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一之瀬翼

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 院長室に呼ばれた。
 ろくでもないことに間違いない。

 「やあ、英雄とちやほやされていい気になってる、石神クンじゃないかぁ、さあさあ、そこに座りたまえよ」

 院長がニコニコして俺に着席を勧めた。

 「イヤです、立ってます」
 「いいから座れ!、このチンピラ医者がぁ!」

 俺はおとなしく応接ソファに腰掛ける。
 俺の正面に座った院長が、思いも寄らぬ話を切り出した。

 「CNNが来ます」
 「はっ?」

 「CNNが来ます」
 「聞こえましたよ! なんで来るのかを聞いてるんでしょうが!」

 物凄い顔で睨まれた。

 「お前のやった超長時間手術が、アメリカで報道されたらしい」

 俺は頭を抱えた。ロックハート参事官たちの仕業だろう。

 「トピックス程度の、ごく短時間の紹介だけがABCで流されただけらしいが、ネットで大分拡散したらしく、CNNが喰いついてきたんだよ」

 はぁー。

 「うちの広報を通じて、正式な取材申し込みがあった。まだ確定ではないが、お前のドキュメンタリーも検討されているらしい」

 冗談じゃねぇ。

 「マスコミなんて絶対にでないぞ、とお前は考えているよな」

 サトリかよ。

 「そうはいかーーーーーん!」

 院長は立ち上がって叫ぶ。

 「お前がやったことは、うちの病院の快挙だ。ここがどれほど有名になり、評価されるか分かるだろう。お前の好き嫌いなんて、どうでもいい。お前は取材を受けろ! いいな!!」

 本当は断りたい。
 絶対に嫌だ。
 普通の状況であれば、俺は断固拒否する。
 しかし、今回だけはそうも言えない。
 響子の手術は、十中十失敗するものだった。
 正直なことを言えば、俺だって「理性的」には失敗することは受け入れた上で進言したのだ。
 通常のオペでの失敗は、本人はもちろん、また遺族の失望と、場合によっては訴訟問題に発展することだってある。
 それでも、大半の場合、認められる。
 訴訟だって、こっちは一流の弁護士を雇ってるんだから、負けることはほぼない。
 通常はそうだ。

 だが、相手がアメリカ国家の中枢に繋がる場合はまったく別だ。
 最初からロックハート参事官は手術の成功は考えていなかった。
 むしろ、孫を苦しめることなく死なせてやれば、それがいいと思っていたのだ。
 俺が頼み込み、院長が頼み込んでくれたお蔭で、無理矢理承認を得た。
 それでも、俺が失敗すればただではおかない、ということは明言していた。
 燃やされることはなかっただろうが、俺自身の経歴ばかりでなく、社会的に重要なものは確実に潰されていただろう。
 もちろん院長だって同様で、うちの病院も相当な損失を蒙っただろうことは確かだ。

 それでも院長は俺にやらせてくれた。
 その恩義は、これまで院長から受けた恩義と合わせ、俺のワガママを通して良いものではない。
 どんなに俺が嫌であろうと、院長の命令は受けなければならない。

 俺は院長室を出て、蓼科文学と初めて出会ったときのことを思い返した。



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 俺は大学卒業を前に、俺を可愛がって下さった教授に呼ばれた。
 うちの大学はぎりぎりまで研修授業をし、国家試験のための勉強期間はほとんどないに等しかった。
 それでも落ちる奴はほとんどいない。
 俺も何とか合格した。

 「よく来た、石神君」

 教授と簡単な挨拶を交わし、俺は卒業後の進路についてある話をされた。

 「僕の親しい同期が、君を欲しがっているんだよ。都内の○○女子医大の教授なんだけど、君をそこの小児科へ迎え入れたいんだって」

 俺には別に断る理由は何もなかった。
 どこでも良かったのだ。
 折角お世話になった教授がそう言ってくださるのなら、俺は喜んで行く。
 そういう意志を話し、何事もなく俺は女子医大勤務となった。

 そこで特別に扱われ、一年後には小児科医として患者と向き合い、担当患者も複数任せられた。
 その中の一人に、一之瀬翼という小学生がいた。



 サッカーが得意だという翼は、父親が大のサッカーファンだったから、ということらしい。
 名前は、有名なサッカー漫画の主人公のものだ。
 恐らく、父親がつけたのだろう。
 しかし翼はスキルス性のガンに冒され、ほどなく余命宣告が下された。
 父親は見舞いに来なくなった。
 息子が間もなく死ぬという事実に耐えられなかったのだろう。
 母親だけが毎日病室に来る。
 俺は担当医として、なるべく苦しまずに最期を迎える、ということしか出来なかった。

