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いまさらね
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厚手のコートじゃあ、もう時期外れ。かといってコートなしじゃあ、まだ寒さも身に染みる。
例年なら桜の蕾も膨らんでいて、週末には六分咲きくらいは見れそうなもんだが、今年はそんな気配すらない。
十八時を回ってるのに、まだ陽の明るさと夜の帳がせめぎあってる。ついこの間までは勝負にすらならなかったのに。
河口から吹きつける海風を背に、川沿いの道を俺と真由美はゆっくりと歩いている。いつも通り、真由美は俺の右隣。ランドセルを背負ってた時代から変わってはいない。
「それにしても寒いよな。コート着てくりゃ良かったよ」
当たり前でしょと言わんばかりの顔で、真由美は俺に顔を向けた。
「なんか、毎年この時期にそんなこと言ってない? 確かに今年はまだ寒いけどさあ」
風に煽られて揺れる真由美の髪の匂いが鼻に届く。咲いてもない桜の花の香りのようだ。
「そっか。毎年言ってたか。でも毎年迷うんだよね。四月にコートっていうのもさ」
「これはわたしが毎年言ってることだけど、スプリングコート買いなよ。便利だし」
「そうだな。あ、これも毎年の返しか」
言い終わるや否や、俺は真由美に向かって一くしゃみした。
「ちょっと、汚いなあ! なにすんのよ! これ買ったばかりなのに」
「ごめん、ごめん。押さえる暇なかったんだよ。それにしても、コート似合ってんじゃん。お前にしては珍しい色だけど」
いつも黒系統が多い真由美が着ているのは、薄いピンクのスプリングコートだった。見慣れないけど違和感はない。色白の真由美にはお世辞抜きに似合っていた。
「へへ。ありがとう。ちょっと冒険してみたんだ」
素直に照れる真由美の笑顔が可愛く思えた。
すっと差し出された水色のハンカチを受け取り、鼻と口元を拭う。
「ありがとう。洗って返すよ」
そう言う俺から真由美は「いいよ」と言ってハンカチを奪い取ると、カバンに押し込んだ。
いつも世話をやかれてきたよな。そんな思いが頭をよぎった。
いまさら何をと自嘲気味に心の中で呟く。
昼休みに真由美から連絡があり、どうしても寿司が食べたいから付き合えと言われた。別に仕事が立て込んでる訳でもなかったし、俺に断る理由はなかった。
「そういえば、『たてわき』に行くのも久しぶりだよな。いつ以来だっけ?」
「去年の夏のボーナス以来かな」
「そっか。もうそんなに空いてたんだな」
「なに常連みたいに言ってんのよ。わたし達二回しか行ったことないじゃん」
それもそうだ。初めて行ったのは、お互いの初任給が出た二年前だった。大人の世界を覗いたようで、緊張していたのは今でも覚えている。
真由美とは小学校から大学まで一緒。筋金入りの幼なじみだ。俺の右隣にはいつも真由美がいた。だからといって、付き合ってる訳じゃない。あんまりも自然になりすぎていて、そんな感情は湧かなかった。
真由美はいつも俺の付き合う女の話を聞いてくれた。良かったねに始まり、別れれば慰めてもくれた。
そんな真由美の恋愛話を聞いたのは、一年前だった。ちょうど今時期。今日よりも暖かくて、桜も八分咲きだった。
聞いてもらってる側から聞く側にまわったのは初めてだった。その時素直に良かったなと言えたのは、俺にも彼女がいたからだったのかもしれない。まあ、心に余裕があったんだろうな。
それからも、回数は減ったが、今までの付き合いが変わるわけでもなく、時間が合えば会っていた。でも、不思議とお互いの相手を紹介するでもなく、話の中だけの存在だった。
俺はあっという間に終わってしまったけど、真由美は順調に続いている。決してのろけることはないが、幸せそうな雰囲気を感じる。だてに腐れ縁じゃない。それくらいは分かるさ。
