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【聖者の薔薇園-開幕】

226.前夜

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 路地を進んだ先には、少し開けた公園のような場所があった。古ぼけた木柵とベンチが二つ、薄明かりの街灯が一つ。僕達以外には誰もいない。
 そこに辿り着いたライネスが僕を下ろし、柵のところまで手を引いて進む。見下ろすと下町の街並みが見えて、所々にぽつぽつと光る灯にぱちくりと目を丸くした。


「ライネス。ここにもぐもぐあるの?」

「もぐもぐはないよ。良いものがあるから、それを見せてあげる」


 はっ!そうだった、もぐもぐはないんだった…。さっきまで寝惚けていたせいで忘れていた。恥ずかしいのぅ…ふすふす…。

 頭のてっぺんから湯気ぷしゅーしながら真っ赤な頬を冷ましていると、不意にライネスが「そろそろかな」と呟いて空を見上げた。
 きょとんとしながらそれに続いて、ライネスの隣にちょこんと並び僕も空を見上げてみる。
 視界に映っているのは真っ暗な夜空だけだけれど、一体どこに良いものがあるのだろう。ぱちくりしながら待っていると、やがて目下に見える街から歓声が微かに聞こえてきた。

 なんだなんだ、何が始まるのだとそわそわすると、ライネスに手をむきゅっと握られ硬直する。
 そわそわが収まった瞬間何かが地上から空高く上がっていき、やがて大きな音を立てて視界いっぱいに鮮やかな花が咲いた。


「……!」


 ぴしっと固まりながら目を瞬く。柵に両手を添えてほんの少し身を乗り出し、わっと見開いた瞳をじーっと空に向けた。

 二つめ、三つめ。瞬く間に増えていく大輪の花。ぽかんと口も目もあんぐり開いて見つめていると、ふとライネスにひょいっと抱き上げられた。
 どうやら無意識に柵から大きく身を乗り出してしまっていたらしい。むぎゅっと大人しく抱えられながらも花からは決して視線を逸らさず、はわ…と声にならない声を紡ぎながら手を伸ばす。


「……きれい」


 一つ前の人生。当時兄だった人たちと双子の弟が、夏になるとよく庭先でこれより小さなものを楽しんでいた。
 手に持てるもので、小さいけれど、窓から見下ろして見るだけでも綺麗だということはよくわかった。僕はやったことが無いし、間近で見たこともない。記憶は薄らとしか残っていないけれど、それでも。

 朧げに残る数多の人生の記憶。その中からぽつぽつと蘇る、空に咲く花の思い出。
 そうだ、手を伸ばしても届かないんだった。不意に思い出して腕を下ろし、ライネスにむぎゅっと抱き着いた。


「この場所、見晴らしが良いけどあまり知られていないんだ。人混みの中だと酔ってしまうかもしれないから、フェリにこれを見せる時はこの場所に誘いたくて…って、フェリ?」


 穏やかに話していたライネスの声がふと途切れる。肩に顔を埋めてしょぼんとする僕を不思議に思ったのか、ライネスが「大丈夫…?ここ嫌だった…?」と心配そうな声で尋ねてくる。
 それに力無く首を横に振って、抱き着く力を更にむぎゅーっと強めた。ライネスは戸惑いながらもそれに応えるようにむぎゅーを強くして、背中をぽんぽん撫でてくれる。

 ほっぺにふにゅっと手を添えられ持ち上げられると、嫌でも顔が上がってライネスと視線が合ってしまう。たちまち大きく見開かれた金色の瞳を見てしょぼぼんと眉が下がった。


「なっ…どうして泣いてるの…っ?」

「ん、うぅ…む、わからない…」


 ぐすぐすすると視界が滲んで、ライネスのびっくり顔がぼやけて見えなくなる。

 聞かれても、分からない。どうして泣いているのか分からない。唐突に過去の人生の記憶を思い出してしまったからなのか、それとも別の何かに胸が痛んだからなのか。
 ただ、悔しい。それだけは確かだ。僕は今まで数多くの人生を経験して、その全てできっと大切な人に出会って、そして奪われてきた。もしかしたら、今ライネスと見ているように、その人と空に咲く花を眺めることが出来たかもしれないのに。

 けれどこの実感は進歩の証でもある。今世では大切な人と見ることが出来た。これは以前までの人生に比べると大きな進歩だ。
 僕はまだ奪われていない。まだ希望はある。一度目の人生を、百度目の今回では変えられる。その確信を得た。隣に立つライネスがその証拠。

 こんな些細なことで前世の後悔を思い出すなんて。僕はまだ、もう戻らない空虚な人生を忘れたくはないのだろうか。捨てきれないのだろうか。
 たったひとつ前の人生の記憶すらもう曖昧なのに。確かに覚えていることと言えば二人の兄がいたことと、双子の弟がいたという事実だけだ。
 それでも、後悔は確かに覚えている。顔も名前も朧げな過去の兄達への、何とも言えない複雑な愛情を今でも覚えている。それは良いことなのか、酷く虚しいことなのか。


「ライネス…」

「うん。私はここにいるよ」


 ぎゅっと抱き着く。そうすると、ぽかぽか暖かい抱擁が返ってくる。
 今となっては何でもないこのやり取りが、本当はとっても貴重で奇跡的なことなんだって。絶対に忘れてはいけない。改めてそれを思い知った。


「きれいだね」


 ふわりと頬を緩める。ライネスの瞳が一瞬見開かれて、すぐにふわっと綻んだ。
 まだ微かに滲んだ視界では分からない。その金色の瞳には、僕の表情がどう見えているのだろう。
 ぎゅうっと強く抱き締められて、ライネスの肩にぐっと顔が埋まる。花が見えないなぁときょとんすると、不意に耳元に吐息がかかった。


「フェリ、私は…──」


 何処か切実な色が籠る声。瞬いた直後、その声は雷鳴のような音に遮られた。
 びくっと体を震わせながら「はわっ…!」と声を上げる。咄嗟の動きだろうか、ライネスが僕の耳をぐっと手のひらで覆って、雷鳴が聞こえた方角を見据えた。
 その視線につられて振り返り、見えた光景に大きく目を見開く。

 天から一本の糸が垂れるように、輝く一筋の光がとある一点に伸びていた。
 その先にあるのは、全体が真っ白で神秘的な外観をしている建物。光属性を生んだマーテルの像が祀られる帝都唯一の場所、大神殿だった。

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