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『マリーゴールドの女』 Ⅱ

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 「あたし、今日も怒られちゃった」

 十数年前。
 新宿の居酒屋。
 俺は緑子と待ち合わせて飲んでいた。
 まだお互い28歳だった。

 「先輩の女優さんとの会話シーンでさ。「お前は〇〇より目立とうとするな!」って。いつも言われちゃう」
 「お前の性格ならなぁ」
 「なによ!」
 「だって、目立ちたいんだろ?」
 「そうなんだけど、でもね」

 「お前が一人で喋るとかのシーンはいいんだけどな」
 「そう思う?」
 「お前って喧嘩っ早いよなぁ。ちょっと落ち着けよ」
 「あんたにだけは言われたくないわよ!」

 俺は緑子の愚痴を聞き、宥めながら、俺もちょっと考えてみると言って別れた。



 二週間後。
 俺は緑子を呼び出した。

 「ほら、これ」
 分厚い封筒を緑子にやった。

 「なに?」
 「こないだ考えるって言っただろ? だからちょっとお前に合った芝居を書いてみたんだ」
 「え?」
 「俺も演劇の脚本なんて初めてだからさ。まあ、笑いながら読んでみてくれよ。何かお前の悩みのヒントにもなるかもじゃん?」

 緑子は俺を見てから、封筒の留丸の紐を解いた。
 俺はビールを飲みながら、緑子を見ていた。

 「『マリーゴールドの女』か」
 「おう」

 緑子は読み始めた。
 最初にあらすじを書いている。

 「いい話っぽいね」
 「そうかなぁ」

 緑子は、最初から読んでいく。
 流石に女優だ。
 読むのが早い。
 数枚をめくり終えると、テーブルの酒やつまみを横に避けて真剣に読み始めた。
 次々に紙をめくっていく。

 「おい、帰ってからゆっくり読めよ」

 そう言う俺に返事もせずに、片手を突き出して黙ってろと示した。

 「お前のビール、温くなっちゃうぞ」

 緑子が自分のジョッキを俺の前に、ドン、と置いた。
 俺は笑って、緑子のビールを飲んだ。

 「トラちゃんが恥ずかしがってるぞー」

 自分の書いたものを目の前で読まれて、本当に恥ずかしかった。
 そのうちに、途中で緑子が泣き出したので驚いた。

 「おい、なんだよ!」

 三十分ほどで、緑子は俺の書いた脚本を読み終えた。

 「石神……」
 「おう」

 「ありがとう」
 「お、おう?」

 緑子は丁寧に脚本を揃え、そっと封筒へ仕舞った。

 「本当にありがとう」
 「え、いや……」
 「あたしのために、大変だったでしょ、こんなの」

 確かに、何日か徹夜したが。
 緑子が演じているのを想像するのが楽しかったのだ。

 「全然! 書き始めたら楽しくってさ! ああ、俺は素人だから、ト書きをどこまで書いたらいいのか分かんないじゃん。そこは笑ってゆるしてチャン!」

 俺はおどけて雰囲気を戻そうとしたが、緑子は真剣に俺を見つめたままだった。

 「どうやって書いたの?」
 「そりゃお前よ、神保町の古本屋で幾つか台本っていうのを買って来てさ」
 「そのお金は全部出す」
 「いいよ、本当に安かったんだから」

 まあ、数十冊買ったが、大した金額ではない。
 俺は新しい病院で、結構な給料をもらい始めていた。

 「俺なりに、大体分かったかなーって。それで一気に書いた」
 「そう」

 「おい、なんだよ。お前がバカにして「何よ、こんなの!」って言ってくんないと困るよ」
 「絶対に言えない! これはあんたが一生懸命にあたしのために書いてくれたものだって分かるもの!」

 緑子が叫んだ。
 周りの人間が俺たちを見る。

 「そんな大層なもんじゃねぇぞ」
 「ありがとう、石神! 一生感謝する!」
 「やめろよ。困るぞ、そんなの」

 俺は緑子のために、新しく中生を頼んだ。
 つまみも追加する。



 「これ、上の人に読ませてもいい?」
 「え! 迷惑だろう?」
 「お願い!」
 「まあ、いいけどよ。じゃあ、コピーして送るよ」
 「あたしがやるから!」
 「そう?」

 俺はどうにも困った。
 俺なんかが書いた下手くそなもので、緑子の評判を落としたくなかった。

 「じゃあ、脚本家志望の知り合いに、どうしてもって頼まれたことにしてくれよ」
 「うん、分った」
 「頼むぞ?」
 
 緑子は俺の手を両手で握った。

 「ごめん! 今日はもう帰るね」
 「おい、今ビールを頼んだとこだぞ!」
 「ごめん。家でまた読みたいの」
 「あー」
 「本当にごめん! また連絡するから!」
 「まあ、いいけどよ。ああ、本当に手直ししてくれよな。あまりにも恥ずかしいよ」
 「うん。多分しないけどね」
 「しろ!」




