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顕さんと冬の別荘 Ⅶ

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 顕さんとモニカに風呂に入って頂き、俺たちも酒の用意をしながら順次入った。
 顕さんに飲みたいものを聞くと、俺と一緒にワイルドターキーが飲みたいと言った。
 モニカも同じものを希望する。
 柳と子どもたちにまた甘酒を用意した。

 つまみは揚げ出汁豆腐。
 カプレーゼ。
 ナスの煮びたし。
 身欠きにしん。
 キャビアを5缶。

 みんなで屋上に運ぶ。

 「石神くん、本当に楽しかったよ」
 「そうですか。それは良かった」

 顕さんとモニカが俺に頭を下げる。

 「奈津江はいなくなってしまったけど、俺と顕さんの縁を遺してくれた。有難いことですよ」
 「そうだな」
 「また新しく、モニカさんとの縁も出来た」
 「はい、宜しくお願いします」

 ワイルドターキーの芳香が薫る。
 聖と初めて飲んだ時のまま、この芳香は変わらない。
 嗅ぐ度に、俺の中であの日が甦る。
 その酒を、こうして顕さんと飲んでいる。

 「亜紀ちゃんにね、石神くんがこのお酒が一番好きなんだって聞いたんだ」
 「そうだったんですか」
 「だから、今日は一緒に飲みたかった」
 「はい」

 顕さんがグラスを傾けた。
 氷に滲んだその光が美しかった。
 
 「しかしなぁ。石神くんがサイヘーさんの弟子だったとは」
 「アハハハハ!」

 俺は貢さんとの出会いから、その別れ。
 その中で門土と知り合い、橘弥生とのことを話した。

 「門土とは高校時代に別れ、それからずっと会わなかったんです」
 「うん、そうか」
 「門土のデビューコンサートで、あいつの晴れやかな姿を見て。本当に嬉しかった。あいつは自分の道を誇り高く歩いていた」
 「ああ」

 外は風が吹いているようだが、雪が音を吸収している。
 静まり返った闇と白い光。
 この世が停まってしまったかのようだ。

 「でも門土は手を怪我して、二度とピアノが弾けなくなった。その後で作曲家の道を進もうともしたんですけどね」
 「残念だよな」
 「はい。見舞いに行って俺が作曲を勧めたんですけどね。あいつはもう燃え尽きてしまった」
 「そうか」

 「あいつが死ぬ前に一度だけ呼ばれたんです」
 「タカさん!」

 亜紀ちゃんが立ち上がった。
 その話はしていなかった。





 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■




 11月初旬だった。
 俺の病院に門土から電話が来た。

 生憎オペの最中で出られなかったが、伝言のメモを見て急いで折り返した。
 門土とは電話で時々話していた。
 作曲の様子を最初は聞いていたが、あまり上手く行っていないようだったので、その話題は避けるようにしていた。
 門土は最初は明るく俺と話すのを楽しむが、次第にトーンが落ちていく。
 俺は無理に楽しい話をして、門土を元気づけようとした。

 会いに行きたかったが、俺の顔を見れば自分がピアノを弾けなくなったことを思い出す。
 だから電話だけにしていた。
 そのうちに門土なのだから、素晴らしい曲も書くだろうと思っていた。
 あいつの音楽的才能は尋常ではない。
 今は鬱屈しているだろうが、きっと。

 俺はそう思っていた。

 電話をすると、門土の声は暗かった。

 「トラ、会いたいよ」
 「おう! じゃあ遊びに行くな!」
 「うん、来てくれ」

 「いつにするかなー」
 「早く会いたい」
 「そうか! じゃあ土曜日に行くよ!」
 「うん、待ってるよ」

 土曜日は蓼科部長から他の病院へ出向の予定を入れられていたが、何とか頼み込んで他の人間に替わってもらった。
 蓼科部長は普段は許さないが、俺が本気で頼んだ時には必ず何とかしてくれた。
 
 


 土曜日の昼過ぎに門土の家に行った。
 昔からいるお手伝いの秋絵さんが俺の顔を覚えていて、懐かしそうに話しながら門土の部屋へ案内してくれた。
 
 「門土!」
 「トラ! 本当に来てくれたのか!」
 「当たり前だろう! お前と会えるのは俺の最大の楽しみだ」
 「アハハハハ!」

 今日の門土は明るかった。
 以前よりもげっそりと痩せ、顔色も悪かったが、その表情は嬉しそうに輝いていた。
 最近では無い程の上機嫌で、二人で楽しく昔話をした。

 「貢さん、死ぬのがちょっと早かったよなぁ」
 「しょうがないよ。あの人はあれで良かったんだと思うぞ?」
 「どうしてさ?」
 「自分の音楽を懸命に追いかけて死んだんだ。俺は尊敬するよ」
 「そうか」
 
 門土は俺の言葉に納得したようだった。
 
 「人間はさ、みんな中途挫折だよ。それでいいって言うと語弊があるけど、仕方がないんだ。だって、人間には無理なことに挑戦し続けるんだからな」
 「成し遂げないでもいいっていうことか?」
 「そうだよ。反対に、成し遂げられるようなことに向かう奴を、俺は尊敬できないね」
 「トラらしいな」
 「そうか?」
 「いや、俺もそう思うよ」
 「そうだろう!」