「あのね……」
突然の真由美の声はあまりに細過ぎて、風にほとんどさらわれてしまい、やっと気づくことができた。
「ん? どうした?」
真由美はこちらを見るでもなく、俯きがちに歩みを進めている。
「どうしたよ? 詰まるなんて珍しいな」
他では知らないが、俺の前ではないことだった。
「……。あのね、わたしね……」
まあ、言いたいことは分かる。しょうがない。俺の口から言ってやろう。
「結婚するんだろ?」
その言葉に驚くでもなく、歩みを止めて、静かに俺に顔を向けた。
真由美の顔は複雑だった。いろんな感情がまとまっていないような、そんな色が滲みでていた。
「あれ? 分かっちゃった?」
おどけて言ったつもりだろうが、上手くはいってない。
「分かるって。俺らの付き合い何年よ? お前が俺を読めるように、俺も読めんだよ」
「へへ。やっぱりそうか」
俺たちはまた歩き始めた。背中にあたる風に押されるように。
「なあ、彼氏はいつもお前の左隣で歩くだろ?」
「うん」
「それって、すげー落ちつかない?」
「うん。すごく落ちつくよ」
「だろうな。いい彼氏じゃん」
「うん」
「おめでとう。真由美」
「……ありがとう」
俺の右隣には、今まで真由美しか立ったことがなかった。どういう訳か、付き合う女全部が左隣に立ちたがった。そして、それに俺が落ちつきを感じることはなかった。真由美が右隣にいるとこんなに落ちつくのに。
「一樹、わたしね、本当は……」
「よし。今日は俺の奢りだ。めでたいんだから、割り勘なんて野暮なことは言うなよ」
遮るように言葉を重ねた。
「うん。分かったよ。奢られてあげるね」
少し寂しそうに聞こえる真由美の言葉。いっそ風に流されてくれないだろうかと思いながら、俺は歩みを早めた。
遅れて真由美も肩を並べた。
まいったな。今の顔は見られたくないんだが。まあ、しょうがない。今夜の寿司は鼻につんとくるんだろうな。
咲いてもない桜の花びらが、風に舞うのが見えた気がした。
例年なら桜の蕾も膨らんでいて、週末には六分咲きくらいは見れそうなもんだが、今年はそんな気配すらない。
十八時を回ってるのに、まだ陽の明るさと夜の帳がせめぎあってる。ついこの間までは勝負にすらならなかったのに。
河口から吹きつける海風を背に、川沿いの道を俺と真由美はゆっくりと歩いている。いつも通り、真由美は俺の右隣。ランドセルを背負ってた時代から変わってはいない。
「それにしても寒いよな。コート着てくりゃ良かったよ」
当たり前でしょと言わんばかりの顔で、真由美は俺に顔を向けた。
「なんか、毎年この時期にそんなこと言ってない? 確かに今年はまだ寒いけどさあ」
風に煽られて揺れる真由美の髪の匂いが鼻に届く。咲いてもない桜の花の香りのようだ。
「そっか。毎年言ってたか。でも毎年迷うんだよね。四月にコートっていうのもさ」
「これはわたしが毎年言ってることだけど、スプリングコート買いなよ。便利だし」
「そうだな。あ、これも毎年の返しか」
言い終わるや否や、俺は真由美に向かって一くしゃみした。
「ちょっと、汚いなあ! なにすんのよ! これ買ったばかりなのに」
「ごめん、ごめん。押さえる暇なかったんだよ。それにしても、コート似合ってんじゃん。お前にしては珍しい色だけど」
いつも黒系統が多い真由美が着ているのは、薄いピンクのスプリングコートだった。見慣れないけど違和感はない。色白の真由美にはお世辞抜きに似合っていた。
「へへ。ありがとう。ちょっと冒険してみたんだ」
素直に照れる真由美の笑顔が可愛く思えた。
すっと差し出された水色のハンカチを受け取り、鼻と口元を拭う。
「ありがとう。洗って返すよ」
そう言う俺から真由美は「いいよ」と言ってハンカチを奪い取ると、カバンに押し込んだ。
