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澪 Ⅱ
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俺は澪さんを宥め、外へ連れ出した。
当時、俺は中古のポルシェに乗っていた。白の911ターボだ。
俺は澪さんを助手席へ乗せ、ドライブした。
「石神さん、どちらへ」
「ああ、富士山です」
車の中で、俺たちはほとんど話さなかった。
東名高速を疾走する。
ターボ特有のファンの音がする。
1時間も走ると、須走のインターを抜け、河口湖が見えてくる。
俺は湖畔のレストランに澪さんを連れて入った。
「あの家に連れ帰るんですか?」
うつむいたまま、澪さんが言う。
「そんなことはしませんよ。御堂は澪さんが帰りたくないなら、東京で面倒を見てくれと言ってます」
「そうですか」
「まあ、俺は断りましたけどね」
「!」
食べたくないという澪さんの言葉を無視して、俺は豪華な「大名御膳」という一番高い定食を二人前注文した。
先にホットコーヒーを出してもらう。
食事を待っている間、俺は澪さんに御堂と行った富士山の登山の話をした。
「富士山って、標高3776メートルじゃないですか」
「はい?」
「それでね、御堂と俺は、海抜ゼロメートルから登ろうってなったんですよ」
「はぁ」
「富士山の3776メートルを完全制覇するんだってね。そんな奴はいないだろうって」
「そうなんですか」
「駿河湾から、まずは愛鷹山を目指しました。でもその中腹で挫折しましたね」
澪さんがちょっと笑顔になる。
「御堂、こりゃダメだって。御堂も一言も「もっと頑張ろう」なんて言いませんでしたよ。すぐにお互い納得して引き返しました」
澪さんが笑った。
「俺たちはね、全然ダメダメなんです。本当にダメ。決めたことが全然できない」
「そんなことは」
「でもね、俺たちは今でも親友だ。別に「一生親友でいよう」なんて言ってませんよ? それでもちゃんとなってる」
「……」
「御堂がね、言ってたんです」
「?」
「澪さんとの結婚が決まった時に、俺に電話してきて。「僕は素晴らしい人と結婚するんだ」って。そして「一生、絶対に守って幸せにするよ」ってね。まあ、ダメダメだったでしょ?」
澪さんは笑い声を上げた。
丁度食事が届いた。
でかい膳に、焼肉と草鞋のようにでかいとんかつ、ご飯にウドンの丼にチャーハンの皿、味噌汁にコンソメスープ、野菜サラダに海草サラダ。漬物。
バカみたいな量だった。
「さあ、食べましょう。最近、全然食べてなかったでしょ? まあ、味は不味そうですが」
澪さんがまた笑ってくれた。
俺たちはしばらく、食事と格闘した。
澪さんも無理しながら食事に手を付けていった。
「本当に不味いですねぇ」
俺が言うと、澪さんは笑顔になり、また頑張って食べた。
俺は激マズのとんかつをほとんど残し、お湯のような汁のうどんも残した。
澪さんは三割も食べられなかった。
汁ものだけは、なんとか完食した。
「ああ、澪さんもダメダメですね」
「そんな、こんな量は無理です」
「恐ろしく不味かったですしね」
二人で笑った。
俺は膳を下げてもらい、コーヒーのお代わりと、澪さんのためにフルーツパフェを頼む。
「もう、私入りませんから」
「じゃあ、パフェはやめて、コーヒーをもう一杯お願いします」
コーヒーが二つと、でかいフルーツパフェが届いた。
「あの店員もダメダメですね」
二人でまた笑った。
「澪さん、旧家は厳しいでしょう」
「はい」
「有吉佐和子の『華岡青洲の妻』って知ってますか?」
「いいえ、あいにく」
俺は内容を話した。
江戸時代の医家華岡家の嫡男が嫁を貰う話だ。
近所でも有名な気立ての良い嫁だった。
しかし、華岡家では姑が徹底的に嫁を虐める。
それでも嫁は夫の青洲のために尽くしていくという話だ。
「私ももっと頑張れと?」
「いえいえ。旧家はとんでもないって話ですよ」
「映画があるんです。嫁が華岡家に迎えられて祝言の場面があるんですけど、青洲はまだ長崎で修行してていねぇ。それで夫の青洲の席には、分厚い『本草綱目』があるんですね。高さ50センチくらい」
「?」
「ね、バカみたいでしょ? でもね、その『本草綱目』が「華岡家」そのものなんですよ」
「……」
「家って、人間じゃないんです。だから家族というのは、その「家」を守るためだけに存在してるんですよ」
「家族が幸せになるためじゃない、ということですか?」
「順番が違うんです。家を守ることが、家族の本当の幸せ、ということなんです」
澪さんは考え込んでいる。
