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雨の日に

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 「亜紀ちゃん、帰ろう」
 
 タカさんが私に傘を差し出して言った。

 「はい。でも、タカさん、もうちょっとだけ」
 「ああ、分かった。じゃあ車で待ってるから。早く来いよ」
 「はい、すみません」

 タカさんは傘を私に手渡して、離れて行った。
 タカさんは激しい雨の中ですぐにずぶ濡れになった。
 でも、私は動けないでいた。




 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■




 あれは半年前の6月。
 梅雨らしく、雨が降っていた。
 新宿伊勢丹のメンズ館でタカさんのシャツを受け取った帰りだった。
 ルイジ・ボレッリのオーダー品だ。
 一枚20万円のものを4枚。
 タカさんが喜ぶ顔が見たくて、靖国通りに出てタクシーを拾おうと思っていた。
 雨脚が強くなり、私はタカさんに買ってもらったフォックスのウサギの傘を差した。
 
 通りの向こうで銃声がした。
 人が慌てて逃げ惑っている。
 見ると五人の男たちが一人の男性を襲っているのが見えた。
 襲っている連中の格好を見て、一目でヤクザだと分かった。
 私は咄嗟に「飛んで」通りを渡った。
 
 この辺のヤクザはタカさんが千万組と神戸山王会に仕切らせている。
 襲われているのが千万組の人なら。
 五人の男たちを瞬時に昏倒させた。

 顔を知っている人だった。
 名前は知らないが。
 何度か、歌舞伎町の喫茶店で会っている。
 私に挨拶して来て、千万組の人間だと言っていた。
 いつもカッコイイスーツを着ていて、顔もいい。
 数人の若い連中を連れていることが多かった。
 ちょっとタカさんの感じがある。
 私も、義理人情があって、それでいて優しそうなその人を気に入っていた。

 「あの!」

 駆け寄って声を掛けた。
 胸と腹に喰らっている。
 雨が強くなり、その人の身体から流れ出た血が拡がって行った。

 「亜紀の姐さん」
 「喋らないで! すぐに病院へ運ぶから!」
 
 その人は笑って「すいません」と言い、気を喪った。
 私は傘をその人の身体に差した。
 急所は外れている。
 右肺と腹部。
 太い動脈をやられていなければ助かる。
 最悪の場合、いつも持ち歩いている「Ω」と「オロチ」の粉末がある。
 タカさんに聞けば、使う許可を貰えるだろう。

 救急車が来た。
 私は知人だと言い、一緒に乗り込んだ。
 タカさんの病院へ運んでもらった。




 緊急オペをタカさんがしてくれた。
 1時間ほどで終わった。
 流石はタカさんだ。

 待合で待っているとタカさんが手術着で出て来た。
 
 「おう、大丈夫だぞ」
 「良かった!」
 「千万組の人間らしいな。川尻義男という名前だ」
 「そうなんですか。前に歌舞伎町でよく会って、顔は知っていたんです」
 「お前、あんな場所に出入りすんじゃねぇ!」

 タカさんが笑って言った。
 出て来たナースの人たちも笑っていた。
 帰りはタカさんと一緒に帰った。

 「あの、伊勢丹でシャツを受け取って来ました」
 「おお! そうか!」
 「すいません。ちょっと雨に濡れてしまいまして。でも袋に入っているから大丈夫ですよ」
 「バカヤロウ! ヤクザなんか死んでもいいから、俺の大事なボレッリは濡らすんじゃねぇ!」
 「アハハハハハ!」


 川尻さんは一週間で退院した。
 タカさんのオペが良かったのだ。
 傷ついた肺と小腸を丁寧に縫合し、血管も綺麗に繋げた。
 だから回復がとても速かった。

 


 川尻さんが退院した後、千両さんと桜さんが川尻さんとうちに来た。
 大きな絵を抱えて来た。

 「なんだよ! お前らにはこういうものを持って来るなと言ってあるだろう!」
 「申し訳ありません。今回は本当にお世話になりましたので」
 「持って帰れ!」

 桜さんが梱包を開いた。
 リャドの「カンピン夫人」の絵だった。
 双子が踏み潰したものだった。
 後から聞いたら、シルクスクリーンなので、また手に入ったそうだ。
 
 「おお!」
 「以前にお話を聞いて、何とか手に入らないものかと探しておりました」
 「千両!」
 「手には入ったのですが、お渡しする機会が無くて」
 「バカ! もっと早く持って来い!」
 「本当にすみません」

