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奇跡の生存者

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 あの方を最初に見たのは、華道《湖坊小河流》の家元である大伯母の見舞いに行った病室だった。
 大伯母は十二指腸潰瘍で、港区の大きな病院に入院した。
 旦那さんを亡くして子どももおらず、唯一の親族となった私がお世話をすることになった。
 お弟子さんたちもいたのだが、大伯母を大好きな私が自ら名乗り出た。
 大伯母は82歳という高齢もあり、第一外科部長の石神先生が執刀して下さることになった。
 そのご挨拶に伺い、石神先生に初めてお逢いした。 

 長身で美しく高貴なお顔に逞しいお身体。
 そして何よりも凛々しいその雰囲気に圧倒された。

 「石神です。佐野原さんのオペを担当することになりました」
 「はい、佐野原小夜と申します。大伯母のみづゑの姪孫にあたります」
 「そうですか」

 石神先生は仄かに笑い、私を見ていた。

 「佐野原さんはご高齢ですが、検査の結果手術は問題ないと思います」
 「そうですか、安心しました。それではよろしくお願いいたします」
 「はい」

 私のことを大伯母が笑って見ていた。

 「小夜子さん、嬉しそうね」
 「え?」
 「こんな素敵な男性ですもの。無理はないわ」
 「大伯母様、何を言うんですか!」
 「オホホホホホ」

 石神先生は気にする様子もなく、手術の日程をお話しされた。 
 私は顔から火が噴きそうなほど恥ずかしかった。
 でも、大伯母の言う通り、私は一目で石神先生に魅かれていた。






 大伯母の手術は問題なく終わり、私は付き添いでいることから時々いらっしゃる石神先生と話をするようになった。
 石神先生は医師としてもご立派な方だったが、それ以上に人間として優しい方だった。

 「患者さんはもちろんですが、看護をしている人も相当体力を奪われますからね。佐野原さんも無理をなさらずに」
 「はい、ありがとうございます」
 「いや、みんなそう言うんだけどね。でも本当に無理をしなくなる人はいないんですよ」
 「え?」
 「大伯母さんの佐野原さんは、うちの病院でちゃんと看護しますから。佐野原さんはもっと休むようにして下さい」
 「いえ、でも……」
 「俺からちゃんと話しますから」
 「はい」

 石神先生は本当に大伯母と話してくれ、私は週に三日だけ通うことになった。
 私は勝手に入院中の大伯母が寂しがったりするだろうと考えていたけど、石神先生はそういうこともケアしてくれ、大伯母は本を読んだり石神先生が持って来る映画などを観て過ごすようになった。
 それに、時々大伯母の話し相手にもなって下さっていて、本当に大伯母は楽しそうに入院生活を満喫するようにもなった。
 だから私も無理せずに大伯母の付き添いが出来た。

 ある時、石神先生が大きな花瓶を抱えて歩かれているのを見かけた。
 私は思わずお声を掛けた。
 花瓶は柿右衛門のもので、見事な活花が入っていた。

 「石神先生、素敵なお花ですね」
 「あ、佐野原さん! いや、参ったな」

 石神先生は苦笑されていた。

 「どなたが活けたのですか?」
 「実は俺なんですよ。お恥ずかしい素人のもので」
 
 私は驚いた。

 「いえいえ! 本当に見事なお点前ですよ!」
 「いや、そんな」
 「あの、大伯母にお見せしても?」
 「はい?」
 「是非! 大伯母もきっと喜びますわ」
 「いやぁ、でも佐野原さんは有名な宗家の方でしょう?」
 「本当にお願いします!」
 「困ったな」

 それでも石神先生は大伯母の病室まで花瓶を運んで下さった。

 「まあ、なんて素敵なお花でしょう!」

 大伯母もやっぱり驚いていた。
 私も大伯母の下で修行をして来たので分かる。
 石神先生は素人だと御自嘲されていたが、とんでもない。
 流派には当てはまらないのかもしれないが、素晴らしいセンスだった。
 しかも、ただ自由だということではない。
 石神先生ご自身の美しい御心が現われているのだ。

 枯れた枝に竜胆の鮮烈な青。
 そしてススキが円を描いて後ろに控え、他に小さな花たちがまるで妖精のように散りばめられている。

 「ちょっと俺の担当の患者にね。何年も入院している患者なので、時折こうやって持って行くんです」
 「そうなのですか。お幸せな方ですね」
 「本当に! こんな素敵なお花をいつも見られるなんで」
 「いやぁ」

 石神先生は少し照れながら出て行かれた。

 「小夜子さん、石神先生はああいう方なのですよ」
 「はい」
 「ご自分のことは考えない。いつも他人のことを考えていらっしゃる。だからあのような素晴らしいものを活けるのだわ」
 「よく分かります」
 
 大伯母は微笑みながら言った。

 「小夜子さん」
 「はい」
 「稔君のことを石神先生にご相談したら?」
 「え?」
 「あなたも困っているのでしょう? 石神先生ならばきっとお力をお貸し下さるわ」
 「でも、稔は病気でもないですし」
 「いいえ、あの子は病気ですよ」
 「それは精神的なものですから」
 「とにかく、一度ご相談なさい。きっとあの方ならば」
 「でも……」

 大伯母の言うことはよく分かる。
 私自身も、言われてもしかしたらという思いもある。
 しかし、あまりにもそれは甘えたことではないだろうか。
 もちろん、私にも手に余る問題ではあった。
 それでも、他人に任せてはいけない問題だとも思っていた。
 最愛の息子・稔。
 2年前のあの日から変わってしまった。
 誰にも相談出来ずに悩んでいた。
 大伯母に打ち明けたのも、大伯母が入院する少し前だった。
 私には他に親しい人間はいない。
 夫は3年前に他界し、あとは稔だけしかいない。
 父と母ももういない。
 他の親戚とは疎遠だ。
 《湖坊小河流》を介した親戚付き合いは、互いに恰も敵対しているかのようだ。
 唯一、家元の大伯母とはまともな話が出来る。
 石神先生は、私の悩みに相談に乗って下さるだろうか。
 本来であれば、医者と患者の親戚の関係でしかない。
 病院でのお立場も大変な方だ。
 それを超えて、何かをして下さるだろうか。
 
 でも、私はもしかしたらという希望を抱いてしまった。
 あのお優しい石神先生であれば、稔のことも相談に乗って下さるのではないか。
 あつかましい自分を恐れながら、尚それに縋ってしまう自分がいる。
 私は、こんな女だったろうか。
 自分を卑しく思いながらも、石神先生に対する憧れが抑えきれずに膨らんで行く。
 あの方を見てしまったら、もうダメなのだ。
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