92 / 2,840
静江夫人 Ⅱ
しおりを挟む
「カンブリア(Cambrian)」というのは、恐らくは「カンブリア大爆発(Cambrian explosion)」にちなんだものなのだろう。
カンブリア紀、およそ5億数千年前の時代に、生物が一斉に種を増やしたことが分かっている。
それ以前の化石に比較し、爆発的に種が増えているのだ。今の動物の門が出揃ったとも言われる。
それは、地球上を海洋が覆ったためだとも考えられているが、まだ詳しいことは分かっていない。
ロックハート一族は、一子しか産めない家系の中で、突如複数の子孫を産む特異な人間を、それになぞらえたのだ。
しかし、《ゲッセマネ(Gethsemane)》とは何か。
ゲッセマネは、キリストが最後の晩餐を開いた土地である。そしてそこでキリストは、弟子のユダによって裏切られ、処刑されることになる。
「《ゲッセマネ》は、ロックハート一族にとって、最大の秘密であり、悲願なのです」
「どういうことでしょうか」
「それは、一族の運命の解放を意味しています」
とんでもない秘密だ。
ロックハートの呪いとも言える子孫の問題ももちろん重要機密なのだろうが、それ以上にこの話は危険なほどだ。
「私にそれを話すということは、静江夫人にまた「降ってきた」ということでしょうか」
夫人はうなずく。
「はい、その通りです。私は響子が幾人もの子を産み、そしてその子らの一人が、ロックハートの呪いを祓う未来を見ました」
「その未来に、もちろん石神先生は深く関わっておられます」
「私も、それを知っておく必要があったんですか」
「そうです。あなたに話しておかなければならない、ということも私は理解しました」
冷めてきた紅茶が、静江夫人の指示で新しく煎れ直された。
その間、我々の会話は中断した。
「響子はいかがでしょうか」
母親らしいことを、初めて口にした。
本当は、真っ先に聞きたかったことだろうと、俺は感じた。
「徐々に体力を取り戻しています。最近は和食にも興味を持ち始めたようです」
俺は昨年のうちの子どもたちとの、すきやき鍋の話をした。
静江夫人は笑い声を必死に抑えて、身をよじった。
「ああ、響子は本当に幸せですね。お蔭様で安心いたしました」
「納豆はまだダメでしたね」
夫人はまたおかしそうに笑う。
「そうですか。でも、石神先生がお好きなものなら、きっと響子も好きになりますよ」
「どうでしょうか」
紅茶が整い、再び俺たちは二人になる。
「響子の身体は回復します。しかし、普通の生活ではない、と申し上げておきます」
「はい」
俺にも分かっていた。
「響子は一族の後継者です。ですからアメリカで暮らす必要があります」
「……」
「しかし、そうはならないことが分かりました」
「!」
「響子は生涯、日本で暮らすことになります」
俺は驚いていた。
「どうして……」
思わず尋ねた俺に、静江夫人はきっぱりと言った。
「申し訳ありません。これ以上のことは、お話しできないのです。しかし、ここまでのお話は、石神先生も知っていただく必要がございました。半端な内容で申し訳ありませんが」
「旱(ひでり)に当りて雨を乞(こ)ふ時は、かならず零(ふ)らしめ給ふ」
静江夫人が歌うように詠み上げた。
「『出雲国風土記』ですね」
「よくご存知でいらっしゃいますこと」
「「石神」ですからね」
「はい、あなたはロックハート家にとって、まさしく石神であられました。今後とも、ロックハートは響子と石神先生のためには全力で動くことだけは、お伝えしておきたく思います」
「ありがとうございます」
「今日は一日お時間を潰させてしまい、大変申し訳ありません」
静江夫人は席を立って、丁寧に腰を曲げた。
時間は既に0時を回っていた。
「それでは、お宅までお送り差し上げますので」
「あの」
「はい、なんでしょうか」
「もうお時間はありませんか。可能であれば、もう少し響子の話をしたいのですが」
「!」
「ほんの少しでも構いません」
静江夫人は少しの間考えていたが、微笑んで俺に言った。
「響子は本当に素晴らしい男性とめぐり合いました。石神先生さえ宜しければ、あと30分ほどお話しさせていただきたく思います」
分刻みでスケジュールの厳しい静江夫人との会話は、53分後に終わった。
夫人は何度もSPを追い返し、本当の限界まで俺に付き合ってくれた。
カンブリア紀、およそ5億数千年前の時代に、生物が一斉に種を増やしたことが分かっている。
それ以前の化石に比較し、爆発的に種が増えているのだ。今の動物の門が出揃ったとも言われる。
それは、地球上を海洋が覆ったためだとも考えられているが、まだ詳しいことは分かっていない。
ロックハート一族は、一子しか産めない家系の中で、突如複数の子孫を産む特異な人間を、それになぞらえたのだ。
しかし、《ゲッセマネ(Gethsemane)》とは何か。
ゲッセマネは、キリストが最後の晩餐を開いた土地である。そしてそこでキリストは、弟子のユダによって裏切られ、処刑されることになる。
