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挿話: 金愚

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 わしの名前は金愚(キング)だ。
 土佐犬の7歳オス。
 体重90キロの、闘犬の横綱だった。
 この世に怖いものなどない。
 でかい土佐犬も、人間も、わしの前ではただの獲物。
 どこへ行っても、わしの顔を見ればみんな避けておった。

 最初の時から負けを知らず、ついに誰もわしに勝てなくなったので、殿堂入りとして引退した。
 しばらくは種犬として過ごしていたが、あまりわしの子は出来なかった。
 だから別な飼い主に引き取られ、東京に出てきた。

 新しい飼い主は西条正美。
 偉い人間だということは、雰囲気で分かる。
 闘犬としてわしが活躍していた時の飼い主もそうだった。
 臭いが似ているので、親戚なのかもしれない。
 わしにはどうでもいいことなのだが。

 とにかく優しい飼い主で、広い庭に快適な住処を作ってくれた。
 エサも美味いもので、分厚い肉をよく食わせてくれる。
 散歩もよう連れ出してくれる。
 よく庭で身体を撫でてくれ、温水で洗ってくれたりもする。

 しかし、先日見知らぬ人間がわしを連れ出した。





 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■





 5月の中旬の木曜日。
 早乙女から病院に連絡があり、相談したいことがあると言われた。
 問題が起きたわけではなく、俺に頼みごとがあるらしい。
 夜に家に来るように言った。

 6時半ごろに夕飯を食べていると、早乙女が来た。
 気安い奴なので、食事をしたまま話を聞く。

 「実は上司の西条さんが入院することになってな」
 「あの西条さんが! おい、どこが悪いんだ?」

 以前に子どもたちと一緒に釣りに連れて行ってくれた。
 非常に真面目で温厚な方で、しかも俺の親父との縁もあった方だ。
 あれからお会いしてはいないが、尊敬する方だった。

 「椎間板ヘルニアなんだよ。ちょっと重い症状で、今度手術をすることになったんだ」
 「そうなのか。うちの病院に来るか?」
 「いや、警察病院に行くつもりなんだ」
 「そうか、じゃあ、俺も時間を見て見舞いに行くよ」
 「ああ、ありがとう! 西条さんも喜ぶよ」

 西条さんの病気の相談ではないようだ。

 「それでな、一つ問題があって」
 「どうしたんだ?」
 「西城さんが大型犬を飼っているんだ」
 「大型犬?」
 「そう、土佐犬のオスなんだよ。何度か見ているんだが、体重は90キロあるらしい」
 「でかいな!」

 俺はすぐに、闘犬だった犬だと思った。
 そこまで育てるには、明白な目的があるだろう。
 早乙女も、闘犬だったと言った。

 「高知でもう敵なしの凄い犬だったらしいよ。お兄さんの犬だったそうだ。あまりにも強くて引退して、種犬になるはずだったんだけどね」
 「そうなのか」
 「でも、あまりそっちは駄目だったらしい。殺処分されるところを、話を聞いた西城さんが引き取ったんだ」
 「そうだったか」

 土佐犬のそれほどの犬を飼うのは相当な覚悟が必要だ。
 性質上、育て方は荒い。
 目の前の相手を敵として見るように育てられるので、飼い主以外には慣れない。
 新たな飼い主になるということは、最初は敵として見られてもおかしくない。
 西条さんはきっと、あの優しさで犬を引き受けたのに違いない。
 そして相当可愛がって面倒を見て、信頼関係を築いたのだろう。
 やはり立派な人だ。

 早乙女と共に、綺羅々の専横と戦おうとしていた人だ。
 それは、早乙女の父親と姉の死を、西条さんが哀れに思ったからに他ならない。
 自分の地位や職ばかりか命さえも危うくなることを知りながら、早乙女に味方し、一緒に綺羅々と戦おうとしていた。

 今更土佐犬ごとき、なんでもなかったのかもしれない。
 本当に優しい人なのだ。

 「それでな。西条さんが入院中に、うちでその犬を預かってもらえないかと言うんだ」
 「お前の家で?」
 「うん。やはり獰猛な犬だからね。西条さんの家族では無理だということなんだよ」
 「お前も無理だろう」
 「いや、俺は結構大丈夫なんだよ。その犬、ああ、金愚って言うんだけど、西条さんと一緒にエサをやったり撫でたりもしてる。雪野さんも怜花も久留守も会ってるし問題ない」
 「へぇー」

 まあ、早乙女も優しいからな。
 そういうのが分かる犬なのかも知れん。

 「お前は良くても、雪野さんも怜花や久留守は一緒に暮らすと分からんだろう」
 「うん、そうなんだけどね」
 「どうすんだよ?」
 「まあ、駄目なようなら、どこかに閉じこもってもらうよ。俺が何にしても必ず面倒を看る」
 「うーん」

 犬に与える部屋や場所は幾らでもある。
 だが、恐らく西条さんの入院は一ヶ月を超えるだろう。
 リハビリなどもあるものだ。
 でも、早乙女の優しい決意を尊重した。
 俺も出来るだけ協力しよう。

 「まあ、お前がそう言うんならな。ああ、狂犬病とかのワクチンは打ってるんだろうな?」
 「うん、西条さんが一通りね」

 状況の話は分かった。

 「それで俺に頼みたいことってなんだ?」
 「申し訳ないんだけど、移動を手伝ってもらいたいんだ」 
 「ああ、なるほど」
 「レンタカーでもいいんだけど、石神にも金愚を見てもらいたくてさ」
 「俺なんかが見てもしょうがねぇけどな。でもハマーを出そうか」
 「ほんとか!」
 「ああ、いつがいいんだ?」

 週末の土曜日と言われた。
 翌週から西条さんが入院する予定らしい。

 「良かった! これで石神がうちに来てくれても大丈夫だ」
 「なんだ?」
 「金愚は石神を見れば一遍で気に入るだろう?」
 「そんなこと分かるかよ!」
 「うちに来て石神を吠えるのはちょっとな。だから最初に会わせておきたかったんだ」
 「お前なぁ」 

 俺は笑って引き受けた。
 ヘンなことを考えてはいるが、早乙女は俺のためにと思ってくれている。
 それに、犬を連れて行って、早乙女の家族とのことも気になる。
 だから同行することにした。
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