623 / 2,859
橘弥生
しおりを挟む
水曜日。
一江が俺宛の手紙を持って来た。
毎日結構な数が来る。
俺は一江に通信の管理を任せていた。
不要なものは一江が処分してくれる。
一江には開封もさせ、中身を共有できるようにしている。
私信などもだ。
別に隠すような不埒な真似はしていない。
もしも俺が愛人でも囲えば、一江に筒抜けになる。
手紙と同様に、メールも管理させている。
まあ、そちらはアビゲイルなどの特別なメールは別なアドレスになっているが。
俺が無駄な時間を省きたいのと、俺に万一のことがあった場合に、一江に対応してもらうためだ。
一江は優秀なので、非常によくやってくれていた。
「部長、橘弥生からですよ!」
「ん?」
一江が興奮して俺に一通の手紙を渡した。
コンサートの誘いだった。
内輪の人間を集めての、小規模なものらしい。
だから気楽に来てくれと書いてあった。
「なんだこれ?」
「なんだって、部長に来たものじゃないですか! 一体今度は何をやらかしたんです?」
俺は一江の頭にチョップを入れた。
「ばかやろー! 昔からの知り合いだ」
「エェッーーーー!」
「でかい声を出すな! お前の醜い声は耳に障るんだ」
「ひっどいですよ!」
そう言えば、一江には門土とのことや、貢さんのことなど話したことがない。
まあ、亜紀ちゃんに話したのもたまたまだが。
俺は訳が分からず、連絡先の音楽事務所へ電話した。
「石神先生ですね。橘から申し付かっております。後程、橘からご連絡差し上げてもよろしいでしょうか?」
「はい。日中はオペの予定もありますので、本日でしたら4時以降でしたら有難いです」
「かしこまりました」
俺は病院の直通と、一応自分の携帯の番号を伝えた。
夕方に、橘弥生から電話が来た。
「久しぶりね」
「はい、御無沙汰してます」
「門土のお墓に、いつも綺麗な花を供えてくれてるのはあなたでしょう?」
「いえ、時々行きますが」
「ありがとう。先月の生け花のようなものは見事だったわ」
「そんな」
「それで、ギターはまだ弾いているの?」
「はい。趣味が無いものですから」
「そう。コンサートのお誘いは読んでくれたのね?」
「ええ。でも俺なんかが伺っても」
「ダメよ。あなたに来て欲しくて、JTビルでやるんだから」
「え!」
病院の傍のビルだ。
「絶対に来て」
「分かりました。土曜日ですので、大丈夫かと思います」
「良かった。ああ、お友達も誘って。チケットは何枚送ればいいかしら」
「いいんですか?」
「ええ。本当に何十枚でもいいわよ」
「それでは、15枚いいでしょうか」
「分かったわ。でも、あなたは特別席になるから」
「エェー!!」
「私のお願いを聞いてね」
「はい、分かりました。お誘いありがとうございます」
電話を切った。
何となくは分かっている。
今年は、門土の十三回忌だ。
コンサートの日は、一か月後。
丁度門土の命日の前日に当たる。
先日、亜紀ちゃんに門土の話をし、こうやって橘弥生に誘われるのも、何かの導きかもしれない。
コンサートには、俺、子どもたち四人、響子、六花、栞、鷹、それに部下の一江、大森、斎木、斎藤、それと院長夫妻。
計15人だ。
俺は橘弥生から礼服で来て欲しいと言われたので、ダンヒルで特注した白のタキシードを着た。
前に、宇留間の件で祝賀会を開いた時に作った。
結構目立った。
会場に入り、チケットをもぎりに渡す。
「あ! 石神様は特別席になっています」
聞いているので、驚かない。
俺はみんなとは離れ、前から5列目のソファ席に案内された。
ピアノは凶暴な楽器だ。
大きなコンサートホールは別だが、今回の会場は多少の音響設計があるだけの、むしろ多目的ホールに近い。
ステージは高い場所にあるが、恐らく最前列は辛い。
プロのピアニストが演奏すると、身体が押されるほどの衝撃がある。
人間を緩衝材にした、この5列目辺りが最もよく聞こえるのだ。
特に今回のグランドピアノはFAZIOLI(ファツィオリ)の「F308」だ。
最前列の人間は、しばらく耳鳴りが取れないだろう。
