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本編
23.静寂の一時(湊side)
しおりを挟む「マカロンとロールケーキなら、どっちが好き?」
「どっちも美味しいよね。けど…しいて言うならロールケーキかなぁ。シンプルに美味しい」
「わかる!ロールケーキのシンプルな甘さいいよね。マカロンは好きな人は好きだけど、人を選ぶ甘さ」
きらきらした瞳で語る雲雀が可愛すぎて尊死しそうだ。
正直言うと、マカロンもロールケーキも同じ甘さに感じるし特別好きなわけでは無い。ただ、雲雀はきっとロールケーキが好きだろうと予想して答えを選んだだけだった。
それでも、雲雀の愛らしい笑顔を見る為なら何だっていい。俺はマカロンもロールケーキも大好物になってみせる。
「湊さんなら、ロールケーキのシンプルな甘さをわかってくれると思ってた」
にこにこ微笑んで語る雲雀。ロールケーキを選んでよかったと心底感じた。
雲雀との充実した日々を過ごしながら、たまに思う。
こんな幸せな日常を送って、いつかバチが当たらないだろうかと。今まで無駄に人生を過ごしたからこそ、この先は幸せになんて都合のいい望みが果たして通じるのだろうかと。
俺は今、間違いなく幸福なはずだ。
雲雀という唯一がそばに居て、愛し愛されて。こんなにも充実した幸福は、失ったら二度と手に入らないと確信出来る程。
だからこそ、恐怖も比例して倍増する。幸福とは常に一定の対価の元得られるもので、俺はまだ何も失っていないから。
これ以上なんて無いと断言出来るくらい、大き過ぎる幸福。これと同じ重さの価値があるものなんて、俺には一つしか思い浮かばない。
『俺も…愛してる』
愛してるよと伝えると、淡く微笑んで同じ言葉を返してくれるあの子。
抱き締めると抱き締め返してくれて、想いを告げると同じ想いを返してくれる。そんな優しい彼の笑みが、消えそうなくらい儚く浮かぶのだ。
この幸福に怯える必要なんて本来無いのに。ただ享受して、噛み締めて、愛していればいいだけなのに。それでもどうしても、言い様のないこの恐怖が消えてくれない。
いつか失ってしまうんじゃないか。
そんな不安だけが、常に燻っていた。
* * *
おかしいな、と思い始めたのは丁度1ヶ月ほど前だったと思う。
不安が現実に可視化するような、そんな変化があった。いつも深淵のような闇を抱える彼の瞳は、更に暗く黒く塗り潰されていた。
雲雀が何か、"良くないもの"を背負っていることは何となく察していた。
けれど踏み込んだら逃げられてしまいそうで、消えてしまいそうで。だから知らないフリをして。
出会った頃から抱いていた小さな違和感は、共に過ごす内にどうしたって大きくなっていく。
例えばそれは、作り物のような笑顔だったり、それとなく甘い空気を避ける仕草だったり、今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気だったり。
一歩踏み入れば、きっと彼の本質は理解出来たのだろうと思う。根幹も、事情も、全てを知ることが出来たのだと思う。
けれど、その代わりに失うものもきっと多かったはずだ。そしてそれは見て見ぬフリをするよりも、大きな対価だった。
だから踏み入らなかった。雲雀を失いたくない、願いはただそれだけ。彼を失わないで済むなら、どんな闇からも目を逸らしたって良かった。
けど俺は間違えた。大きな過ちを犯してしまったのだ。
彼を失わない為の選択は、全て真逆の結果しか生んでいなかった。初めから間違えていた。
俺は雲雀を失わない対価に、雲雀そのものを犠牲にしていたのだ。
『雲雀、お前その汚い体で彼氏ともヤってんのか?』
忌々しいあの餓鬼の笑み。それを見て深淵を揺らした雲雀。その言葉の意味を理解した時には、きっともう全てが遅かった。
瞬間湧き上がる激情。雲雀がその場から走り去って、あの餓鬼を酷く痛め付けた後も、それは全く消えなかった。そしてそれはたぶん、一生消えないのだろうと。
自分が甘かった。守っているつもりが、何一つ守れていなかった。
これからは手加減なんてしない。そう誓った。誓うには既に遅過ぎたが、何もしないよりかはマシだ。
手始めにあの餓鬼の全てを壊して、絶望を与えてやった。雲雀が受けたであろうそれよりも、もっと大きな絶望だ。一生後悔する程の…いや、死んでも後悔する程の。
ついでにあの女も徹底的に潰した。俺と雲雀の周りを鬱陶しく動き回るあの女。愛らしい雲雀の近くに鼠が潜むなどあってはならない事だ。だから、消した。
婚約など冗談では無い。雲雀以外の人間が俺に触れるなんて、考えただけで反吐が出る。四宮という大きな組織を潰したのは此方側としても損害が少なくは無かったが、雲雀の為を思えば安いものだ。
父も呆れてはいたが、咎めはしなかった。あの人もやはり、四宮を良く思ってはいなかったらしい。
『…まぁいい。もう好きにしろ』
苦笑を浮かべて父は言った。思えばあの人はいつも、俺と会う時苦笑を浮かべていた。
正直言うと、会社も家もどうでも良かった。俺には雲雀さえ居れば良かった。雲雀が居れば、あとは何もかも要らなかったのだ。
だから、会社を継ぐ気も当然無かった。企業のトップに立つなんて、雲雀との時間を進んで削るようなものだ。
雲雀との未来も今から具体的に考えているのだから、邪魔になるものは必要無い。それなのに、そんな俺を嘲笑うかの如く邪魔者は増えていく。
尼崎とやらから芋蔓式に、雲雀に傷を与えた人間が明らかになっていく。それは予想以上に多くて、自分の無能さに唖然とした程だ。
全員を一気に消すと雲雀に怪しまれてしまうので、一人ずつ徹底的に潰していくことにした。
そうして全てを片付けられると思って満足していたが、それはどうやら違ったらしい。久々に会った雲雀は、寧ろ以前よりも暗く見えた。
深淵が少しでも消えていると思っていたのに、そこにあったのは最早光が見えない程に黒く染まった瞳。会話を重ねる度に、俺を見る彼の表情からは色が無くなっていく。
分からなかった。どうすればいいのか、原因さえ分からないから尚更。
彼の口から出た言葉にも一々驚愕してしまう。あの女の存在を雲雀に知られていたことも、大きな誤解を与えてしまっていたことも。
慌ててそれを否定するが、雲雀の表情は一向に晴れない。鋭い指摘に返答はしどろもどろになるばかりで、全てを話すことも出来ない。
雲雀の指摘に正直に答えるということは、俺の本性まで知られてしまう可能性があるということ。
それは耐えられなかった。自分でも分かるほど俺は異常で、酷く歪んでいる。天使のように美しい雲雀に全てを伝えるには、俺は穢れ過ぎているのだ。
だから、何も答えられなかった。重く口を閉ざす俺に失望したのか、雲雀はその後、何も言わずに席を立ってしまった。
止めるつもりが声は出ず、引き止める手すら動かない。
『待ってくれ』
その言葉が出る前に、雲雀は無言で部屋を出て行ってしまった。後ろ姿がまるで俺を拒絶しているようで、ついた膝も、固まったように床に縫い付けられたままで。
黒を基調とした無機質な部屋。そのテーブルに置かれた白い箱がやけに異様で、無意識に手が伸びる。
震える手で開けたその箱の中には、二つのケーキが入っていた。一つは完璧に作り上げられた形のもので、もう一つは酷く歪な形をしたもの。
どうしてか完璧な方には全く興味が湧かず、俺はそっと、歪な形のそれに手を伸ばした。箱の側面に貼り付けられていたプラスチック製の小さなフォークを取って、歪なそれを一口含む。
「……美味しい…」
声は震えていた。視界も緩く滲んでいる。
何か、自分にとって良くないことが起こる予感。それを抱えて尚、動く気力は湧かなかった。ついさっき見送った、雲雀の後ろ姿が脳裏から離れない。
ケーキの形は酷く歪んでいたのに、味はおかしいくらい完成されていた。控えめに甘く、まるで雲雀のようだと思った。
愛おしいほど歪んでいて、けれど甘い。
雲雀そのものだった。
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