上 下
17 / 240
一章

17.手を伸ばす意味

しおりを挟む
 

「ねぇねぇご主人様ぁ」

「俺は今はむはむで忙しい。あとにしろ」

「えぇーほんとにいいのぉ?別にご主人様がいいならいいんだけどさぁ」


 癒しのはむはむタイムを邪魔されムスッと眉を顰める。
 お前の耳ははむはむしないって言ってるだろ、と呆れ顔で言うと、ジャックは「そうじゃなくてぇ!」とぷんすかしながらピシッとどこかを指さした。
 なにごとかね、と振り返りぎょっとする。何かが見えたわけじゃなく、指し示された方向から高いヒールの音が微かに聞こえたからだ。

 サーッと途端に青褪めながら「な、なっ!」と震える俺を見下ろし、ジャックはほら見たことかと頬を膨らませて言った。


「ご主人様、ぜぇったい作戦のこと忘れてたでしょぉ」

「そ、そっ、そういうわけじゃ……!」


 ギクゥッと大きく肩を揺らす。これは動揺しているわけじゃないぞ、ほら、あれだ、最近ちょっぴり寒くなってきたからさ、うむ。

 なんて春の暖かさに包まれながら考えている中も、高く響くヒールの靴音は容赦なく近付いてくる。
 まずいまずい……母とアンドレアの間に起こる事件について、はむはむに夢中ですっかり忘れていた……!


「ジャック、ガウ!はやくっ、はやくシャキッとしろ!作戦通りに動け、いいな!」

「ご主人様が一番シャキッとしてなかったけどねぇ」


 今はジャックの言葉が聞けない耳になっているので、不満げなツッコミは華麗にスルーしてそそくさと位置についた。
 アンドレアと直接話したり、ここにいることに直ぐ気付かれてしまったり……ここまでは正直作戦通りとは言えない進行具合だったけれど、今からは別だ。

 展開的に、この靴の音は母で間違いない。
 これから例の事件が起こるはずだから……そこからはきちんとしよう。さっきまではちょっぴりぐーたらしてしまっていたけれど、今からは本気を出す。だから大丈夫、問題なし。
 心の準備が整わないまま作戦が始まったことに胸の嫌なドキドキが止まらないけれど、我慢してムグッと気配を消した。

 茂みからそーっと顔を出し、静かに湖を眺めるアンドレアを見つめる。
 やがてアンドレアも足音に気が付いたのか、ふいに音のする方を振り返った。


「──あらまぁ。アンドレアったら、どうしてこんな所に?」


 予想通り、現れたのは母だった。
 俺の存在には気が付いていないらしい。こんな場所に人が集まるわけないと高を括っているのか、母は周囲を確認することなくアンドレアに近寄った。
 ……こういうところ、ほんと無能な小物悪役って感じだなぁ。


「──……」


 それにしても……角度の問題だろうか、陽射しやら影やらがちょうど色々と重なって、アンドレアの表情がよく見えない。
 母の登場に一言も発さず黙り込んでいることから、少なくとも良い心情を抱いているわけではないのだろう。それをすぐに察して苦々しく眉を寄せた。

 この先の展開を知っている身からすると、今すぐにでも飛び出してアンドレアを助けてあげたいけれど……でも、まだだ。まだダメだ。

 助けるのは、アンドレアが母の悪意を悟ってから。
 アンドレアを母から守ることは最優先事項として、同時に『弟が自分を助けてくれた』という確かな恩をアンドレアに感じてもらわなければならない。
 だから、まだダメ。もう少し待って、母がアンドレアに悪意を向け始めたと同時に飛び出すのだ。


「……何なの、その無礼な態度は。本当に不気味ね、まったく忌々しい」


 ニッコリ笑顔から悪意の滲む嫌悪の表情へ。突然切り替わった母の顔にギョッと硬直する。

 え、えっ、もう?もうなの!?はやくない!?
 せめて二三言にこやかに交わしてから嫌味が始まると思っていたのに。
 想定を裏切り、めちゃくちゃ早い段階で嫌味モードに切り替わった母のせいで、びっくりして動きが遅れてしまった。
 ぽけーっと驚きで硬直する間に、母は更にヒートアップしてアンドレアに罵声を浴びせる。


「──お前も実母と一緒に死ねば良かったのよ!」


 むぅっ!あの悪ママめ……子供になんてことを言うんだっ!
 もう我慢ならん!予定より少し早いけど、さっさとアンドレアを助けてあげよう!

