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本編

29.死が二人を分かつまで

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 目を見開く。
 一体どういうことなのか、理解出来ずに固まった。あまりの衝撃に振り下ろしたナイフを寸前で落としてしまい、カランッ…という無機質な金属音が沈黙の広がる室内に響く。

 円形に落ちていく血溜まりが、徐々に幅を広げていくのをボーッと見つめた。その血溜まりの中心に立っているのは…


「なんで…湊さん…っ!」


 ハッと我に返って、死ぬことも忘れ駆け寄った。
 落としたナイフについては既に意識の外にある。俺の死なんて、そんなどうでもいいことに時間を割いている場合では無かった。
 立ち尽くす彼の傍に行くと、真っ赤に染まったそこを両手で強く締め付けた。けれど軟弱な俺の力じゃどうしようもなくて、鮮血は指の隙間から更にさらにと零れ落ちる。

 左手首の、少し上の方。手首よりに、肘関節との間くらいを、彼はハサミで突き刺していた。
 ベッドの近くにある机から手に取ったらしいそれ。散らかっている文房具を見て、なぜ事前に片付けなかったのかと後悔した。でも、こんなことが起こるだなんて予想も出来なかっただろう。


「雲雀…よかった…」

「何が…っ!全然よくないよ!何でこんなことに…っ」


 安堵したように彼が笑う。安心からか貧血からか、目眩を起こしたらしい彼がふらりと座り込んだ。
 それに続くように俺も膝をつく。二人して血溜まりの中に座り込む形になり、彼との間には生々しく血がこびり付いたハサミが落ちていた。


「っ…神楽!神楽…!助けてっ、お願い!!」


 こういう時の正しい対処法なんて分からない。状況を理解すると一気にパニックに陥って、咄嗟に叫んだのは神楽の名前だった。

 出血箇所を塞いで血が流れるのを防がないと、出血多量で危なくなる…ってことだけは何かのドラマで見たことがある。
 いざ塞いでみると意外と難しくて、ただただ自分の手も真っ赤に染まるだけだった。血は依然流れ続けているし、湊さんの顔色も悪くなるばかり。
 俺には何も危険なんか無いのに、湊さんより俺の方が死にそうだった。多分俺の方が青ざめているし、気付けば過呼吸すら起こしている。霞んだ視界で荒くなる呼吸に鬱陶しさを感じた頃。

 傷が無い方の腕を俺の背に回し、湊さんが優しく俺を抱き締めてきた。


「大丈夫…ほら、深呼吸しよう?俺は大丈夫だから…大丈夫だからね…」

「大丈夫…なわけ…っ」


 反論しようと口を開くが、湊さんの柔らかい笑顔を見て気が抜ける。彼は何故か嬉しそうな顔をしていた。ともすれば愛おしさすら滲む瞳を俺に向けて。
 思わず息を呑んで固まったその時、部屋の外からドタドタと忙しない足音が聞こえてきた。
 バンッ!と大きな音を立てて開かれた扉から、「何があった!」と叫んだ神楽が入ってくる。そして直ぐにピタリと立ち止まって、焦燥の顔を呆然としたものに変えた。


「…は?な、なにこれ、どういう…」

「神楽!湊さんが死んじゃう!お願い助けて!!」

「死なないから、大丈夫だから落ち着いて…!」


 ポカンと立ち尽くす神楽、パニックで錯乱する俺、慌てたように宥めてくる湊さん。部屋の中がカオスで満たされた頃、初めに冷静さを取り戻したのは神楽だった。

 スタスタと近寄ってくると、ベッドのシーツを剥ぎ取ってハサミを拾う。片足で布を抑えると、短い切り込みを入れた後に片手で思い切り破った。
 湊さんの前にしゃがみ込み、破ったシーツを腕にぐるぐると巻き付ける。傍から見てもかなりキツそうにそれをグッと結ぶと、湊さんは一瞬痛そうに顔を歪めた。


「ありがとう、神楽くん」

「…説得しないって言ってたじゃないっすか」

「説得じゃないよ。別に雲雀を止めた訳じゃないし」


 床に血が流れ落ちなくなって、安堵で力が抜ける。放心状態の俺の傍らで、苦い顔をした神楽と笑顔の湊さんが何やら話していた。
 青ざめている俺に「おい、戻ってこーい」と呆れたような顔で神楽が言う。ハッと我に返って、腕にシーツを巻き付けた湊さんに縋り付くように詰め寄った。


「血っ、血は…!湊さん死ぬの?死ぬなら言って!俺もすぐに…!」

「分かったからちょっと落ち着け!人間こんくらいで死なねーから!」


 上擦って掠れた声で叫ぶ。ハサミを持ってそう言うと、神楽が面倒くせぇ!と言わんばかりにそのハサミを奪って捨てた。

 あわあわと忙しなく揺れる俺を、苦笑を浮かべた湊さんがそっと抱き締める。その温かさに少し落ち着いて、強ばっていた体からふっと力が抜けた。
 静かになった俺の頭を"いい子いい子"と言うように撫でた湊さんは、耳元に唇を寄せて語る。泣きそうなくらい優しい声だった。


「…これは俺の覚悟だよ。少しでも理解して欲しくて、こんな強引な手を使ってごめん…びっくりしたよね」

「覚悟…?」

「そう、覚悟。雲雀を愛してるってことの証明と、何があっても離さないって言う覚悟だよ」


 言いながら、湊さんはゆっくりと体を離す。
 浮かんだ笑みは酷く穏やかで、瞳には愛おしさが溢れんばかりに宿っていた。全てを肯定するかのような、盲目とも見える感情がそこにはあった。

 湊さんの言う『覚悟』が何なのか、いまいち分からず困惑する。俺が理解出来ないことも想定済みだったのか、彼は頬を緩めた表情のまま目を細めた。


「俺は雲雀が理解出来ないことを理解してなかった。だから伝わらなくて当然だったんだよ。俺が傲慢だった、愛してるなんて簡単に言っても無駄だ。こういうのは、行動で示さなきゃいけないのに」


 そう言って、湊さんはさっき自分で刺した腕を見下ろした。
 少し赤く滲んだシーツにそっと触れると、再び俺に視線を向けて言う。はっきりとしたその眼差しに、湊さんの語る『覚悟』が見えた気がした。


「俺は雲雀の為なら、自分の命を捧げられるよ」

「っ……」


 困ったように笑う湊さん。「うわぁ…」というドン引きしたような神楽の声が聞こえたが無視した。雰囲気を壊さないで欲しい。


「それが…湊さんの言う"愛"なの…?」


 愛って、そういうことを言うのか。
 なんだ…それなら、俺と同じじゃないか。愛する人の為なら自分の命も捨てられる、それが湊さんの言う…俺達の言う"愛"。

 ふわっと微笑んで湊さんが頷く。迷いの無い瞳に少したじろいだ。
 彼の根底が俺と"同類"である可能性に胸が騒ぐ。清廉で潔白な筈の湊さんが、奥底では仄暗いものを抱えているという事実。それに歓喜する自分に気付いた。


「雲雀以外は眼中にも無い。雲雀が死んだら、俺も一緒にここで死ぬ。そして死んでも離さない。説得なんてしないよ、雲雀の決断に文句を言う気もさらさら無い」


 無機質にも聞こえるほど淡々とした言葉の羅列だが、その言葉自体には重すぎるくらいの激情が詰まっている。


「雲雀は、俺が君を愛していないと言ったよね。自分みたいな人間をどうして愛してくれるのか分からない、とも言っていた」

「…だって、本当に分からないから」


 最早錯乱した頭は冷え切っていた。心も酷く凪いでいる。
 こんなにも豹変した彼に普通は動揺するところなんだろうけど、自分でも驚くくらい冷静さを保っていた。

 呆然とする俺に、穏やかな表情を浮かべた湊さんが問い掛ける。


「それじゃあ、雲雀はどうして俺みたいな人間を愛してくれたの?」

「…―――」


 気付けば、幼い頃から自分を縛っていた筈の鎖は、静かに壊れて朽ちていた。今までの苦悩は何だったのかと呆けるくらい、清々しい感覚があった。

 あぁそうか、とすとんと何かが落ちるような。
 俺はずっと、頭で理解しようとしていたのだ。言語化出来るはずも無い、正解も答えも無いその問いを、俺はずっと馬鹿正直に考え続けていた。
 答えが無いのが怖くて、その事実から目を逸らし続けていた。


「理由なんて無いんでしょ?でも、俺じゃなきゃ駄目だった。俺も、とにかく雲雀じゃなきゃ駄目だったんだ」


 明確な理由は答えられない。理由なんてどうでもよくて、とにかくこの人じゃなきゃいけなくて。
 運命、なんてものじゃない。そんな陳腐なものでも、美しいものでもない。ただ、俺には初めから一つしか無かった。
 俺の唯一は、湊さんしか有り得なかった。


「これが愛じゃないって否定されたら…俺にはもう、愛がなんなのか分からない」


 諦めを認めるような、白旗を揚げるような笑みだった。まるで懇願するような、けれど淡い笑みで、湊さんは静かに乞うのだ。


「雲雀、これを愛だって認めて。それだけでいいんだ。お互いに認めれば、それが答えになる」


 愛しているのか、愛していないのか。そんな疑問を持つのが馬鹿だった。分からないだなんて、駄々を捏ねる必要も無かった。

 俺が認めれば、これは愛になるのだ。
 他の誰が何と言おうと、これが俺達の答えになるのだから。


「…。…湊さんは、俺を愛してる」

「…!うん!」

「俺も…湊さんを愛してるよ」


 慣れない笑みを向けると、彼は数秒目を見開いたまま固まって、直後酷く嬉しそうに笑った。
 ずっと淀んでいた心がおかしいくらい澄み渡っているから、その違和感に俺も笑ってしまいそうになる。

 答えはずっとここにあったのに、目を逸らしていたのは自分自身だったのか。


「俺は…湊さんの血を見たくない、って思った。だから、その…」

「…うん」


 決して急かさず、彼は優しい微笑みで待ってくれる。


「俺も…血を流さないように、する。湊さんを愛して…湊さんに愛された方が、ずっと…幸せそうだから。だから…!」


 俯いていた顔を上げる。
 至近距離にある湊さんの顔。瞳に映るのは、明らかに緊張したように、けれど真っ赤に染まった俺の顔。自分のこんな表情を見たのは初めてだ。


「死んだらどうなるか、分かんないし…それなら最後まで一緒に…"生きていたい"…!」


 その言葉を聞いた瞬間、湊さんがギューッと俺を抱き締めた。彼の肩越しに呆れたような、でも優しい表情を浮かべる神楽も見える。
 暖かい心地に目を細めた。ぽん、と頭を撫でられる感覚にふと見上げると、そこには神楽がいた。


「…俺はもう要らないってか?」

「?そんなわけないよ。神楽も大切。大事な知り合い」

「意地でも友達とは認めねーのかよ!」


 このやろー!と頭をぐりぐりしてくる神楽にやめてと言いながらくすくす笑う。そんな俺達に呆れる様子もなく、湊さんもおかしそうに笑っていた。

 血溜まりの中心で騒ぐ三人、という如何にもとち狂った状況だけど、それも最早気にならない。
 とりあえずさっさと病院行くぞ、という神楽の言葉で慌てて立ち上がった。「これ医者になんて説明しよう…」と湊さんが苦笑して呟く。


「痴話喧嘩しましたって正直に言えばいいと思うっすよ」

「こんなに色々あったのに部類的には痴話喧嘩なんだねこれ…」

「俺が医者にごめんなさいするから安心して」

「うーん…雲雀はちょっと…下がってくれてればそれでいいから…」


 がーん…と肩を落とす。神楽の「お前絡んだら大体拗れるから黙ってた方がいいぞ」という最悪過ぎるフォローに更に落ち込んだ。


「あ、そういえば…隣のクズどうします?警察呼びます?」

「すっかり忘れてた。警察は呼ばないとだけど、その前にちょっと話さないとね」

「そっすね、話さないとですね」


 そのって、文字通りの意味だよね…?なんかの隠語とかじゃ無いよね…?

 ちょっと引いてる俺には気付かない様子で、二人は仲良さそうに隣の部屋へ向かっていった。直前に振り返って、「ちょっと待っててね」と湊さんが微笑む。
 それに大人しく頷いて、静かになった部屋の中ぽつんと立ち尽くした。

 足元に落ちていたナイフを拾い、少し逡巡する。数秒の間が空いて、それをゴミ箱の中に放り投げた。

 きっともう二度と、使うことは無いだろうから。

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