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挿話: 鷹、その日までは。

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 あの人を初めて見たのは、私がオペ看に配属される前だった。
 まだ見習いの頃、多くの看護師が噂しているのを聞いた。

 すぐに石神先生は分かった。
 185センチの長身。
 甘く優し気だけど、強面の雰囲気もある顔。
 その瞳が子どものように綺麗だった。
 髪は軽くオールバックにしていて、若干横に流れる髪の毛もある。
 高級スーツ。
 ブリオーニやダンヒルのスミズーラで、どれも一着百万円を超えるとファンの看護師から聞いた。

 目立つ人だった。

 でも、何よりも私が気になったのは、その優しさだった。



 あれは、私が初めて担当した入院患者のことだった。
 石神先生が執刀した胃ガンの患者さんで、経過は良好だった。
 40代の女性。

 「経過はいいですよ。頑張った甲斐がありますね」
 「ありがとうございます」
 そう言われても、患者さんは暗かった。
 普通はそこまでだ。
 私たちは病気や怪我を治療するだけ。

 「どうしました?」
 石神先生が尋ねた。
 身体のことを聞いたのではない。

 「先生、息子が」
 患者は、子どもが学校へ行きたがらないという悩みを打ち明けた。
 当たり障りのないことを言うのだろうと私は思った。

 「そうですか。じゃあ俺がちょっと話をしましょう。任せて下さい」
 私は驚いた。
 その後、患者が石神先生に泣いて感謝しているのを見た。
 何をしたんだろう。
 でも、それよりも、仕事とまったく関係ないことまで引き受けたことに驚いた。




 先輩看護師と打ち解けるようになり、石神先生の様々な話を聞いた。
 見た目やお金をたくさん持っているという話は多かった。
 しかし、それよりも、みんなが石神先生の優しさに憧れていることが分かって来た。

 私はオペ看になろうと思った。
 その希望を聞くと、先輩看護師の何人かに止められた。

 「あの場所はねぇ。確かにお給料はいいんだけど、相当厳しいの。身体を壊して何人も辞めてるのよ?」
 構わなかった。
 私は幼い頃から料亭の娘として鍛えられた。
 一日中立って重いものを持たされてきた。
 あの人の傍で壊れるなら、それでもいい。
 いつの間にか、石神先生を心の底からお慕いしていた。

 初めてオペ看として、オペ室を作るよう言われた。
 石神先生の執刀だ。
 事前に熱心に調べて準備した。
 その途中で、石神先生がいらした。
 執刀医が準備中に来ることは無い。
 何か失態があったのだろうか。

 「あの、私」
 「峰岸君だね。今日はよろしくお願いします」
 「はい!」
 「初めて「作る」んだよね。俺が手伝おう」
 「いえ、石神先生! 私ちゃんとやりますから、休んでいらしてください」
 「いいよ、ヒマだしね。久しぶりにやりたかったし」
 ウソに決まっている。
 優秀な石神先生は多くのオペを担っている。
 それに後輩の先生方へもいろいろ教えているのを聞いていた。

 私が止めるのも構わず、石神先生はチェックを始めた。

 「ペアンとマチュウはもっとあった方がいいかな。それとこれはもうちょっと……」
 多くのご指摘を受けた。
 決定的なミスも幾つかあった。

 「すいませんでした。石神先生がいらしてなければ」
 「なんだよ、気にするなよ! 俺は君が頑張って用意しようとしてたのを知ってるからな。俺はそういう人間を有難いと思っているんだ」
 泣きそうになった。
 石神先生は一通りを指示し、出て行った。
 私は先輩看護師を呼び、チェックをお願いした。

 「まぁ! 完璧じゃないの! 驚いたわぁ」
 絶賛された。
 正直に石神先生が指摘してくれたと話した。
 あり得ないミスもあったことも伝えた。

 「え? あら私は何も聞こえないわ」
 先輩看護師から肩を叩かれた。

 「この病院には、頑張ってる人間を助けたがる方がいるの。忘れないでね!」
 その日、私は第四ナースとして控えた。
 一番下だ。
 石神先生は流れるような動作でオペをされた。
 ベテランの先輩は、指示される前に必要な器具や道具を渡していく。

 「おい、峰岸!」
 「はい!」
 「お前、年は幾つだっけ?」
 「は、はい、25歳です!」
 「ああ、そうか分かった」
 何だろうと思った。

 「おい、峰岸!」
 「はい!」
 「お前、キレイだな!」
 「え、はい。ありがとうございます」
 オペ中なのに、ドキドキした。

 「おい、峰岸!」
 「はい!」
 「得意な料理は?」
 「和食でしたら、一通り。実家が料亭なもので!」
 「そうか」
 「あの、是非一度ご馳走させてください!」
 「オペ中に関係ない話をするなぁ!」
 みんなが笑った。
 石神先生は、そうやって度々私に声を掛けた。
 後から思うと、緊張する私を気にかけて下さっていたんだろう。

 「おい、峰岸!」
 「はい!」
 「オチンチンが痒い! お前ちょっと掻いてくれ」
 「わ、分かりました!」
 私が動こうとすると、先輩の看護師が止めた。

 「峰岸さん、先生の御冗談だからね」
 みんなが笑った。
 私も笑った。

 オペが終わり、第一ナースを担った先輩から声を掛けられた。
 「御苦労様。石神先生があんなに呼び掛けたのはあなただけよ」

 本当に嬉しかった。
 もっと勉強し、もっと役に立つ人間になろうと思った。







 石神先生が私を受け入れて下さった。

 「俺の身体は気持ち悪いだろう、ごめんな」
 初めての時に、そう言われた。
 全然そんなことは無かったが、あまりの傷の多さに悲しくなった。
 この人は、一体どれほど辛い思いをなさったのかと。
 
 別荘に連れて行って下さった。
 二人きりの時間を過ごせた。

 「ここに、お前と二人で来たかったんだ」
 そうおっしゃって下さった。
 その言葉で、もう死んでもいいと思った。
 でも、あの美しい屋上で、悲しく、素敵なお話を聞かせて下さった。
 石神先生は悲しい多くの傷を負っている。
 癒すことはできないが、ほんの少しでも何かをしたいと思った。
 





 まだ、死ぬことはできない。
 その日までは。





 「鷹、お前は俺の首を抱くか?」
 「はい、そうしたいと思います」
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