「嫁というのは家の外の人間です。だから、家の人間になるために、教育が必要なんですね」
「姑は、それをやっている、と」
「その通りです」
「じゃあ、やっぱり私は戻らないといけませんね」
「え、そんな必要全然ないですよ」
「え?」
「東京に好きなだけいればいいじゃないですか。何なら俺が仕事とか住む場所なんか紹介しますから」
「でも、さっき東京で面倒はみないって」
「ああ、俺はダメダメですからね。決めたって、もうボロボロ」
澪さんは声を上げて笑った。
「旧家なんて、今時じゃないんですよ。わざわざそんなとこで苦労する必要なんてありません」
「石神さん、でも私、戻ります」
「そうですか。じゃあ、俺が家の人間にビシッと言ってやりますよ」
俺たちはそのまま甲府へ向かった。
澪さんは黙って、前を向いていた。
「石神、ありがとう!」
御堂が珍しく泣いた。
「おう、でも別に帰ってきたわけじゃねぇからな」
「どういうことだ?」
「家族全員集めてくれ」
「分かった」
御堂は正巳さん、菊子さん、それに家にいた親戚や手伝いの人間まで全員を座敷に集めた。
日本家屋は襖で仕切られている。
だからそれを外せば、いくらでも大きな空間ができた。
「あんたらね、もう江戸はとっくに終わって、明治も大正も昭和も終わってるんですよ!」
俺は全員の前で立って話した。
「澪さんのことを大事にしなきゃ、俺が必ず連れ出します。いいですね!」
全員がこっちを見ている。
「あ、なんか偉そうなこと言ってすみませんでしたぁ!」
俺は土下座した。
「石神さん、ダメダメですね」
澪さんが笑って言った。
全員が笑う。
澪さんは全員の前で、今回の不始末を謝り、今後は御堂家の人間として必死にやります、と言った。
あらためて菊子さんの前に座り、謝罪ともっと厳しく指導をして欲しいと言った。
菊子さんは泣き出した澪さんの背中をさすった。
俺は帰ると言うと、正巳さんや菊子さん、そして御堂に引き止められた。
泊まっていって欲しいと言われたが、さすがに恥ずかしいからと断った。
玄関で見送る人々。
「おい、御堂」
俺は御堂の頬を殴った。
数メートル吹っ飛ぶ。
俺が御堂を殴ったのは、後にも先にも、この一回だけだ。
「お前、いい加減にしろ! 今度澪さんを泣かせたら承知しねぇぞ!」
御堂は頬に手を当てながら言った。
「うん、約束するよ」
「ね、澪さん! 最後はビシッと決まったでしょ!」
澪さんは泣き顔で笑った。
御堂がその肩に手を回した。
当時、俺は中古のポルシェに乗っていた。白の911ターボだ。
俺は澪さんを助手席へ乗せ、ドライブした。
「石神さん、どちらへ」
「ああ、富士山です」
車の中で、俺たちはほとんど話さなかった。
東名高速を疾走する。
ターボ特有のファンの音がする。
1時間も走ると、須走のインターを抜け、河口湖が見えてくる。
俺は湖畔のレストランに澪さんを連れて入った。
「あの家に連れ帰るんですか?」
うつむいたまま、澪さんが言う。
「そんなことはしませんよ。御堂は澪さんが帰りたくないなら、東京で面倒を見てくれと言ってます」
「そうですか」
「まあ、俺は断りましたけどね」
「!」
食べたくないという澪さんの言葉を無視して、俺は豪華な「大名御膳」という一番高い定食を二人前注文した。
先にホットコーヒーを出してもらう。
食事を待っている間、俺は澪さんに御堂と行った富士山の登山の話をした。
「富士山って、標高3776メートルじゃないですか」
「はい?」
「それでね、御堂と俺は、海抜ゼロメートルから登ろうってなったんですよ」
「はぁ」
「富士山の3776メートルを完全制覇するんだってね。そんな奴はいないだろうって」
「そうなんですか」
「駿河湾から、まずは愛鷹山を目指しました。でもその中腹で挫折しましたね」
澪さんがちょっと笑顔になる。
「御堂、こりゃダメだって。御堂も一言も「もっと頑張ろう」なんて言いませんでしたよ。すぐにお互い納得して引き返しました」
澪さんが笑った。
「俺たちはね、全然ダメダメなんです。本当にダメ。決めたことが全然できない」
「そんなことは」
「でもね、俺たちは今でも親友だ。別に「一生親友でいよう」なんて言ってませんよ? それでもちゃんとなってる」
「……」
「御堂がね、言ってたんです」
「?」
「澪さんとの結婚が決まった時に、俺に電話してきて。「僕は素晴らしい人と結婚するんだ」って。そして「一生、絶対に守って幸せにするよ」ってね。まあ、ダメダメだったでしょ?」
澪さんは笑い声を上げた。
丁度食事が届いた。
でかい膳に、焼肉と草鞋のようにでかいとんかつ、ご飯にウドンの丼にチャーハンの皿、味噌汁にコンソメスープ、野菜サラダに海草サラダ。漬物。