五人掛けの一際豪華なソファの両側に、普通の一人掛けのソファが並んでいる。VIP席なのだろう。
俺は中央の、豪華な五人掛けに案内された。
この席だけ、前にテーブルがある。
「あら、御一緒の方なのね」
80代と思える品の良い婦人が、付き添いの50代の女性と一緒に既に座っていた。
「石神と申します。今日はお邪魔いたします」
「徳川です。今日は宜しくね」
俺たちは簡単に挨拶し、演奏まで待った。
「先生、あまりチョコレートを召し上がっては」
「いいじゃないの。美味しいんだから」
「お身体に障ります」
「何を言ってるの。もう長くないんだから、好きなようにさせてね」
俺は遣り取りを聞いて、温かな二人の関係を感じた。
「石神さんはお医者様よね。どう思います?」
俺のことを知っているようだった。
「まあ、お好きなようにと思いますけどね。でも、止めるのも愛情ですから、そこも多少は汲まれた方がと」
「あら! じゃあここまでにしましょう。お優しい方ね」
「いいえ」
「はい、これ。どうぞ」
「先生!」
俺はチョコレートを一つもらった。
礼を言って口に入れた。
俺はプログラムを再確認する。
ベートーヴェンのピアノソナタ14番「月光」そして17番「テンペスト」と26番「告別」。
ショパンのピアノソナタ第2番「葬送」。
生涯でただ一曲しか作らなかったリストのピアノソナタ。
そして最後に、「即興曲」とだけあった。
橘弥生が即興でやるのだろうか。
橘弥生が登場した。
純白の美しいドレスだった。
散りばめられたパールが、ライトで煌めいている。
会場に一礼し、ファツィオリに座った。
周囲の空気が変わった。
演奏が始まると、誰もが圧倒された。
世界的にその強さと情熱が称えられている、橘弥生の真骨頂の演奏だった。
高難度の技法でも、最初から全力で挑み、突破する。
同時に繊細な流れも美しく、会場の魂を吸い上げていく。
間に休憩も取らず、橘弥生は次々と曲を演奏して行った。
鬼気迫るものさえあった。
即興曲の手前で、橘弥生が立ち上がり、会場に一礼した。
激しく汗をかいている。
会場は最大級の拍手と喝采を送った。
全員が立ち上がって褒め称えた。
俺の隣の徳川女史だけは座ったまま泣いていた。
「今日の演奏は最高だったわ、弥生ちゃん」
そう呟くのが聞こえた。
「トラ!」
橘弥生が叫んだ。
「トラ、こちらへ来なさい。即興曲をやります」
会場は、「トラ」が誰かを知らない。
ざわめいた。
「トラ! 早くなさい!」
俺は訳も分からずにステージに上がった。
係の人間がギターを持って来た。
「すぐに調弦なさい」
椅子に座らされ、俺は言われるままに調弦をする。
「皆様、彼は西平貢の弟子のトラです。私の息子と仲がよく、楽しそうによく一緒に演奏をしておりました。今日は息子のために、彼と一緒に「セッション」をいたします」
会場から大きな拍手が沸いた。
「トラ」
「はい、ブルーノートですね?」
橘弥生が頷いた。
幽かに微笑んでいた。
俺から始める。
門土を思った。
その出会いから楽しい日々。
俺はギターを鳴らしながら泣いた。
橘弥生が時折俺の音に合わせてピアノを弾く。
彼女も門土を思っていた。
俺は橘弥生に門土への思いを打ち明けさせた。
ブルーノートの悲しい音階が、俺たちの心を映し出した。
俺も合間にギターを鳴らし、次第に橘弥生と一緒に思いを打ち上げる。
二人で門土への思いを謳い上げた。
橘弥生が退いていき、俺は最後にソロでギターを絶叫させる。
演奏が終わると、会場がまたスタンディングオベーションで喝采してくれた。
俺は一礼し、ステージを降りた。
席に戻ると、徳川女史が立ち上がって迎えてくれた。
俺を抱き締めてくれる。
「ありがとう。素晴らしい演奏だったわ」
「いえ、お恥ずかしい」
コンサートが終わり、俺たちは残るように言われていた。
他にも20人程が残った。
椅子が片付けられ、簡単な立食パーティーになる。
俺の座っていたソファセットだけはそのままで、俺は徳川女史に引き留められ、一緒に座っていた。
子どもたちやみんなが俺の周りに来る。
口々に、凄かったと言ってくれた。
院長も静子さんも褒めてくれる。
橘弥生が現われた。
俺と徳川女史に近づいて来る。
「徳川先生、今日はわざわざこのような会場に足を御運び頂いて」
「弥生ちゃん、いい演奏だったわ」
「ありがとうございます」
「トラ、何を持ってるの」
俺は徳川女史からまたチョコレートを頂いて、その包を剥いていた。
「はい、徳川さんにチョコレートを頂いたので」
「あなたなんかに、そのチョコレートを食べる資格はないわ!」
橘弥生が怖い顔で叫んだ。
驚いた。
隣を見ると、徳川女史がニコニコしている。
「あのね。徳川先生は特別に気に入った人間にしか、チョコレートを渡さないのよ」
「え、でも隣だったからじゃ」
「アメリカの大統領だって、隣に座ってももらってなかったわ!」
「えぇ!」
「弥生ちゃん、私は一目でこの方が気に入ったのよ」
「まったく、あなたはいつもいつも私の大事な人間を」
橘弥生が嘆いていた。
「アハハハハ」
「昔から、そのバカは直ってないようね」
「はい!」
徳川女史が明るく笑っている。
「徳川先生は、私にピアノをレッスンして下さった方なの。私が今こうしているのは、全部徳川先生のお陰よ」
「そうなんですか」
「あなた、いつも音楽が鳴っているわよね?」
「!」
「先生、それは!」
「弥生ちゃん。私も何人かしか知らないわ。サイヘーちゃんが気に入るわけね」
「は、はい!」
「トラ、今からでもデビューなさい」
「いや、俺は医者ですよ」
「いいから、言う通りになさい」
「無茶苦茶だ」
「お願いよ」
橘弥生が俺に頭を下げた。
震える声だった。
「ダメですよ」
「弥生ちゃん。この方は音楽に自分を捧げる人じゃないわ。音楽で何かをやる方なのよ」
「徳川先生!」
「あなたも子育てと一緒に音楽は出来なかったでしょ?」
「……」
「だからこの方に押し付けたんじゃない」
「……」
橘弥生は一礼して立ち去った。
泣いていた。
「門土くんね」
「はい」
「あなたのことを、そりゃ嬉しそうに話していたわ」
「そうですか!」
「ありがとうね」
「いいえ。門土は俺の大事な友達ですから」
「今も門土くんがあなたの中で鳴っているのね」
「はい!」
俺は徳川女史と握手をした。
温かく、優しい手だった。
一江が俺宛の手紙を持って来た。
毎日結構な数が来る。
俺は一江に通信の管理を任せていた。
不要なものは一江が処分してくれる。
一江には開封もさせ、中身を共有できるようにしている。
私信などもだ。
別に隠すような不埒な真似はしていない。
もしも俺が愛人でも囲えば、一江に筒抜けになる。
手紙と同様に、メールも管理させている。
まあ、そちらはアビゲイルなどの特別なメールは別なアドレスになっているが。
俺が無駄な時間を省きたいのと、俺に万一のことがあった場合に、一江に対応してもらうためだ。
一江は優秀なので、非常によくやってくれていた。
「部長、橘弥生からですよ!」
「ん?」
一江が興奮して俺に一通の手紙を渡した。
コンサートの誘いだった。
内輪の人間を集めての、小規模なものらしい。
だから気楽に来てくれと書いてあった。
「なんだこれ?」
「なんだって、部長に来たものじゃないですか! 一体今度は何をやらかしたんです?」
俺は一江の頭にチョップを入れた。
「ばかやろー! 昔からの知り合いだ」
「エェッーーーー!」
「でかい声を出すな! お前の醜い声は耳に障るんだ」
「ひっどいですよ!」
そう言えば、一江には門土とのことや、貢さんのことなど話したことがない。
まあ、亜紀ちゃんに話したのもたまたまだが。
俺は訳が分からず、連絡先の音楽事務所へ電話した。
「石神先生ですね。橘から申し付かっております。後程、橘からご連絡差し上げてもよろしいでしょうか?」
「はい。日中はオペの予定もありますので、本日でしたら4時以降でしたら有難いです」
「かしこまりました」
俺は病院の直通と、一応自分の携帯の番号を伝えた。
夕方に、橘弥生から電話が来た。
「久しぶりね」
「はい、御無沙汰してます」
