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トッカータとフーガ ニ短調(BWV565)
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「紅六花ビル」での、いつもの楽しい宴会の翌朝。
俺は5時に起きて、ハマーで「紫苑六花公園」へ行った。
約束はしていないし、話もしなかったが、竹流がいるに違いなかった。
ハマーを手前の駐車場に入れ、歩いた。
タケの店で借りた箒とギターを持っている。
「神様!」
「お前! やっぱりいたかぁ!」
「はい!」
俺は笑って、一緒に公園を掃いた。
すぐに掃き終わり、二人でギターを弾いた。
「神様、次のCDが楽しみです!」
「おう、まあ、じゃあ良かったよ」
「何がですか?」
「お前が楽しみだって言うんなら、まあ、俺も頑張った甲斐があるな」
「そんな! 亜紀姉さんだって物凄く楽しみにしてるじゃないですか」
「ああ、あいつなー」
二人で笑った。
「亜紀ちゃんな、録音スタジオまで付いて来たんだよ」
「そうなんですか!」
「全然必要じゃねぇっていうか、却って邪魔なんだよ」
「それは可哀想ですよ」
「おー。俺がさ、夜も遅くなったから、お前は帰れって言ったのな」
「え!」
「そうしたらマジ泣きしやがってよ! 周りの人間から俺が悪いって怒られるしさー」
「アハハハハハハ!」
竹流から、橘弥生のCDを送ったことの礼を言われた。
「凄く感動しました!」
「そうだよな。俺もあんなに「魂」を込めた演奏は他に幾らも知らないよ」
竹流には橘弥生の全CDと、有名なギタリストのCDなどを送った。
「神様は、橘弥生さんに言われるとCDを断れないと聞きました」
「亜紀ちゃんかー」
「アハハハハハハ!」
「まあ、そうなんだけどなぁ」
「どうしてなんですか?」
「そりゃ、門土の母親だしな」
「そうですか」
竹流にも俺と門土の話はしている。
他の子どもたちからも聞いているだろう。
「門土さんのためにですか?」
「まあ、それも大きいんだけどな。それとは別に、やっぱり俺の大好きな門土の憧れだったということかな」
「はい」
「それとな」
俺は竹流に、あの日の話をした。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
門土の家に、いつものように遊びに行っていた。
中学3年の夏休みだったと思う。
「トラ、今日も来ていたのね」
「お邪魔してます!」
突然音楽室に現われた橘弥生に驚いた。
門土は笑って「お帰り」と言った。
橘弥生はそのまま中へ入り、紅茶を頼んでそのまま座った。
「トラ、弾きなさい」
「は、はい!」
俺は紅茶が来るまでの間、調弦を確認した。
橘弥生の前で弾くのだから、細心の注意を怠らない。
紅茶が届き、俺は演奏を始めた。
バッハの「幻想曲とフーガ ト短調」だった。
『大フーガ』として名高いオルガンの名曲だ。
俺が大好きな曲だったので、ギターにアレンジしてあった。
全曲を弾き終わると、徐に橘弥生が立ち上がって、壁一面に設えられた譜面の棚に歩いて行き、1冊の譜面を出した。
俺と門土は何事かと見ていた。
橘弥生は何も言わずにピアノに近づいたので、門土が席を空けた。
そのまま鍵盤を幾つか叩き、音を確認する。
スタインウェイの《STEINWAY & SONS C-227》だ。
コンサートホールでも通用する、力強い音量の上、澄み切った高温と重厚な低音を響かせる銘品だった。
無言で譜面を開いて弾き始めた。
『大フーガ』だった。
俺と門土はその演奏に聴き入った。
「じゃあね。トラ、今日は泊って行くの?」
「え、いいんですか!」
「いいわよ。食事は?」