 タカさんは大笑いし、千両さんの肩を叩いて中へ入れた。
 リヴィングへ通し、私がすぐにコーヒーを淹れた。
 川尻さんが改めてお礼を言っていた。

 「そちらの亜紀の姐さんに」
 「うちの娘はヤクザじゃねぇ! 亜紀さんって言え!」
 「は、すいません! 亜紀さんに危ない所を助けて頂いて」
 「おう!」
 「それに石神さんにまでご迷惑を」
 「俺は仕事だ。ヤクザでも犬でもやる」
 「はい」

 みんなが笑った。

 「ネコは無料な!」
 
 ロボが嬉しそうに鳴いた。
 千両さんが、川尻さんに新宿の中心部を任せているのだと言った。
 だからよく新宿で顔を会わすのかと納得した。

 「石神さんや亜紀さんたちがよくいらっしゃると聞いて、特にあの辺一帯は気合を入れてやってます」
 「そうだったか」

 川尻さんが言うと、タカさんが微笑んだ。

 「ヨシはまだ40代ですが、仕事は真面目にやってます。まあ、真面目過ぎて今回は逆恨みされたようですが」

 桜さんが言った。

 「ヤクザなんてそんなもんだ。くだらねぇ理由でタマの取り合いをしやがる。まったくなぁ」
 「はい、すみませんでした」
 「まあ、今回はよ。お前の名前が良かったからな。特別に俺が処置してやった」
 「名前?」
 「義男っていうんだろ?」
 「?」
 「この娘の親の名前がそうだった。俺の親友だった。だからな」

 私は嬉しくて泣きそうになった。
 もちろん、タカさんは誰だって助ける。
 でも、そういうことを結び付けてくれたことが嬉しくて堪らなかった。

 「そうなんですか。亜紀さん、これからも宜しくお願いします」
 「はい、ヨシさん!」

 是非昼食をと言ったのだが、千両さんたちは固辞した。

 「ヤクザなんかがこの家に出入りしては」
 「散々出入りしやがっただろう!」

 タカさんは許さず、鰻をとって食べさせた。

 「千両、いい冥途の土産になったか!」
 「それはもう」

 タカさんがお前は暗い奴だと言い、みんなが笑った。
 
 「ヨシ! お前、ちょっといいスーツを着てやがるな」
 「は、すみません! 石神さんがいつもいいスーツを着てらっしゃるので、つい自分も」
 「なんだ?」
 「ブリオーニやダンヒルだと知って、すいません、真似をしてしまい」
 「何で知ってやがる!」
 「メンズ館で調べました」
 「この野郎!」

 タカさんは衣裳部屋へ行き、何本かのネクタイを持って来た。

 「俺の使い古しで悪いけどな。良かったら持ってけよ」
 「い、いいえ! そんな!」
 「遠慮するな。どうせお前なんか金がねぇんだろう。俺の真似をするんじゃ大変だ」
 「は、はい」
 「背恰好も似てるな」
 「はぁ」

 ヨシさんも背が高い。
 タカさんほどではないが、180センチ近い長身だ。
 体格もいい。
 タカさんはまた衣裳部屋から、今度はスーツを持って来た。
 
 「これも持ってけ」
 「石神さん!」
 「でもなぁ、千両よりも高い恰好してるのって、どうなのよ?」
 「!」

 千両さんが笑って構いませんと言った。

 「新宿は石神さんが出入りする街ですから。そこを仕切る者が恥ずかしい恰好では」
 「そうか、良かったな、ヨシ!」
 「は、はい。申し訳ありません!」

 タカさんが「あ、コートもな」と言うと、慌ててヨシさんがもう帰ると言った。
 タカさんは頭を引っぱたいてお茶を飲んでいる間に、何着かのコートを持って来て渡した。
 みんなで大笑いした。




 両手に大量の服を抱えて、ヨシさんは帰った。
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