 珍しく母親が病室に現われなかった日、俺が回診に行くと、翼が俺に話してきた。

 「先生、僕は死ぬことは別に構わないんです」

 彼は余命のことを知らされていた。
 通常は子どもの場合は隠される。
 だが、本人のたっての希望で、もしも助からないのなら教えて欲しいと言ったのだ。
 親も迷っただろうが、子どもの最期の願いを聞き入れた。

 「僕は、両親に申し訳ない。折角生んでもらったのに、何もできないまま死んでしまう自分が申し訳なくてしょうがない」

 翼は俺の目を見つめ、強い意志でそう言った。

 「でも、僕は何もできないんです。先生、僕は一体どうしたらいいんでしょうか」

 心底から答を求めていた。

 「君には何もできないよ」

 俺がそう言うと、翼は一瞬悔しそうな顔をし、次いで俺を睨んだ。

 「できるわけ、ないじゃないか。君はまだ子どもで、もう動くことすら大変だ。トイレだって、誰かがついていかなきゃならない。そうだろ?」

 翼は涙を浮かべ、俺を睨みつける。
 強い意志がある。

 「だからな。最後にご両親に「ありがとうございました」と言え。生んでもらってありがとうと礼を言えよ。それができれば、君の人生は最高だ」

 翼は堪えていた涙を零した。
 動かない左手を垂らし、右手で俺の肩を掴んだ。

 「先生、ありがとうございました」

 彼はやるべきことを決めた。



 その後、俺たちはよく話すようになった。

 「アランというフランスの哲学者を知ってるか?」
 「知るわけないでしょう。僕は小学生ですよ!」
 「え、俺は知ってたけどなぁ」
 「本当ですか?」
 「あ、中学だったかもしれん」
 「何ですかー!」

 俺はアランの代表的著作に『幸福論』があることを話した。

 「幸福論って、いろんな人間が書いてるんだよ。中には本当にくだらんものもある。でもな、名著と呼ばれる幸福論は、みんな同じことを言ってるんだ」
 「それは何ですか?」
 「働け! ということなんだよ」

 俺が笑って言うと、翼は落ち込んだ。

 「じゃあ、僕はダメですね。働けないですもん」

 俺は翼の肩を抱いて言った。

 「働く、とうのは会社でとかじゃねぇんだ。要は自分の役目を果たす、ということなんだよ」

 翼は黙って聞いていた。

 「翼は、お父さんに「サッカーをやれ」と言われたんだろ? そしてそれを一生懸命にやったんだろ? だったらそれでいいんだよ」
 「はい」
 「お母さんに手伝ってと言われたことがあるか?」
 「あります」
 「じゃあ、それでよし、ということだ」

 翼は嬉しそうに笑い、俺を見上げた。

 《礼拝は労働なり。労働は礼拝なり(Orare est laborare, laborare est orare.:オラーレ エスト ラボラーレ、ラボラーレ エスト オラーレ)》

 「これは俺が尊敬するトマス・カーライルという哲学者の『幸福論』の中で書かれている言葉だ」

 翼は必死で覚えようとする。
 俺は紙に書いて渡してやった。

 「つまり、役目を果たすことは神に通じる、ということだな。要は人間が生まれた所以ということだ。お前はちゃんとそれを果たした。だから大丈夫だぞ」

 翼が嬉しそうな顔をした。

 「アランの『幸福論』の中で、俺が一番好きな言葉がある。それは「絶望について」という断章の中にあるんだ」

 《地上は苦難に満ちている。しかし、空は快晴だ(La terre sera cchargée de maux, mais le ciel sera clair.)》

 「どうだよ、いい言葉だろう」
 「ちょっと意味が分かりません」
 「お前はダメだなぁ」
 「アハハハ」

 「いいか、人生っていうのは辛いことばかりなんだよ。本当に辛くて、人間は絶望してしまうことだってある」

 翼は黙り込んだ。
 彼はその中にいる。

 「でもな、それは「自分」という本当に小さな世界での出来事に過ぎない。本当の世界は、いつだって輝いているんだよ。そして俺たちは、その世界にこそいるんだ」
 「……」
 「だから安心しろ! お前は大丈夫だ」

 翼はもう俺を掴むことすらできなくなっていた。
 ただ車椅子に運ばれ、世話をされるだけだった。
 しかし彼は、最後まで話すことを手放さなかった。



 翼の最期の時が迫っていた。
 俺は休日だったが、いつ呼び出しが来ても良いように備えていた。
 ポケベルが鳴り、俺はすぐに病院へ向かう。

 翼の病室では当直の医師と看護師が慌しく指示を飛ばし、それに迅速に従っていた。
 俺は医師と交代した。
 両親は部屋の隅で、その騒ぎを眺めている。

 やがて、その時が来た。

 俺は両親を招き、翼の口元に耳を近づけるように告げた。
 二人で覆いかぶさるように翼の口に近づき、突然母親が号泣した。
 父親も涙を流した。









 翼、ちゃんと言えたか。

 俺は時計を確認した。
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