「えーと、まだですけど、俺の分はいりませんからー」
「何言ってるの!」
橘弥生が部屋から出て行った。
ちゃんと自分が飲んだ紅茶のカップを持って行った。
厳しいが、威張った人間ではない。
「おい、トラ。凄いな!」
「ああ、スゴイ演奏だったぜぇ!」
「違うよ! 母さんがお前の引いた曲をピアノでやったことだよ!」
「え?」
「あれ、トラの編曲そのままだっただろう! あれって、お前の編曲に興味を持ったからだぞ!」
「そ、そんなことねぇ!」
「だって!」
「門土のために聴かせたかったんだろうよ」
「うーん」
夕食は鯛のポワレと鳥肉のシチューだった。
ライスが皿に盛られている。
あまりの美味さに唸りながら食べる俺を、橘弥生が笑って見ていた。
「トラ、一杯食べなさい」
「え! あとは水を飲みますから大丈夫ですよ?」
「あなた! 私の食事が食べられないの!」
「ヒェ! すみません!」
お手伝いさんが笑って俺の空いた皿を持って行って、大盛にしてくれた。
「トラ、バッハのオルガン曲は他にも出来るの?」
「練習してるのは『トッカータとフーガ ニ短調』と『フーガ ト短調』ですけどー」
「そう、後で聴かせて?」
「えぇ!」
「なによ!」
「わかりましたー」
橘弥生が俺に頼みやがった。
俺は門土にどうすんだって顔を向けたが、門土は嬉しそうに笑っているばかりだった。
食事の後で橘弥生の前で2曲を弾いた。
「トラ、ありがとう」
橘弥生が俺の頭を両手で挟んで微笑んでいた。
あの命よりも大切にしている橘弥生の手でだ。
感動よりも先に驚いた。
食後にしばらく門土と楽しく演奏していると、橘弥生が入って来た。
「そろそろあなたたちは出て行きなさい。私が使うから」
「「はい!」」
この部屋は橘弥生が使うために用意されたものだ。
当然のことで、俺たちはすぐに片付けて出て行った。
門土の部屋で楽しく話した。
ふと、会話が途切れた時に、橘弥生の演奏が聞こえた。
音楽室は防音処理をしていたが、現代のように完璧なものではない。
特に門土の部屋は近いのと、あの《STEINWAY & SONS C-227》を本気で弾いていることで、幽かに音が聴こえて来た。
「トラ! 『トッカータとフーガ』だぞ!」
「あ、ああ」
庭で鳴いている虫の音の方が大きい。
しかし、確かにバッハの『トッカータとフーガ』が聴こえて来た。
門土が言った。
「前にさ、母さんが言ってたんだ」
「何を?」
「トラのギターをよく聴いておくようにって」
「へぇー」
「自分が先に出会いたかったってさ」
「へぇー」
「なんだよ、嬉しくないのか?」
「うーん、あの人、おっかないから」
「え?」
「貢さんもそうだけどさ。橘さんはずっとおっかないや」
「アハハハハハハ!」
本当は嬉しかった。
でも、そう言えば門土が傷つくかもしれないと思った。
「母さんがさ、演奏を聞いてお礼を言うなんて、滅多にないんだよ」
「へぇー」
「さっきは驚いたな」
「そっか」
俺たちは寝ることにし、橘弥生の演奏は朝方の3時頃まで続いていた。
俺は眠れずに、ずっとその幽かな演奏を聴いていた。
門土もきっとそうだったと思う。
その後、橘弥生はそれまでのベートーヴェンとモーツァルトを中心とした演奏に、バッハの楽曲を加えて行った。
もちろん、俺の影響などと考えたことは一度もない。
バッハの清澄で深遠な音楽が、そうなるべくして橘弥生の演奏に加わっただけだ。
でも、あの日門土が話してくれたことは忘れたことはない。
あの世界最高のピアニストの一人が、俺の音楽を認めてくれた。
貢さんと共に。
俺にはそれが嬉しい。
俺がずっとギターを弾いて来たのは、貢さんと、あの日の橘弥生のお陰だ。
こんな俺のことを認めてくれたお二人のお陰だ。
だから俺は橘弥生に逆らえない。
