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【聖者の薔薇園-開幕】

257.君だけ

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 聖者の気配がする場所は神殿の最上階。そしてその中心部。
 神に最も近い場所と呼ばれる場所だ。神に最も近い存在だったり属性だったり、神殿は人を超えた者という立場に至上の価値を生み出すのが好きらしい。
 その場所は聖域とも呼ばれ、聖者が持つ聖力が最も効果を発揮しやすいところ。そうマーテルが設定したのだろう。

 階段を駆け上がって長い廊下を抜ける。道中の神官や聖騎士は既に降伏した後だったから、堂々と動けて楽に来ることが出来た。
 そうして見えた高い天井につくくらいの大きな扉の前。ようやく、僕とライネスはその場所に辿り着いた。

 神と聖者しか入ることを許されない聖域。
 そっと握っていた手から力を抜くと、それに気が付いたライネスが縋るような視線を向けて手を強く握り締める。繋ぐというよりは掴まれると言った方が正しいその力に、思わずふにゃりと微笑んで眉を下げた。


「ライネス」

「っ……フェリ…」


 ライネスが崩れ落ちるように膝をつく。すかさずぎゅーっと抱き締められて、それを抵抗せず受け入れた。
 啜り泣く声。静寂が流れる広い空間だからか、その声は鮮明に響いて胸を締め付ける。ぎゅうっと抱き締め返してうりうりすると、ライネスのぽかぽかを感じて心があったかくなった。

 ライネスはお兄さんだから、僕みたいな子供を宥めるのは得意だったのかな。初めて会った時から、優しい声とぎゅーが心地良くて大好きだった。
 兄様達やレオとは違って、いつも一歩引いたような距離が何処か寂しかった。本当の兄とは言えないし、レオのように大事な友達とも言えない微妙な距離。かと言って、シモンとの主従関係のように距離が保たれているわけでもないし特別何かが深いわけでもない。
 それでも、そんな不思議な距離が心地よかった。これだけは確かだ。

 いつかの祭りの夜を思い出す。あの日は聖者の覚醒で帝都中が祭りどころではなくなってしまったから、最後まで花火を見ることが出来なかった。
 最後の余韻まで、ライネスと一緒に楽しみたかったのに。それだけが少し残念だ。


「ライネス、ここからは僕だけで行く。ライネスはみんなの所に戻って」


 少し視線を伏せて言う。ライネスの悲しそうな表情を見ると胸がきゅっと締め付けられて、その一瞬の苦痛にすら耐えられなくなったから。

 下ろした視線の先にあるのは自分の体。見える範囲で、既に手の指の先端は完全に見えなくなっていた。
 手のひらはまだ薄ら見えていて、感覚もある。手を繋いでいる時にライネスも恐らく察しただろう。もう繋いだ感触は弱くなっているはずだ。さっきだって、ライネスの温もりがあまり感じられなかったから。


「……一緒に帰ろうね。全部終わったら、一緒に」


 視界では見えない。頭上から聞こえてきた声に思わず喉奥と目頭が熱くなる。切実な声音に何も返せない、その事実が苦しかった。


「…みんなの所には、戻らない。ずっと待ってる」


 背中に回っていた腕が解ける。ずっと待っているという言葉通り、ライネスはその場から動く様子を見せず膝をついたままだった。皆の元に戻る気配は感じられない。
 本当に、全て終わるまでここで待つつもりらしい。こんな危険な場所にいて、本当はみんな神殿から逃げてもらいたいところなのに。ライネスが心配だったけれど、でも反論はしなかった。出来る状態ではなかった。
 せめてこれだけはと、縋るような姿に何も言うことが出来なかった。


「伝えたいことがあるんだ。だから、絶対に戻ってきて」

「伝えたいこと…?」


 もうほとんど感覚の無い両手を包み込まれる。首を傾げて問い返すけれど、ライネスはその伝えたいことというものを教えてはくれなかった。
 ただ淡く微笑んで、僕の体温を確かめるみたいに手をぎゅっと包むだけ。透明化が進む指先はもう掴めないみたいで、透けた境界線の辺りが少し不思議な感覚だった。


「うん。前回からずっと、言えなかったこと」


 前回。その言葉に含まれる意味を察する。前回ということは、ライネスも一度目のことを思い出したのだろうか。一体いつから…。
 レオも夢で徐々に思い出したと言っていたし、他のみんなもそうなのかな。表に出さないだけで、徐々に思い出していたのかな。
 シモンや僕みたいに突然全てを告げられ思い出し、理解させられるわけじゃない。確実に受け止められるだけの時間があるから、みんなこんなに冷静なのかも。


「だから、絶対戻ってきて」

「……」


 あぁ、でもどうしよう。絶対という願いに答えられる言葉がない。
 正直に言ってしまうなら、僕はもう覚悟を決めているのだ。その覚悟はマーテルを倒すという意味だけじゃなくて、自分ごと存在を消し去る覚悟。だから、ライネスの絶対には応えられない可能性が高い。

 本当のことを言わないと。聞かれたことにはきちんと答えなければいけないから。
 でも、でも…分かっていても、狡い答えが浮かんでしまう。包まれていた両手を引き抜いて逆にライネスの手を包み込み、ふにゃりと頬を緩めた。


「うん。約束ね」


 指切りをしようとして気が付いた。
 小指の感覚が既に無くなっている。透けた指を絡ませることはもう出来なかった。




 * * *




 ──…あぁ…あの子が行ってしまう。


 優美な神の姿が描かれた荘厳な扉。そこへ走り去る小さな後ろ姿を見て息を吐いた。
 体は動かない。彼を引き留めることも、呼び止めることも出来ない。ただじっとその姿を見守って、覚悟を背負った後ろ姿を忘れないよう脳裏に焼き付けた。

 嘘つき。そう言ったら繊細なあの子はきっと泣いてしまうだろう。
 素直で正直者で、純粋なあの子が最後の最後に嘘を吐いた。あの子が嘘を吐くのは、人を想った時だけだ。自分のことなんて無頓着で、他人ばかり守ろうとするあの子の優しい嘘。
 指切りは出来なかった。それがあの子の決意を確固たるものにしてしまった。約束をしてしまえば、優しいあの子は罪悪感を抱いて行動を躊躇する。けれど、約束は出来なかった。
 だからあの子は…フェリはもう止まってくれないだろう。


「……フェリ」


 やっぱり伝えればよかっただろうか。いや、きっと何も伝えないままでよかった。
 これ以上フェリに重荷を背負わせるのも何か違う。それは無理やり業を背負わせた前世と同じ行為ではないのか。

 胸の内に秘めた本心をフェリが知ることは…もしかしたら、ないかもしれない。寧ろその可能性の方が高いだろう。けれど思考は止められない。
 まだ何かあるなら。あるとすれば。そんな足掻きがまだ頭の中にある。実際に引き留めることは出来なくても、本音は諦めを知らないらしい。


「…フェリアル」


 あの子の名は心地良い響きを持っている。名を紡ぐだけで温もりが冷え切った心を溶かす。

 もし、もしも本当にあの子が戻って来たなら。その時は伝えよう。今まで冗談半分で紡いできた言葉じゃない。確かに想いを籠めた本心を。
 何を大人ぶっていたんだか。お兄さんなんて柄じゃない。次に会えた時は、みっともなく喚いて縋って伝えるのだ。情けない涙を晒してでも、それすらあの子の同情を誘う武器として。



 愛してる。



 今は伝えられないその言葉を、いつか君に。

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