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東雲と小春 Ⅲ

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 「おい、今度よ、石神さんのとこへ連れてってもらえるんだよ!」
 「へぇー! 良かったじゃない! あんたが憧れてたって人だろ?」
 「そうだぁ!」

 俺は上機嫌で「しのぶ」で飲んでいた。
 愛想がよく、ちょっと気の強い女将しのぶが気に入って通っていた。
 まあ、どういうわけか、いい仲にもなっていた。
 今日は早い時間でまだ他の客は来ていない。

 しのぶは俺の大好物の大根の煮物を出してくれた。
 味が染みていて柔らかい。
 俺はおどけて小皿を出したしのぶの手の甲にキスをした。

 「なにすんだよぉ」
 「ほら、ヨーロッパじゃこういうのするだろ?」
 「知らないよ」
 「今度映画でも観てみろよ」
 「何を観りゃいいんだい?」
 「え、あー、俺も分かんねぇ」

 しのぶが大きな声で笑った。

 「あたしもあんたも学が無いからねぇ」
 「そうだな。ああ、石神さんはすげぇんだ。東大出てお医者をやってらっしゃる」
 「スゴイ人だねぇ」
 「だな!」

 石神高虎さん。
 突然千両の親父が石神さんの下に着くと言った時には驚いた。
 でも、親父の親友の花岡斬さんが認めた男だとか、とんでもねぇ戦いをしていると聞いて、俺も納得した。
 親子盃の儀で、石神さんはお嬢さんの亜紀さんと一緒に、そのとんでもねぇ力を見せた。
 千万組で全国制覇を狙ってた辰巳組が跳ねっかえり、石神さんたちに潰された。
 俺たちも気合が入っているつもりだったが、全員が呆然とした。
 石神さんは何丁も狙ってるチャカの弾を全部避け、辰巳組の連中を斬り倒した。
 組長の辰巳は相当強い奴だったはずだが、素手で簡単に殺した。
 首を切り裂いて庭に出ると、武装していた辰巳組数十人が、全員亜紀さんに斃されていた。
 お二人は、まるで散歩から戻ったような態度で、飯を喰い始めた。

 俺たちは、その圧倒的な力を恐れたんじゃない。
 あの神々しい戦いに、みんな惚れ込んだんだ。
 盃事が再開され、俺たちは全員、石神さんに付いて行くことを決めた。
 喜んでそうした。

 石神さんはとんでもねぇ奴と敵対していた。
 花岡業。
 後から聞いた。
 千両の親父のお嬢さん菖蒲さんの仇でもあるらしい。
 信じられないほどの強さで、千両の親父も手が出せないほどだった。
 あの化け物の花岡斬でさえも。
 そんな奴と石神さんは戦おうとしている。
 俺たちは全員、死ぬ覚悟で石神さんと一緒に戦おうと思った。
 
 そして石神さんが、俺たちに「花岡」を身に着けるように言った。
 「花岡」は、表向き合気道道場だが、実態は恐ろしい拳法だった。
 空手で瓦を割るどこじゃない。
 大きな岩を砕き、ビルも破壊する。
 俺らは必死に鍛錬した。

 「普通の人間じゃすぐに死んじまう。だから石神さんは俺たちに「花岡」を学ばせてるんだ」
 「はい! お役に立ちますよ!」
 「そうじゃねぇんだよ」

 一緒に斬の道場に通っていた若頭の桜さんが言った。 
 
 「石神さんはよ、俺たちが死なねぇようにって思って下さってるんだ」
 「へ?」
 「戦いに巻き込んで済まねぇってなぁ。だから強くして生き延びるようにってよ」
 「あっしは死んでもいいんですけど」
 「俺もだよ! でもな、石神さんは優しいお人なんだ」
 「!」

 俺らを戦力にしたいんじゃない。
 巻き込んで危なくなったから、死なねぇようにするんだと。

 「若頭、俺はきっと役立つ人間になりやすよ!」
 「ああ、俺もだ!」

 そして、石神さんが千両の親父、桜さんの他に、優秀な人間を二人連れて来いと言ってくれた。
 俺と月岡が選ばれ、俺は有頂天になった。

 まあ、予想通りだったが、石神さんのお宅に行って、まだまだ全然役立たないってことが分かった。
 「人斬り弥太」と呼ばれた剣客の千両の親父でさえ敵わなかった。
 剣で遣り合ったにもかかわらずだ。
 その後で美味い飯を(肉はちょっとだけ)喰わせてもらい、酒をガンガンご馳走になった。
 酒を飲みながら、石神さんたちの「戦い」の記録を見せて頂いた。
 とんでもねぇものばかりだった。
 とても人間の戦いに見えなかった。