 驚いたことに、二日後に緑子から連絡が来た。
 劇団まで来て欲しいとのことだった。

 「おい、俺が怒られるのは筋違いだぞ?」
 「大丈夫よ。待ってるから」
 「平日だと遅い時間になるから、週末にでも……」
 「待ってる。何時でもいいよ」
 「あぁ? 七時頃になっちゃうぞ?」
 「じゃあ、今日の七時で。受付に言って、ああやっぱりあたしが迎えに出るから」
 「おい」
 「七時ね!」
 「分かったよ」

 講評でもしてくれるのだろうか。
 そんなものいらないのだが。





 五分前に着くと、緑子が待っていた。
 流石に大きな劇団だけあって、あちこちで灯が点いている。
 大きな場所は、稽古中なのだろうか。

 「石神! わざわざごめんね」
 「いいけどよ。何なんだ?」
 「それは中で」

 俺の手を緑子が引いていく。
 エレベーターに乗り、廊下を結構進んだ。

 緑子がドアをノックし、俺を中へ入れた。
 会議テーブルが四角く並べられていた。
 初老の男性が二人座っていた。

 名刺を交換し、挨拶する。

 「えぇ! お医者様なの!」
 「はい、すみません」

 俺は緑子と並んで座らされた。
 相手は劇団の運営の偉い人と、脚本家だった。

 「石神さんの脚本を読ませてもらいました」
 「すいませんでしたぁ!」

 俺は立ち上がって頭を下げた。
 こんな偉い人たちに、俺なんかの脚本を読ませてしまった。
 緑子が叱られるに違いない。

 笑い声が聞こえた。
 三人が笑っている。

 「いや、石神さん。これはスゴくいいよ! 感動した」
 「はい?」

 「本当に初めて書いたんですか?」
 脚本家が言う。

 「ええ、まあ」
 「素晴らしい! 是非うちに欲しいくらいだ」
 「いや、そんな」
 「もちろん、手直ししたい箇所はあるけど、本当にいい話だ。是非、うちで公演したいよ」
 「エェー!」

 驚いたなんてものじゃない。

 「今日はその話がしたくて、石神さんに来てもらったんだ」
 「そんな、ヘンですよ!」
 「具体的なことはまた後日ということで、今日は承諾してもらえるかということでね」
 「それはもちろん構いませんが」
 「本当か!」

 「でもなぁ」

 「ああ、ちゃんと脚本の代金はお支払いしますよ」

 俺がお金を気にしてると思っている。





 「いや、お金はいりませんよ。俺は脚本家でもなんでもない。ああ、じゃあ一つ条件があります」
 「なんですか!」
 「この話の主役は、緑子でお願いします。彼女のために書いたものなんで」

 三人が顔を見合わせて笑った。

 「その条件、引き受けましょう」
 「ほんとですか!」
 「僕らも読んでみて分かった。これは坪内緑子にピッタリの話だ。こちらもそのつもりで話をするつもりでした」
 「良かったぁー!」

 緑子が涙ぐんでいた。

 「石神さんの承諾をいただければ、是非緑子の主役でやるつもりです」
 「緑子! 良かったな!」

 緑子がハンカチで目を押さえて、「ありがとう」と言った。

 「じゃあ、俺はお金はいりませんので。ああ、直すのは是非お願いします。幾らでもやって下さい」
 「それでいいんですか?」

 「はい! でも、今後も『マリーゴールドの女』をやる時には、緑子を主役にしてもらえませんか?」
 「分かった。それを契約事項に含めよう」
 「緑子が、他の人間を推したらそれで構いません。自分でやると言う場合には、お願いします」
 「必ず。じゃあ、契約書を作ったら送りますね」
 「はい」




 俺は緑子と部屋を出た。
 玄関のロビーで、座るように言われた。

 「石神、ありがとう」
 「よせよ! でもなんか奇跡みたいだよな!」
 「あんたのお陰よ」

 「じゃあ、お前、頑張れよな」
 「もちろん! あんたの書いた本を、凄いものにするから!」
 「アハハハハ」

 俺たちは握手した。

 「あ、やる時はまたチケット買うから教えてくれな」
 「バカ! あんたの脚本なんだから、劇団からちゃんと送られるわよ!」
 「そういうもんなの?」

 緑子が大笑いした。

 「あんたねぇ、自分がやったこと、まだ分かってないでしょ!」
 「うん。なんか全然」

 「アハハハハハハハ!」





 三か月後。
 舞台の公演が決まり、俺はまた呼び出されて稽古を見学させてもらった。
 舞台装置や書割などのあれこれを確認されたが、全部お任せした。
 演出家は劇団の新進気鋭の若手だった。

 一度、ゲネプロを見せてもらい、俺は嬉しかった。
 本当に緑子が主役を堂々と演じていた。
 それだけで十分だった。





 初公演で、緑子は大きな評価を受けた。
 俺は舞台に上げられ、挨拶をした。
 恥ずかしかったので、もうやめてくれと頼んだ。

 緑子が明るい笑顔で「分かった」と言ってくれた。
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