「《ゲッセマネ》は、ロックハート一族にとって、最大の秘密であり、悲願なのです」
「どういうことでしょうか」
「それは、一族の運命の解放を意味しています」
とんでもない秘密だ。
ロックハートの呪いとも言える子孫の問題ももちろん重要機密なのだろうが、それ以上にこの話は危険なほどだ。
「私にそれを話すということは、静江夫人にまた「降ってきた」ということでしょうか」
夫人はうなずく。
「はい、その通りです。私は響子が幾人もの子を産み、そしてその子らの一人が、ロックハートの呪いを祓う未来を見ました」
「その未来に、もちろん石神先生は深く関わっておられます」
「私も、それを知っておく必要があったんですか」
「そうです。あなたに話しておかなければならない、ということも私は理解しました」
冷めてきた紅茶が、静江夫人の指示で新しく煎れ直された。
その間、我々の会話は中断した。
「響子はいかがでしょうか」
母親らしいことを、初めて口にした。
本当は、真っ先に聞きたかったことだろうと、俺は感じた。
「徐々に体力を取り戻しています。最近は和食にも興味を持ち始めたようです」
俺は昨年のうちの子どもたちとの、すきやき鍋の話をした。
静江夫人は笑い声を必死に抑えて、身をよじった。
「ああ、響子は本当に幸せですね。お蔭様で安心いたしました」
「納豆はまだダメでしたね」
夫人はまたおかしそうに笑う。
「そうですか。でも、石神先生がお好きなものなら、きっと響子も好きになりますよ」
「どうでしょうか」
紅茶が整い、再び俺たちは二人になる。
「響子の身体は回復します。しかし、普通の生活ではない、と申し上げておきます」
「はい」
俺にも分かっていた。
「響子は一族の後継者です。ですからアメリカで暮らす必要があります」
「……」
「しかし、そうはならないことが分かりました」
「!」
「響子は生涯、日本で暮らすことになります」
俺は驚いていた。
「どうして……」
思わず尋ねた俺に、静江夫人はきっぱりと言った。
「申し訳ありません。これ以上のことは、お話しできないのです。しかし、ここまでのお話は、石神先生も知っていただく必要がございました。半端な内容で申し訳ありませんが」
「旱(ひでり)に当りて雨を乞(こ)ふ時は、かならず零(ふ)らしめ給ふ」
静江夫人が歌うように詠み上げた。
「『出雲国風土記』ですね」
「よくご存知でいらっしゃいますこと」
「「石神」ですからね」
「はい、あなたはロックハート家にとって、まさしく石神であられました。今後とも、ロックハートは響子と石神先生のためには全力で動くことだけは、お伝えしておきたく思います」
「ありがとうございます」
「今日は一日お時間を潰させてしまい、大変申し訳ありません」
静江夫人は席を立って、丁寧に腰を曲げた。
時間は既に0時を回っていた。
「それでは、お宅までお送り差し上げますので」
「あの」
「はい、なんでしょうか」
「もうお時間はありませんか。可能であれば、もう少し響子の話をしたいのですが」
「!」
「ほんの少しでも構いません」
静江夫人は少しの間考えていたが、微笑んで俺に言った。
「響子は本当に素晴らしい男性とめぐり合いました。石神先生さえ宜しければ、あと30分ほどお話しさせていただきたく思います」
分刻みでスケジュールの厳しい静江夫人との会話は、53分後に終わった。
夫人は何度もSPを追い返し、本当の限界まで俺に付き合ってくれた。
1
お気に入りに追加
228
あなたにおすすめの小説
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
こずえと梢
気奇一星
キャラ文芸
時は1900年代後期。まだ、全国をレディースたちが駆けていた頃。
いつもと同じ時間に起き、同じ時間に学校に行き、同じ時間に帰宅して、同じ時間に寝る。そんな日々を退屈に感じていた、高校生のこずえ。
『大阪 龍斬院』に所属して、喧嘩に明け暮れている、レディースで17歳の梢。
ある日、オートバイに乗っていた梢がこずえに衝突して、事故を起こしてしまう。
幸いにも軽傷で済んだ二人は、病院で目を覚ます。だが、妙なことに、お互いの中身が入れ替わっていた。
※レディース・・・女性の暴走族
※この物語はフィクションです。
~後宮のやり直し巫女~私が本当の巫女ですが、無実の罪で処刑されたので後宮で人生をやり直すことにしました
深水えいな
キャラ文芸
無実の罪で巫女の座を奪われ処刑された明琳。死の淵で、このままだと国が乱れると謎の美青年・天翼に言われ人生をやり直すことに。しかし巫女としてのやり直しはまたしてもうまくいかず、次の人生では女官として後宮入りすることに。そこで待っていたのは怪事件の数々で――。
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる