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挿話: その導入的小さな物語

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 私は「蚊」だ。
 名前はもちろんない。

 数週間の命のはずが、どうしたことかもう半年以上生きている。
 そういうことを分かっていること自体が、もう「蚊」としてはおかしい自覚はある。
 どうして自分がそうなったのか。
 それもよく分かっている。

 



 あれは半年前。
 それ以前の記憶は実はない。
 あの決定的な瞬間からだ。

 私は大きなネコの首に取りついた。
 ネコから血を吸った、のだと思う。
 そこから、唐突に私に「自我」が芽生えた。
 自分がネコの血を吸っていることが、私の最初の記憶となった。

 十分な量を吸った。
 ネコはスヤスヤと寝ていた。
 私が離れたすぐ後に、ネコが目を覚ました。

 「ニャー!(対訳:かゆいよー!)」

 ネコは突然床を蹴り、物凄い回転をしながら、人間の女に後ろ足をねじ込んだ。

 「柳さん!」

 別な人間が叫んだ。
 柳と呼ばれた女は、手に持ったカップを顔にぶちまけながら、後ろへ吹っ飛んで行った。

 「どうした」

 大きな男が言った。
 ネコは床に降り立つと、猛烈に後ろ足で首を掻き始めた。

 「なんだ?」

 大きな男がネコの首の毛をまさぐった。

 「ああ、蚊に刺されたのか。亜紀ちゃん! 「Ω軟膏」!」
 「はーい!」

 何かを塗った。

 「にゃうー、ゴロゴロ」

 ネコが大人しくなった。
 私はその光景を見ながら、自分ではっきりとその状況を理解していた。
 



 私は大きな男に興味を持った。
 私は「知性」を得たが、それが特別な奇跡であることは理解していた。
 あのネコの血が自分を変えたことも分かっている。
 その「知性」が、男の血を求めていた。
 理由は分からない。
 ただ、男の血が何かを自分にもたらすことを知っていた。
 ネコの血と同じもので、しかもそれ以上の奇跡を起こす。
 私は男が眠るのを待った。

 ネコの血は、その間も私をどんどん変えて行った。
 知性と共に、身体も大きく変革していった。
 産卵に使われるはずの血は、新しい私を生み出すことに費やされた。




 男が眠った。
 私は男の首に舞い降り、そっと血を吸った。
 その時、私の身体が爆発したかのような衝撃を感じた。

 ネコが私を見ていた。
 すばやく私に手を伸ばした。
 私はそれ以上のスピードで逃げた。
 もう、私を捕まえる者はいない、そう理解していた。

 ネコの手が男の首を叩き、男が目を覚ました。

 「おい、なんだよ。あ! かゆい!」

 男はデスクに行き、引き出しからネコに塗ったものを取り出した。
 自分の首に塗る。

 「蚊が入ったかよ。まったくなぁ」

 そう言って男はまた眠った。
 私たちが二度は吸わないことを知っているのだろう。

 私は部屋のドアが開かれるまで、潜んだ。
 男の「美しい」寝顔を眺めていた。




 翌朝。
 男が目覚めてドアを開けた瞬間、私は飛び出した。

 「おい! 今なんか飛んでったか?」
 
 男がネコに聞いていた。
 ネコは何も言わない。

 私は男の血が途轍もないものを自分にもたらしたことを自覚していた。
 それは、生命としての大変革だ。
 「蚊」であった私は、その超越者となった。

 私は昨日ネコの血を吸った部屋へ行った。
 男がまもなく降りて来た。

 「おい、家の中に蚊がいるぞ。夕べ刺された。見つけたらぶっ殺せ!」
 「「「「「はい!」」」」」
 「ニャ!」

 私の身体は倍の大きさになっていた。
 もっと大きくなりそうだった。
 私はまた血を吸おうと思った。

 よく似た二人の小さな女の片方に近づいた。

 ぶーん。

 女が振り向いた。

 ばちん。

 女が私の身体を両側から叩いた。

 《金剛花》
 《螺旋花》

 「あ、イタイ!」

 女が叫んだ。
 私の中足の「螺旋花」が女の掌に小さな穴を穿った。

 「ハー!」

 小さな女の片割れが、私が傷つけた女の手を見る。

 「穴が空いてるじゃん!」
 「蚊を潰そうとしたの」
 「え?」
 「そうしたら、こんな」

 傷は小さなものだった。
 私は「金剛花」で自分を鋼のように固くし、同時に「螺旋花」で女に穴を空けた。

 「ちょっと血が出てるね」
 「うん。でも大丈夫だよ」

 



 私はその後、この家の庭に出た。
 そこでしばらく過ごした。
 私は自分が数週間で死ぬ生物であることを理解していた。
 しかし、いつまでも私に死は訪れなかった。
 
 私は庭にいるどの生物よりも強くなったことを知った。
 スズメなどは瞬殺できる。
 このあいだ、カラスの首を「龍刀」で切り落としてやった。
 動物の名前も、私の中に自然に浮かんでくる。
 戦うことが楽しくて仕方がない。

 私は庭から外へ出るようにもなった。
 段々と速く飛べるようになり、疾走する自動車を追い越せるまでになっていた。
 自分が羽で飛んでいないことに気付いてからだ。
 地球の自転のエネルギーを利用して、量子を操って移動している。
 そういう知識が自然に浮かんで来た。

 そればかりではない。
 自分の中に、様々な知識が浮かんでくる。

 近所の家に忍び込んだ。

 「亜紀さん、いらしゃい! 今紅茶淹れますね!」
 「真夜の紅茶ってイマイチなんだよなー」
 「そんなこと言わずに! ちょっと待ってて下さい!」

 女が、紅茶を淹れようとしていた。
 お湯の温度が少々低い。
 私は「電子レンジ」で3度ほど上昇させた。

 「あ! 真夜、今日のは美味しいよ!」
 「ほんとですかー!」

 良かった。





 私は無敵になった。
 喧嘩相手を探した。
 カラスたちも、今や私の姿を見ると逃げ出すようになった。
 面白いので、時々「虚震花」で分解してやった。

 「ガハハハハハ!」

 こんな私にしてくれたあのネコに礼を言いたくなった。
 毎日が楽しい。
 もう、鳥たちに喰われることもない。
 怯えて逃げ回る生き方から解放された。

 久しぶりに、あの家へ行った。
 丁度、ネコが外に出ていた。
 私は近づいて言った。

 「あなたとあの男の人のお陰で、私は自由になりました。ありがとうございます」

 ネコが右手を挙げた。
 私の言葉が通じたのだ。
 嬉しかった。




 ブス。





 「タカさーん!」
 「なんだよ?」
 「またロボがヘンなの捕まえて来ましたよ!」
 「今日はなんだ」
 「それが虫みたいなんですけど」
 「それならいいじゃねぇか」

 「でも、蚊みたいなんですけど、50センチもあって」
 「あー、じゃあアッチ系かぁ」
 「そうですねー」
 「佐藤家」
 「はーい!」




 私は薄れて行く意識の中でどこかへ運ばれ、私は完全に消えた。 
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