いつも世話をやかれてきたよな。そんな思いが頭をよぎった。
いまさら何をと自嘲気味に心の中で呟く。
昼休みに真由美から連絡があり、どうしても寿司が食べたいから付き合えと言われた。別に仕事が立て込んでる訳でもなかったし、俺に断る理由はなかった。
「そういえば、『たてわき』に行くのも久しぶりだよな。いつ以来だっけ?」
「去年の夏のボーナス以来かな」
「そっか。もうそんなに空いてたんだな」
「なに常連みたいに言ってんのよ。わたし達二回しか行ったことないじゃん」
それもそうだ。初めて行ったのは、お互いの初任給が出た二年前だった。大人の世界を覗いたようで、緊張していたのは今でも覚えている。
真由美とは小学校から大学まで一緒。筋金入りの幼なじみだ。俺の右隣にはいつも真由美がいた。だからといって、付き合ってる訳じゃない。あんまりも自然になりすぎていて、そんな感情は湧かなかった。
真由美はいつも俺の付き合う女の話を聞いてくれた。良かったねに始まり、別れれば慰めてもくれた。
そんな真由美の恋愛話を聞いたのは、一年前だった。ちょうど今時期。今日よりも暖かくて、桜も八分咲きだった。
聞いてもらってる側から聞く側にまわったのは初めてだった。その時素直に良かったなと言えたのは、俺にも彼女がいたからだったのかもしれない。まあ、心に余裕があったんだろうな。
それからも、回数は減ったが、今までの付き合いが変わるわけでもなく、時間が合えば会っていた。でも、不思議とお互いの相手を紹介するでもなく、話の中だけの存在だった。
俺はあっという間に終わってしまったけど、真由美は順調に続いている。決してのろけることはないが、幸せそうな雰囲気を感じる。だてに腐れ縁じゃない。それくらいは分かるさ。
「あのね……」
突然の真由美の声はあまりに細過ぎて、風にほとんどさらわれてしまい、やっと気づくことができた。
「ん? どうした?」
真由美はこちらを見るでもなく、俯きがちに歩みを進めている。
「どうしたよ? 詰まるなんて珍しいな」
他では知らないが、俺の前ではないことだった。
「……。あのね、わたしね……」
まあ、言いたいことは分かる。しょうがない。俺の口から言ってやろう。
「結婚するんだろ?」
その言葉に驚くでもなく、歩みを止めて、静かに俺に顔を向けた。
真由美の顔は複雑だった。いろんな感情がまとまっていないような、そんな色が滲みでていた。
「あれ? 分かっちゃった?」
おどけて言ったつもりだろうが、上手くはいってない。
「分かるって。俺らの付き合い何年よ? お前が俺を読めるように、俺も読めんだよ」
「へへ。やっぱりそうか」
俺たちはまた歩き始めた。背中にあたる風に押されるように。
「なあ、彼氏はいつもお前の左隣で歩くだろ?」
「うん」
「それって、すげー落ちつかない?」
「うん。すごく落ちつくよ」
「だろうな。いい彼氏じゃん」
「うん」
「おめでとう。真由美」
「……ありがとう」
俺の右隣には、今まで真由美しか立ったことがなかった。どういう訳か、付き合う女全部が左隣に立ちたがった。そして、それに俺が落ちつきを感じることはなかった。真由美が右隣にいるとこんなに落ちつくのに。
「一樹、わたしね、本当は……」
「よし。今日は俺の奢りだ。めでたいんだから、割り勘なんて野暮なことは言うなよ」
遮るように言葉を重ねた。
「うん。分かったよ。奢られてあげるね」
少し寂しそうに聞こえる真由美の言葉。いっそ風に流されてくれないだろうかと思いながら、俺は歩みを早めた。
遅れて真由美も肩を並べた。
まいったな。今の顔は見られたくないんだが。まあ、しょうがない。今夜の寿司は鼻につんとくるんだろうな。
咲いてもない桜の花びらが、風に舞うのが見えた気がした。
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