 先生はそう言って唇を噛んだ。

 この先生は自分の意思でマグナレイ侯爵家を貶めようなんて考えたことないに違いない。
 何も考えずに教本テキストのまま講義を行ったに過ぎない。
 悪人ではないかもしれないけれど、先生と呼ばれる立場に相応しいのだろうか。

 指摘されてからトーンが落ちた先生の講義を聞きながら横に座る殿下をそっと盗み見る。
 品定めするように教室内を見渡していた殿下は、視線に気がついて私に笑顔を向けた。
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