バカみたいな量だった。
「さあ、食べましょう。最近、全然食べてなかったでしょ? まあ、味は不味そうですが」
澪さんがまた笑ってくれた。
俺たちはしばらく、食事と格闘した。
澪さんも無理しながら食事に手を付けていった。
「本当に不味いですねぇ」
俺が言うと、澪さんは笑顔になり、また頑張って食べた。
俺は激マズのとんかつをほとんど残し、お湯のような汁のうどんも残した。
澪さんは三割も食べられなかった。
汁ものだけは、なんとか完食した。
「ああ、澪さんもダメダメですね」
「そんな、こんな量は無理です」
「恐ろしく不味かったですしね」
二人で笑った。
俺は膳を下げてもらい、コーヒーのお代わりと、澪さんのためにフルーツパフェを頼む。
「もう、私入りませんから」
「じゃあ、パフェはやめて、コーヒーをもう一杯お願いします」
コーヒーが二つと、でかいフルーツパフェが届いた。
「あの店員もダメダメですね」
二人でまた笑った。
「澪さん、旧家は厳しいでしょう」
「はい」
「有吉佐和子の『華岡青洲の妻』って知ってますか?」
「いいえ、あいにく」
俺は内容を話した。
江戸時代の医家華岡家の嫡男が嫁を貰う話だ。
近所でも有名な気立ての良い嫁だった。
しかし、華岡家では姑が徹底的に嫁を虐める。
それでも嫁は夫の青洲のために尽くしていくという話だ。
「私ももっと頑張れと?」
「いえいえ。旧家はとんでもないって話ですよ」
「映画があるんです。嫁が華岡家に迎えられて祝言の場面があるんですけど、青洲はまだ長崎で修行してていねぇ。それで夫の青洲の席には、分厚い『本草綱目』があるんですね。高さ50センチくらい」
「?」
「ね、バカみたいでしょ? でもね、その『本草綱目』が「華岡家」そのものなんですよ」
「……」
「家って、人間じゃないんです。だから家族というのは、その「家」を守るためだけに存在してるんですよ」
「家族が幸せになるためじゃない、ということですか?」
「順番が違うんです。家を守ることが、家族の本当の幸せ、ということなんです」
澪さんは考え込んでいる。
「嫁というのは家の外の人間です。だから、家の人間になるために、教育が必要なんですね」
「姑は、それをやっている、と」
「その通りです」
「じゃあ、やっぱり私は戻らないといけませんね」
「え、そんな必要全然ないですよ」
「え?」
「東京に好きなだけいればいいじゃないですか。何なら俺が仕事とか住む場所なんか紹介しますから」
「でも、さっき東京で面倒はみないって」
「ああ、俺はダメダメですからね。決めたって、もうボロボロ」
澪さんは声を上げて笑った。
「旧家なんて、今時じゃないんですよ。わざわざそんなとこで苦労する必要なんてありません」
「石神さん、でも私、戻ります」
「そうですか。じゃあ、俺が家の人間にビシッと言ってやりますよ」
俺たちはそのまま甲府へ向かった。
澪さんは黙って、前を向いていた。
「石神、ありがとう!」
御堂が珍しく泣いた。
「おう、でも別に帰ってきたわけじゃねぇからな」
「どういうことだ?」
「家族全員集めてくれ」
「分かった」
御堂は正巳さん、菊子さん、それに家にいた親戚や手伝いの人間まで全員を座敷に集めた。
日本家屋は襖で仕切られている。
だからそれを外せば、いくらでも大きな空間ができた。
「あんたらね、もう江戸はとっくに終わって、明治も大正も昭和も終わってるんですよ!」
俺は全員の前で立って話した。
「澪さんのことを大事にしなきゃ、俺が必ず連れ出します。いいですね!」
全員がこっちを見ている。
「あ、なんか偉そうなこと言ってすみませんでしたぁ!」
俺は土下座した。
「石神さん、ダメダメですね」
澪さんが笑って言った。
全員が笑う。
澪さんは全員の前で、今回の不始末を謝り、今後は御堂家の人間として必死にやります、と言った。
あらためて菊子さんの前に座り、謝罪ともっと厳しく指導をして欲しいと言った。
菊子さんは泣き出した澪さんの背中をさすった。
俺は帰ると言うと、正巳さんや菊子さん、そして御堂に引き止められた。
泊まっていって欲しいと言われたが、さすがに恥ずかしいからと断った。
玄関で見送る人々。
「おい、御堂」
俺は御堂の頬を殴った。
数メートル吹っ飛ぶ。
俺が御堂を殴ったのは、後にも先にも、この一回だけだ。
「お前、いい加減にしろ! 今度澪さんを泣かせたら承知しねぇぞ!」
御堂は頬に手を当てながら言った。
「うん、約束するよ」
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