 久し振りに二日酔いで酷い有様だったが、石神さんがわざわざ病院から薬を取って来てくれた。

 俺は、また必死に「花岡」を学んだ。
 俺は身長が低い。
 だから、他人よりも一層励んだ。





 千両の親父から、石神さんのお宅の拡張工事の話が来た。
 千万組の土建会社で働いていた俺に、現場監督を任せると言われた。
 俺は跳び上がる程喜んだ。

 「東雲、お前にはこれから石神さんが作っていく現場を任せて行きたいんだ」
 「え、お宅だけじゃないんですか?」
 「ああ。石神さんは今後、沢山の拠点を作って行かれるらしい。この群馬にも既に、大きな研究所があって、高度な兵器も開発してるそうだ」
 「はぁ」
 「これから、もっとそういうものが増える。それに、石神さんは今後「業」と戦うために日本を変えるおつもりらしいぞ」
 「そうなんですか!」
 
 よくは分からないが、俺なんかにとんでもない仕事をさせてくれるらしい。
 俺は、これから命懸けで石神さんのために働くつもりだった。
 そしてそれは、多分危険なことも多いものになるだろうことは分かった。
 石神さんが、腕の良さよりも「花岡」をこなせる連中を希望していると聞いた。
 それは、危ないってことなんだろう。
 石神さんのお宅は常に狙われてる。
 だから、ある程度は自衛出来る人間をとお考えのようだった。

 「親父、最高の腕前の職人を連れて行きますよ」
 「そうか」

 親父が嬉しそうに笑った。
 俺が絶対に職人たちを守ってやる。
 だから、まずは腕前だ。
 俺は千両の親父の家を出た。

 「東雲、大事な人間がいるんなら、一緒に連れて行け」
 「はい?」

 桜さんが見送って下さりながら、俺に言った。
 
 「いいからそうしろ。暮らしのことなら、十分に組から出す」
 「い、いいえ!」
 「まあ、石神さんも相当出されるつもりだろうけどなぁ。あのお方はなぁ。何にしても心配すんな」
 「とんでもねぇ!」

 ありがたいお話だった。
 だから俺はその日、また「しのぶ」へ行った。

 




 「おや、また今日は随分と早いんだね?」

 しのぶがいつものように愛想よく俺をカウンターに座らせ、大根の煮物を前に置いた。

 「今日も泊って行けるかい?」

 ちょっと顔を赤くして言いやがった。
 こいつとはもう2年近くも懇ろになっているが、未だに恥ずかしがっている。
 店の2階が住居になっているので、俺も最後まで客のフリで残ってからだ。

 「しのぶ、別れよう」
 「え!」

 しのぶが大根の大皿を落としてでかい音がした。
 手が震えていた。

 「悪いな、これから遠くで仕事をしなきゃならねぇんだ」
 「そ、それじゃあたしも……」
 「ダメだ。お前は連れて行けねぇ」
 「あんた……」

 しのぶの目から大粒の涙が零れた。
 こんなしのぶは見たことが無かった。
 しのぶの過去は幾つも聞いている。
 どんなに辛い時だって、こいつは笑い飛ばして歯を食いしばって跳ねのけて来た。
 そんな女が泣いていた。

 「あたし、何でもするよ。あんたのために、なんでも」
 「しのぶ、俺が決めたことだ」
 「あんたにあたしは……」
 
 俺は持って来た風呂敷包を置いた。

 「すまねぇな。俺はこんな男なんだよ」
 「あんたぁ!」

 俺は店を出た。
 後ろでしのぶが大泣きしている声が聞こえた。
 俺も歯を食いしばった。




 後日、桜さんから風呂敷が届いたと聞いた。

 「お前、あの女将にこれを渡したのか」
 「へぇ。自分はこんなことしか出来なくって」
 「女将が受け取るわけねぇだろう」
 「はぁ」

 俺の貯金の全部だった。
 三千万くらいはある。

 「若頭、何とかなりませんかね?」
 「ばかやろう!」
 
 怒鳴られたが、桜さんにも俺の気持ちは分かっているはずだった。
 石神さんのお宅へ行けば、どんな危険があるのか分からねぇ。
 だからしのぶとは別れるしかねぇ。
 俺が大事に思う女なのだから。

 「しょうがねぇ。俺が話を付けて来るよ。まったく面倒事を」
 「すいやせん」
 
 桜さんは、何とかしのぶを説得してくれた。
 店はしばらく閉じていたそうだが、そのうちにまた始めたと聞いた。





 お前は強い女だろう。
 頑張ってくれ。
 俺のことなんか、きれいさっぱり忘れてよ。

 幸せになってくれ、しのぶ。
 ありがとうな、しのぶ。
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