「門土のお墓に、いつも綺麗な花を供えてくれてるのはあなたでしょう?」
「いえ、時々行きますが」
「ありがとう。先月の生け花のようなものは見事だったわ」
「そんな」
「それで、ギターはまだ弾いているの?」
「はい。趣味が無いものですから」
「そう。コンサートのお誘いは読んでくれたのね?」
「ええ。でも俺なんかが伺っても」
「ダメよ。あなたに来て欲しくて、JTビルでやるんだから」
「え!」
病院の傍のビルだ。
「絶対に来て」
「分かりました。土曜日ですので、大丈夫かと思います」
「良かった。ああ、お友達も誘って。チケットは何枚送ればいいかしら」
「いいんですか?」
「ええ。本当に何十枚でもいいわよ」
「それでは、15枚いいでしょうか」
「分かったわ。でも、あなたは特別席になるから」
「エェー!!」
「私のお願いを聞いてね」
「はい、分かりました。お誘いありがとうございます」
電話を切った。
何となくは分かっている。
今年は、門土の十三回忌だ。
コンサートの日は、一か月後。
丁度門土の命日の前日に当たる。
先日、亜紀ちゃんに門土の話をし、こうやって橘弥生に誘われるのも、何かの導きかもしれない。
コンサートには、俺、子どもたち四人、響子、六花、栞、鷹、それに部下の一江、大森、斎木、斎藤、それと院長夫妻。
計15人だ。
俺は橘弥生から礼服で来て欲しいと言われたので、ダンヒルで特注した白のタキシードを着た。
前に、宇留間の件で祝賀会を開いた時に作った。
結構目立った。
会場に入り、チケットをもぎりに渡す。
「あ! 石神様は特別席になっています」
聞いているので、驚かない。
俺はみんなとは離れ、前から5列目のソファ席に案内された。
ピアノは凶暴な楽器だ。
大きなコンサートホールは別だが、今回の会場は多少の音響設計があるだけの、むしろ多目的ホールに近い。
ステージは高い場所にあるが、恐らく最前列は辛い。
プロのピアニストが演奏すると、身体が押されるほどの衝撃がある。
人間を緩衝材にした、この5列目辺りが最もよく聞こえるのだ。
特に今回のグランドピアノはFAZIOLI(ファツィオリ)の「F308」だ。
最前列の人間は、しばらく耳鳴りが取れないだろう。
五人掛けの一際豪華なソファの両側に、普通の一人掛けのソファが並んでいる。VIP席なのだろう。
俺は中央の、豪華な五人掛けに案内された。
この席だけ、前にテーブルがある。
「あら、御一緒の方なのね」
80代と思える品の良い婦人が、付き添いの50代の女性と一緒に既に座っていた。
「石神と申します。今日はお邪魔いたします」
「徳川です。今日は宜しくね」
俺たちは簡単に挨拶し、演奏まで待った。
「先生、あまりチョコレートを召し上がっては」
「いいじゃないの。美味しいんだから」
「お身体に障ります」
「何を言ってるの。もう長くないんだから、好きなようにさせてね」
俺は遣り取りを聞いて、温かな二人の関係を感じた。
「石神さんはお医者様よね。どう思います?」
俺のことを知っているようだった。
「まあ、お好きなようにと思いますけどね。でも、止めるのも愛情ですから、そこも多少は汲まれた方がと」
「あら! じゃあここまでにしましょう。お優しい方ね」
「いいえ」
「はい、これ。どうぞ」
「先生!」
俺はチョコレートを一つもらった。
礼を言って口に入れた。
俺はプログラムを再確認する。
ベートーヴェンのピアノソナタ14番「月光」そして17番「テンペスト」と26番「告別」。
ショパンのピアノソナタ第2番「葬送」。
生涯でただ一曲しか作らなかったリストのピアノソナタ。
そして最後に、「即興曲」とだけあった。
橘弥生が即興でやるのだろうか。
橘弥生が登場した。
純白の美しいドレスだった。
散りばめられたパールが、ライトで煌めいている。
会場に一礼し、ファツィオリに座った。
周囲の空気が変わった。
演奏が始まると、誰もが圧倒された。
世界的にその強さと情熱が称えられている、橘弥生の真骨頂の演奏だった。
高難度の技法でも、最初から全力で挑み、突破する。
同時に繊細な流れも美しく、会場の魂を吸い上げていく。