尊敬と共に、最大の感謝を捧げる人。
門土が愛した母親。
俺の中で、橘弥生は最高に高い場所にいる。
俺は5時に起きて、ハマーで「紫苑六花公園」へ行った。
約束はしていないし、話もしなかったが、竹流がいるに違いなかった。
ハマーを手前の駐車場に入れ、歩いた。
タケの店で借りた箒とギターを持っている。
「神様!」
「お前! やっぱりいたかぁ!」
「はい!」
俺は笑って、一緒に公園を掃いた。
すぐに掃き終わり、二人でギターを弾いた。
「神様、次のCDが楽しみです!」
「おう、まあ、じゃあ良かったよ」
「何がですか?」
「お前が楽しみだって言うんなら、まあ、俺も頑張った甲斐があるな」
「そんな! 亜紀姉さんだって物凄く楽しみにしてるじゃないですか」
「ああ、あいつなー」
二人で笑った。
「亜紀ちゃんな、録音スタジオまで付いて来たんだよ」
「そうなんですか!」
「全然必要じゃねぇっていうか、却って邪魔なんだよ」
「それは可哀想ですよ」
「おー。俺がさ、夜も遅くなったから、お前は帰れって言ったのな」
「え!」
「そうしたらマジ泣きしやがってよ! 周りの人間から俺が悪いって怒られるしさー」
「アハハハハハハ!」
竹流から、橘弥生のCDを送ったことの礼を言われた。
「凄く感動しました!」
「そうだよな。俺もあんなに「魂」を込めた演奏は他に幾らも知らないよ」
竹流には橘弥生の全CDと、有名なギタリストのCDなどを送った。
「神様は、橘弥生さんに言われるとCDを断れないと聞きました」
「亜紀ちゃんかー」
「アハハハハハハ!」
「まあ、そうなんだけどなぁ」
「どうしてなんですか?」
「そりゃ、門土の母親だしな」
「そうですか」
竹流にも俺と門土の話はしている。
他の子どもたちからも聞いているだろう。
「門土さんのためにですか?」
「まあ、それも大きいんだけどな。それとは別に、やっぱり俺の大好きな門土の憧れだったということかな」
「はい」
「それとな」
俺は竹流に、あの日の話をした。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
門土の家に、いつものように遊びに行っていた。
中学3年の夏休みだったと思う。
「トラ、今日も来ていたのね」
「お邪魔してます!」
突然音楽室に現われた橘弥生に驚いた。
門土は笑って「お帰り」と言った。
橘弥生はそのまま中へ入り、紅茶を頼んでそのまま座った。
「トラ、弾きなさい」
「は、はい!」
俺は紅茶が来るまでの間、調弦を確認した。
橘弥生の前で弾くのだから、細心の注意を怠らない。
紅茶が届き、俺は演奏を始めた。
バッハの「幻想曲とフーガ ト短調」だった。
『大フーガ』として名高いオルガンの名曲だ。
俺が大好きな曲だったので、ギターにアレンジしてあった。
全曲を弾き終わると、徐に橘弥生が立ち上がって、壁一面に設えられた譜面の棚に歩いて行き、1冊の譜面を出した。
俺と門土は何事かと見ていた。
橘弥生は何も言わずにピアノに近づいたので、門土が席を空けた。
そのまま鍵盤を幾つか叩き、音を確認する。
スタインウェイの《STEINWAY & SONS C-227》だ。
コンサートホールでも通用する、力強い音量の上、澄み切った高温と重厚な低音を響かせる銘品だった。
無言で譜面を開いて弾き始めた。
『大フーガ』だった。
俺と門土はその演奏に聴き入った。
「じゃあね。トラ、今日は泊って行くの?」
「え、いいんですか!」
「いいわよ。食事は?」
「えーと、まだですけど、俺の分はいりませんからー」
「何言ってるの!」
橘弥生が部屋から出て行った。
ちゃんと自分が飲んだ紅茶のカップを持って行った。
厳しいが、威張った人間ではない。
「おい、トラ。凄いな!」
「ああ、スゴイ演奏だったぜぇ!」
「違うよ! 母さんがお前の引いた曲をピアノでやったことだよ!」
「え?」
「あれ、トラの編曲そのままだっただろう! あれって、お前の編曲に興味を持ったからだぞ!」
「そ、そんなことねぇ!」
「だって!」
「門土のために聴かせたかったんだろうよ」
「うーん」
夕食は鯛のポワレと鳥肉のシチューだった。
ライスが皿に盛られている。
あまりの美味さに唸りながら食べる俺を、橘弥生が笑って見ていた。
「トラ、一杯食べなさい」
「え! あとは水を飲みますから大丈夫ですよ?」
「あなた! 私の食事が食べられないの!」
「ヒェ! すみません!」
お手伝いさんが笑って俺の空いた皿を持って行って、大盛にしてくれた。
「トラ、バッハのオルガン曲は他にも出来るの?」
「練習してるのは『トッカータとフーガ ニ短調』と『フーガ ト短調』ですけどー」
「そう、後で聴かせて?」
「えぇ!」
「なによ!」
「わかりましたー」
橘弥生が俺に頼みやがった。
俺は門土にどうすんだって顔を向けたが、門土は嬉しそうに笑っているばかりだった。
食事の後で橘弥生の前で2曲を弾いた。
「トラ、ありがとう」
橘弥生が俺の頭を両手で挟んで微笑んでいた。
あの命よりも大切にしている橘弥生の手でだ。
感動よりも先に驚いた。
食後にしばらく門土と楽しく演奏していると、橘弥生が入って来た。
「そろそろあなたたちは出て行きなさい。私が使うから」
「「はい!」」
この部屋は橘弥生が使うために用意されたものだ。
当然のことで、俺たちはすぐに片付けて出て行った。
門土の部屋で楽しく話した。
ふと、会話が途切れた時に、橘弥生の演奏が聞こえた。
音楽室は防音処理をしていたが、現代のように完璧なものではない。
特に門土の部屋は近いのと、あの《STEINWAY & SONS C-227》を本気で弾いていることで、幽かに音が聴こえて来た。
「トラ! 『トッカータとフーガ』だぞ!」
「あ、ああ」
庭で鳴いている虫の音の方が大きい。
しかし、確かにバッハの『トッカータとフーガ』が聴こえて来た。
門土が言った。
「前にさ、母さんが言ってたんだ」
「何を?」
「トラのギターをよく聴いておくようにって」
「へぇー」
「自分が先に出会いたかったってさ」
「へぇー」
「なんだよ、嬉しくないのか?」
「うーん、あの人、おっかないから」
「え?」
「貢さんもそうだけどさ。橘さんはずっとおっかないや」
「アハハハハハハ!」
本当は嬉しかった。
でも、そう言えば門土が傷つくかもしれないと思った。
「母さんがさ、演奏を聞いてお礼を言うなんて、滅多にないんだよ」
「へぇー」
「さっきは驚いたな」
「そっか」
俺たちは寝ることにし、橘弥生の演奏は朝方の3時頃まで続いていた。
俺は眠れずに、ずっとその幽かな演奏を聴いていた。
門土もきっとそうだったと思う。
その後、橘弥生はそれまでのベートーヴェンとモーツァルトを中心とした演奏に、バッハの楽曲を加えて行った。
もちろん、俺の影響などと考えたことは一度もない。
バッハの清澄で深遠な音楽が、そうなるべくして橘弥生の演奏に加わっただけだ。
でも、あの日門土が話してくれたことは忘れたことはない。
あの世界最高のピアニストの一人が、俺の音楽を認めてくれた。
貢さんと共に。
俺にはそれが嬉しい。
俺がずっとギターを弾いて来たのは、貢さんと、あの日の橘弥生のお陰だ。
こんな俺のことを認めてくれたお二人のお陰だ。
だから俺は橘弥生に逆らえない。
尊敬と共に、最大の感謝を捧げる人。
門土が愛した母親。
俺の中で、橘弥生は最高に高い場所にいる。
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