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第四部 

152 エレナ、王宮で働く

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 書類入れを抱えて、慣れてきた王宮内を歩く。

 文書室内には就業時間ギリギリに殿下宛の書類が集まってきた。
 残業が当たり前のハロルド様は夕方まで翻訳の仕事をしてその後文書回送の仕事をしていたらしい。
 流石に残業はさせられないからと、就業時間ギリギリに届いた書類で重要な書類の選別だけ済ませばハロルド様が引き続き届けてくれる手筈になっていたけど、それでは手伝いにならない。
 上司であるリリィさんに相談して、自分で定期的にいろんな部署を回って書類を集めることにした。

 王宮内のいろんな部署に出入りするようになると、下級官吏と上級官吏の差を体感する。
 やっぱり忙しいのは下級官吏ばかりだった。

 特設部署の戸を開ける。殿下とお兄様は今日もいらっしゃらない。
 決裁を待つ書類の山に、持ってきた書類を重ねる。

「……また王太子殿下はいらっしゃらないのね」
「王太子殿下は優秀がゆえ多忙を極めていらっしゃる。この部屋にいつもいらっしゃるわけではない」

 わたしの独り言に無愛想で嫌味な役人はそう答える。

「ごめんね。こいつ面倒臭いやつなんだよ」

 人の良さそうな太った役人がフォローしてくれた。

「ニールス。女官相手にいい顔する必要などない。ここは王太子殿下が特命で作られた部署だ。俺はマグナレイ一族の誇りを持って職務に邁進していると言うのに、お前ら女官ときたら我らが王太子殿下を鑑賞物かなにかと勘違いでもしているのか知らんがわざわざ一日何度も書類を届けに来て……何度訪れても無駄だからな」

 書類から顔も上げずに嫌みたらしく鼻で笑っているのを、わたしは机の前に立ち冷ややかに見下ろす。
 マグナレイ一族……というのは、お兄様とアイラン様の婚約式にも参列いただいたマグナレイ侯爵家を源流にした一族で、官吏を多数輩出している。
 マグナレイ侯爵様自身も過去宰相を務められたお方で、殿下の教育係をされていたらしい。

「こちらの書類に記載してある絹糸の価格と絹織物の価格が逆転してますけど問題ないのでしょうか。特別な染色でもした糸であれば違うのでしょうけど生糸ですし」

 役に立ちたい気持ちを、殿下の顔を近くで見たいからなんてミーハーあつかいされてカチンときた私は、その嫌味な役人が確認していた書類の違和感を口にした。

「……私は翻訳して法律上問題がないか確認するのが職務ですので」

 無愛想で嫌味な役人は自分が翻訳していた書類に視線を落とし指摘された内容を確認する。
 女の子に言い返されると思っていなかったのか、気まずそうにモゴモゴと言い訳をした。

「あら、そうでしたの。失礼しました。お忙しい王太子殿下の補助をされていらっしゃるのですから、ご自身の専門分野だけ仕事をすれば良いなどとお考えだとはゆめゆめ思いもしませんでしたわ。貴方の確認した書類は法律上問題なくても、他には問題が山積していると言うことなのでしょう? そんな書類を王太子殿下にご提出されるだなんて、優秀な文官のなさることでしょうか。結局は王太子殿下に貴方の確認しなかったその他の問題を確認させていると言うことでございましょう?」

 わたしはお兄様を真似て大袈裟にかぶりを振る。
 無愛想で嫌味な役人はわたしの勢いに圧倒されたあと少し考えた様子だった。「確かにキミの言うとおりだな」と呟くと書類の山の一部を近くに座る役人に渡した。

「ケイン。この書類は翻訳を済ませ、イスファーン王国内の法律にも我が国の法律にも抵触していないことは確認してある。経理上問題ないか確認してから王太子殿下の決裁に回してくれないか?」
「じゃあ、ステファン。代わりに俺の確認が済んでるこの書類が法律上問題ないか確認してから王太子殿下の決裁に回してくれないか?」

 拍子抜けするほど素直に私の意見を聞き入れた無愛想で嫌味なはずの役人は、痩せ細った役人と互いに書類を交換した。

「指摘してくれて助かった。王太子殿下から、翻訳して自身の専門分野の確認を済ませて置くだけで喜んでいただけていたことに、我々は満足してしまっていた。指摘されるまでこんな簡単なことに気が付かないなんてな……」

 わたしが指摘するまで気が付かなかったのは、忙しすぎて視野が狭くなっていたのが原因だろう。
 殿下だって今までが翻訳もチェックも何もされてない書類を渡されていた惨状を考えると、この部署の役人達の仕事に十分満足していたに違いない。
 しかも解決したのはわたしじゃない。嫌味を返したつもりだったのに、感謝されると据わりが悪い。

「そういえばキミは、イスファーン語が読めるのか? さっきキミが指摘した箇所はまだ翻訳が進んでいなかったはずだろう」

 無愛想で嫌味なはずの役人はそう言って該当の箇所を指す。

「イスファーン語は我が国では学習するものがまだ少ない言語だ。なのに絹織物と絹糸の区別や、製糸と生糸の区別がつけられるほどとなれば一朝一夕に習得できる水準ではない」
「えっと……以前、さる方からとても興味深い論文と関連する文献をいただきまして、イスファーン語に興味を持ちましたの」
「論文というと……」

 普段わたしに対して、無愛想で嫌味をいう事しかしなかった役人が、わたしの顔をみつめる。

 敵対していたイスファーン王国についてフラットな視点で書かれた論文は我が国には数えるほどしかない。
 毎年エレナの誕生日に殿下から贈られる歴史や地理や政治などの専門書や論文の中に、その論文はあった。
 ヴァーデン王国と他国との関係性を知るために、イスファーン王国の歴史書にヴァーデン王国がどう書かれているかを現地の言葉で読むという論文の感想文を殿下に書くために、イスファーン人の家庭教師を雇って言葉を習い、日常会話はおろか論文の元になった原文の歴史書を読みこなせるレベルまで到達している。
 その論文を書いたのが確か……

「ステファン……ステファン・マグナレイ様ですか⁈」

 わたしは質問に頷いた嫌味な役人……じゃなくて、ステファン・マグナレイ様の手を取る。

「ステファン様のお書きになった論文はわたしのイスファーン語学習のきっかけとなり、イスファーン人の講師に直接語学と歴史を学ぶ機会に繋がり尊い知見を得る事ができました。今この場にわたしがいられるのはステファン様のおかげですわ」

 わたしは思いがけない出会いに浮かれていた。
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