間に休憩も取らず、橘弥生は次々と曲を演奏して行った。
鬼気迫るものさえあった。
即興曲の手前で、橘弥生が立ち上がり、会場に一礼した。
激しく汗をかいている。
会場は最大級の拍手と喝采を送った。
全員が立ち上がって褒め称えた。
俺の隣の徳川女史だけは座ったまま泣いていた。
「今日の演奏は最高だったわ、弥生ちゃん」
そう呟くのが聞こえた。
「トラ!」
橘弥生が叫んだ。
「トラ、こちらへ来なさい。即興曲をやります」
会場は、「トラ」が誰かを知らない。
ざわめいた。
「トラ! 早くなさい!」
俺は訳も分からずにステージに上がった。
係の人間がギターを持って来た。
「すぐに調弦なさい」
椅子に座らされ、俺は言われるままに調弦をする。
「皆様、彼は西平貢の弟子のトラです。私の息子と仲がよく、楽しそうによく一緒に演奏をしておりました。今日は息子のために、彼と一緒に「セッション」をいたします」
会場から大きな拍手が沸いた。
「トラ」
「はい、ブルーノートですね?」
橘弥生が頷いた。
幽かに微笑んでいた。
俺から始める。
門土を思った。
その出会いから楽しい日々。
俺はギターを鳴らしながら泣いた。
橘弥生が時折俺の音に合わせてピアノを弾く。
彼女も門土を思っていた。
俺は橘弥生に門土への思いを打ち明けさせた。
ブルーノートの悲しい音階が、俺たちの心を映し出した。
俺も合間にギターを鳴らし、次第に橘弥生と一緒に思いを打ち上げる。
二人で門土への思いを謳い上げた。
橘弥生が退いていき、俺は最後にソロでギターを絶叫させる。
演奏が終わると、会場がまたスタンディングオベーションで喝采してくれた。
俺は一礼し、ステージを降りた。
席に戻ると、徳川女史が立ち上がって迎えてくれた。
俺を抱き締めてくれる。
「ありがとう。素晴らしい演奏だったわ」
「いえ、お恥ずかしい」
コンサートが終わり、俺たちは残るように言われていた。
他にも20人程が残った。
椅子が片付けられ、簡単な立食パーティーになる。
俺の座っていたソファセットだけはそのままで、俺は徳川女史に引き留められ、一緒に座っていた。
子どもたちやみんなが俺の周りに来る。
口々に、凄かったと言ってくれた。
院長も静子さんも褒めてくれる。
橘弥生が現われた。
俺と徳川女史に近づいて来る。
「徳川先生、今日はわざわざこのような会場に足を御運び頂いて」
「弥生ちゃん、いい演奏だったわ」
「ありがとうございます」
「トラ、何を持ってるの」
俺は徳川女史からまたチョコレートを頂いて、その包を剥いていた。
「はい、徳川さんにチョコレートを頂いたので」
「あなたなんかに、そのチョコレートを食べる資格はないわ!」
橘弥生が怖い顔で叫んだ。
驚いた。
隣を見ると、徳川女史がニコニコしている。
「あのね。徳川先生は特別に気に入った人間にしか、チョコレートを渡さないのよ」
「え、でも隣だったからじゃ」
「アメリカの大統領だって、隣に座ってももらってなかったわ!」
「えぇ!」
「弥生ちゃん、私は一目でこの方が気に入ったのよ」
「まったく、あなたはいつもいつも私の大事な人間を」
橘弥生が嘆いていた。
「アハハハハ」
「昔から、そのバカは直ってないようね」
「はい!」
徳川女史が明るく笑っている。
「徳川先生は、私にピアノをレッスンして下さった方なの。私が今こうしているのは、全部徳川先生のお陰よ」
「そうなんですか」
「あなた、いつも音楽が鳴っているわよね?」
「!」
「先生、それは!」
「弥生ちゃん。私も何人かしか知らないわ。サイヘーちゃんが気に入るわけね」
「は、はい!」
「トラ、今からでもデビューなさい」
「いや、俺は医者ですよ」
「いいから、言う通りになさい」
「無茶苦茶だ」
「お願いよ」
橘弥生が俺に頭を下げた。
震える声だった。
「ダメですよ」
「弥生ちゃん。この方は音楽に自分を捧げる人じゃないわ。音楽で何かをやる方なのよ」
「徳川先生!」
「あなたも子育てと一緒に音楽は出来なかったでしょ?」
「……」
「だからこの方に押し付けたんじゃない」