 二人で笑った。

 「俺は母さんを追い掛けていたんだ」
 「おう!」
 「橘弥生は遠いよ。自分で本気でピアノを弾いているとよく分かった。前にね、母さんを教えた人に言われたんだ」
 「へぇー!」
 「その人に、自分ではとても母さんには追い付けないって。そうしたら、その人が「死ぬまで追い掛ければいいじゃないの」って言ったんだよ。俺はその言葉が胸の深い所に落ちた」

 「素晴らしい人だな!」
 「そうだろ! やっぱりあの橘弥生を育て上げた人だよ」
 「だよなぁ」

 門土が音楽室へ行こうと言った。
 俺にギターを渡し、演奏してくれと言う。
 俺は快く引き受け、門土が言うままに弾いた。

 「トラ、お前また上手くなったな!」
 「そうか? まあ、今でもよく弾いているからな」
 「やっぱりお前のギターはいいよ」
 「ありがとう。お前や貢さんに繋がるものだからな。絶対に辞められないよ」
 「うん! ずっと続けてくれな」
 「おう!」

 門土が橘弥生のCDを掛けた。
 グリークの『ピアノ・コンチェルト イ短調』だ。
 ベルリンフィルとの共演だった。
 「偉大」というしかない、名演だ。
 壮大なベルリンフィルの演奏の中で、更に屹立して「世界」を創造している。
 
 「俺もこういう演奏を目指していた。自分なりのものでな」
 「うん」

 門土の中では、同じ舞台で自分が成し遂げるかもしれない何かを見詰めていただろう。
 CDを聴きながら、門土の中で何かが流れているのを俺は感じた。
 同時に、門土が作曲ではなく未だにピアノを渇望していることも分かった。
 両手で4本しか満足に動かせない門土の指。
 4本が喪われ、2本はピクリとも動かない。
 今は黒い手袋をしているが、無残な傷痕の両手。

 橘弥生は、冷酷な程に極めたピアノの音を響かせていた。
 他の追随を許さない、完膚なきまでに叩き潰す演奏。
 そして門土はその音を愛し、絶望していた。

 


 夕飯を食べ、俺と酒が飲みたいと言う門土に付き合った。
 酒とつまみを持って来るお手伝いさんに呼ばれた。

 「最近、毎日お酒を召し上がるんです。少々飲み過ぎなので、出来ればもうちょっと控えるようにお話し下さいませんか?」
 「分かりました」

 俺は出来るだけ楽しい話をし、門土につまみを勧めて酒のペースを緩めた。
 門土は俺の話に笑い転げ、酒よりも話を聞くことに夢中になった。

 「今の部長がよ、ゴリラなんだよ」
 「なんだよ、それは!」
 「マジだぜ。バナナをやるとご機嫌でな」
 「アハハハハハ!」
 「でも怒ってる最中に差し出したら、こないだ殴られた」
 「ダメじゃないか!」

 門土が酔い始めた。

 「お前、毎日飲んでるそうだな」
 「なんだ、秋絵さんに聞いたのか」
 「心配してるんだよ」
 「うん、分かってる」

 意外に大人しく話を聞いていた。

 「酒は楽しいけどさ。飲み過ぎはダメだぜ」
 「そうなんだけどな」
 「俺は医者だ。お前の身体が心配なんだよ」
 「ああ。でももう大丈夫だよ」
 「そうか?」
 「うん。もうトラには心配を掛けない」
 「ほんとか!」

 門土は明るく笑った。

 「今な、やり掛けているものがあるんだ」
 「おい、見せてくれよ!」
 「ダメだよ。完成したらね。もうちょっとなんだ」
 「楽しみだな!」
 「そうか。それが完成したら、もう俺は大丈夫だ」
 「おい、本当に楽しみだぞ!」
 「うん、待っててくれな」
 「おう!」

 俺はそろそろ帰ると言い、酒は全部片づけた。

 「もう寝ろよ。俺はこのまま帰るから」
 「うん、今日はありがとうな、トラ」
 「いいって。また来るよ」
 「うん……」

 門土をベッドに寝かせて灯を消した。
 門土はすぐに眠った。

 



 その二週間後。
 門土は自殺した。
 門土と最初に出会った時の、俺と橘弥生とのセッションを楽譜に遺して。

 あの日、門土は俺に別れを言っていたのだと後から気付いた。

 葬儀の後で秋絵さんから聞いたが、門土はアモキサピン系の抗うつ薬を使っていたようだ。
 俺に会う日、いつもより多くそれを飲んでいたと聞かされた。
 門土があれほど明るかった一因なのかもしれない。
 酒にすぐに酔いつぶれてしまったこともそうなのかもしれない。

 
 でも俺は門土が俺と会って楽しんでいたのだと思っている。
 俺たちの友情はそうなのだ。
 



 「それが完成したら、もう俺は大丈夫だ」




 門土はそう言っていた。
 あいつは最初の出会いをこの世に確かな形に遺した。
 門土が最も大切にしていたのは、あの出会いだ。
 そのお陰で、俺も今もあの出会いの日を再現できる。
 門土の楽譜を見る度に、俺はあの日あの時へ還ることが出来る。
 門土の死は、死では無くなった。
 永劫回帰が創られた。

 それは、俺が喪った全てをそうさせてくれた。
 
 俺の中に、喪われても永遠に存在するものを遺してくれた。
 そしてそれはまた、喪われる。
 その壮絶な悲しみがあろうとも、俺は何度でもあの日に還る。
 そこには門土がいるからだ。 
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