 ……なんてヒーローの如く立ち上がりかけたその瞬間。母が次に放った言葉に再びピタッと固まってしまった。


「──お前さえ居なければ、ルカが後継者の座について、私はあの方の寵愛を難なく手に入れることが出来たのに!」


 な、お、俺の名前を出すんじゃないよ、この悪ママめっ!

 突如母の罵声の中に強制登場させられた俺、怒りと焦りであわあわと大混乱してしまう。
 もしかして、母はいつもあんな風な罵声をアンドレアに浴びせているのだろうか。だとすればかなりマズイ。

 罵声を作り上げる一部となっている俺のことも、アンドレアは日頃から恨んでいた可能性……それがここに来て浮上してきてしまった……。
 もしそうだとしたら、エビ事件の時の奮闘も無駄だったということになる。俺が何もしなくとも、母のせいでアンドレアが俺への恨みを蓄積させていたのだとしたら……それはもう、どうしようもない。

 ゼロから必死で立てた作戦も、全部意味なんてなかったってことになる。

 ちら、と微かにアンドレアの様子を盗み見る。
 相変わらず表情はよく見えないけれど、やっぱり黙り込んだままというのが少し怖い。これじゃあアンドレアが俺に恨みを抱いているかどうか確認するのは不可能だな……。
 まぁ、そういうことなら仕方ない。リスクがあると分かった以上、このまま呑気にしておくのも危険だろう。


「……ジャック」


 俯きがちにジャックの名を呟く。
 ほんの小さな声だったけれど、ジャックはきちんとそれを捉えてくれたらしい。ものの数秒で俺の隣に戻ってきたジャックは、甘く微笑んで「なぁに?ご主人様」と首を傾げた。
 いつだっていつも通り。そんなジャックの様子に少し力を抜きながら、俺はぽそりと囁いた。


「作戦は失敗するかもしれない。準備しといてくれるか?」

「……!うん、うんっ!りょーかいっ」


 何がそんなに嬉しいのか。
 ジャックはニタァッととっても嬉しそうに微笑みながら、そそくさとどこかへ消えてしまった。

 その背を見送り、俺もスッと静かに立ち上がる。
 アンドレアに媚と恩を売れるかどうか。売れても売れなくても、どっちにしろ問題ない。だから、もう躊躇うことはない。
 俺には切り札のジャックがいる。大丈夫、大丈夫。だめそうな状況になったら、きっとジャックが救ってくれるはず。

 だから……!と、俺は震える体を叱咤して、茂みからガサゴソッと体を抜いて駆け出した。



「ちょぉっと待ったぁ!!」



 ヒーローは遅れてやってくる!とかなんとか、お決まりのセリフを紡ごうと口を開いた直後、見えた光景にその口をそのままあんぐりとかっぴらいた。

 アンドレアが……ふらりと倒れ込んでいる。それも、意外と深さがある後ろの湖に。
 あぁ、動くのが遅すぎたんだ。俺がぐーたらしている間に、アンドレアは結局たくさんの罵声を浴びせられて、こうして倒れて……いや、違う、違うだろ。

 なに諦めてるんだ。まだアンドレアは湖に落ちてない。
 まだ、まだ間に合う!俺がアンドレアを、しっかりきっちり助けるんだ!


「──っ……アンドレア!」


 ドヤ顔から一転、焦燥の滲んだ表情でがむしゃらに走り出す。
 きっと傍から見たら、余裕のない、お世辞にもカッコいいとは言えない姿になっているはず。それでも、俺は本気で走った。

 本気で走って、アンドレアの腕を引っ掴んで、持ち得る限りの全力でこっち側に引っ張って。
 その反動でくるりと位置が入れ替わっても、最後まで絶対に諦めず。

 突然現れた俺を見て、母が何やら青褪めた顔で叫んでいるけれど……それは全く耳に届かず、視界の真ん中にも入らず。
 五感の全てがこの瞬間、無表情を驚愕の色に変えたアンドレアに集中していた。


「どうして……──」


 それはさっきまでの淡々とした、冷酷な声じゃない。
 ただ純粋な疑問と驚きが含まれた、子供っぽい声。それを聞いてなぜだか安心した俺は、ニヤッと得意気に笑ってカッコよく返してやった。



「家族だもん」



 スローモーションみたいに、ゆっくりと湖に落ちていく感覚があった。

 ぼちゃんっ!という大きな音の後、体を突き刺したのは凍てつくような冷たい温度。
 寒さによって一瞬で動きを封じられてしまい、遠ざかる水面をただ眺めることしか出来ない。

 ガウかジャックか……もうこの際どっちでもいい。とにかく早く助けにこーい。
 なんて呑気に考えながら、朦朧とする意識を手放そうとした瞬間。ふいに水面がバチャンッ!と揺らいで、誰かが飛び込んできたのが見えた。

 やっと二人の助けが来たか、とほっとしたのも束の間、一瞬有り得ないものが見えた気がして息を呑む。
 意識を手放す直前、最後に見えたのは……。



 ──酷く焦ったような色を滲ませた、深いアメジストの瞳だった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】最強公爵様に拾われた孤児、俺

福の島
BL
ゴリゴリに前世の記憶がある少年シオンは戸惑う。 目の前にいる男が、この世界最強の公爵様であり、ましてやシオンを養子にしたいとまで言ったのだから。 でも…まぁ…いっか…ご飯美味しいし、風呂は暖かい… ……あれ…? …やばい…俺めちゃくちゃ公爵様が好きだ… 前置きが長いですがすぐくっつくのでシリアスのシの字もありません。 1万2000字前後です。 攻めのキャラがブレるし若干変態です。 無表情系クール最強公爵様×のんき転生主人公(無自覚美形) おまけ完結済み

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!

音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに! え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!! 調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。

甥っ子と異世界に召喚された俺、元の世界へ戻るために奮闘してたら何故か王子に捕らわれました?

秋野 なずな
BL
ある日突然、甥っ子の蒼葉と異世界に召喚されてしまった冬斗。 蒼葉は精霊の愛し子であり、精霊を回復できる力があると告げられその力でこの国を助けて欲しいと頼まれる。しかし同時に役目を終えても元の世界には帰すことが出来ないと言われてしまう。 絶対に帰れる方法はあるはずだと協力を断り、せめて蒼葉だけでも元の世界に帰すための方法を探して孤軍奮闘するも、誰が敵で誰が味方かも分からない見知らぬ地で、1人の限界を感じていたときその手は差し出された 「僕と手を組まない?」 その手をとったことがすべての始まり。 気づいた頃にはもう、その手を離すことが出来なくなっていた。 王子×大学生 ――――――――― ※男性も妊娠できる世界となっています

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

転生するにしても、これは無いだろ! ~死ぬ間際に読んでいた小説の悪役に転生しましたが、自分を殺すはずの最強主人公が逃がしてくれません~

槿 資紀
BL
駅のホームでネット小説を読んでいたところ、不慮の事故で電車に撥ねられ、死んでしまった平凡な男子高校生。しかし、二度と目覚めるはずのなかった彼は、死ぬ直前まで読んでいた小説に登場する悪役として再び目覚める。このままでは、自分のことを憎む最強主人公に殺されてしまうため、何とか逃げ出そうとするのだが、当の最強主人公の態度は、小説とはどこか違って――――。 最強スパダリ主人公×薄幸悪役転生者 R‐18展開は今のところ予定しておりません。ご了承ください。

異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします。……やっぱり狙われちゃう感じ?

み馬
BL
※ 完結しました。お読みくださった方々、誠にありがとうございました! 志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。 わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!? これは、とある加護を受けた8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。 おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。 ※ 独自設定、造語、下ネタあり。出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。 ★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★ ★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★

魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました

タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。 クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。 死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。 「ここは天国ではなく魔界です」 天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。 「至上様、私に接吻を」 「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」 何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?

悪役令息に憑依したけど、別に処刑されても構いません

ちあ
BL
元受験生の俺は、「愛と光の魔法」というBLゲームの悪役令息シアン・シュドレーに憑依(?)してしまう。彼は、主人公殺人未遂で処刑される運命。 俺はそんな運命に立ち向かうでもなく、なるようになる精神で死を待つことを決める。 舞台は、魔法学園。 悪役としての務めを放棄し静かに余生を過ごしたい俺だが、謎の隣国の特待生イブリン・ヴァレントに気に入られる。 なんだかんだでゲームのシナリオに巻き込まれる俺は何度もイブリンに救われ…? ※旧タイトル『愛と死ね』

処理中です...