「……」
橘弥生は一礼して立ち去った。
泣いていた。
「門土くんね」
「はい」
「あなたのことを、そりゃ嬉しそうに話していたわ」
「そうですか!」
「ありがとうね」
「いいえ。門土は俺の大事な友達ですから」
「今も門土くんがあなたの中で鳴っているのね」
「はい!」
俺は徳川女史と握手をした。
温かく、優しい手だった。
0
お気に入りに追加
229
あなたにおすすめの小説
こども病院の日常
moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。
18歳以下の子供が通う病院、
診療科はたくさんあります。
内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc…
ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。
恋愛要素などは一切ありません。
密着病院24時!的な感じです。
人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。
※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。
歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。
甘灯の思いつき短編集
甘灯
キャラ文芸
作者の思いつきで書き上げている短編集です。 (現在16作品を掲載しております)
※本編は現実世界が舞台になっていることがありますが、あくまで架空のお話です。フィクションとして楽しんでくださると幸いです。
幼い公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~
朱色の谷
ファンタジー
公爵家の末娘として生まれた6歳のティアナ
お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。
お父様やお兄様は私に関心がないみたい。愛されたいと願い、愛想よく振る舞っていたが一向に興味を示してくれない…
そんな中、夢の中の本を読むと、、、
双葉病院小児病棟
moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。
病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。
この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。
すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。
メンタル面のケアも大事になってくる。
当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。
親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。
【集中して治療をして早く治す】
それがこの病院のモットーです。
※この物語はフィクションです。
実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
【完結】胃袋を掴んだら溺愛されました
成実
恋愛
前世の記憶を思い出し、お菓子が食べたいと自分のために作っていた伯爵令嬢。
天候の関係で国に、収める税を領地民のために肩代わりした伯爵家、そうしたら、弟の学費がなくなりました。
学費を稼ぐためにお菓子の販売始めた私に、私が作ったお菓子が大好き過ぎてお菓子に恋した公爵令息が、作ったのが私とバレては溺愛されました。
【書籍化進行中、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化進行中です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる