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【聖者の薔薇園-プロローグ】
164.愛おしさの意味(レナードside)
しおりを挟む「殿下。何故逃げるのですか」
「……別に逃げている訳ではありません。ただ少し…見せる顔が無いだけで…」
「それを逃げると言うのですよ」
「……」
敬意の欠片もない護衛騎士を恨めし気に一瞥する。
それでも、語る言葉に正当性があるのは間違いなくギデオンだ。それは分かっている。分かっているからこそ、だからこそ苦しい。
逃げている自覚は当然ある。全く無意味で、愚かなことをしているだろうと。ただ、混乱と言いようのない酷い後悔が身の内を渦巻いて、どうにも乱れた情報の整理が追い付かないのだ。
フェリの侍従から聞かされた例の話。
悪い冗談にも程がある。初めはそう思っていた。実際、そう笑ってみたりもした。
だが侍従は…シモンは笑う私を静かに見据えるだけ。あの真剣な眼差しが、突拍子もないその話が事実であることを裏付けていた。
そんな話を聞いてしまったからなのか、はたまた別の理由の所為なのか。その日の夜から、妙な夢を見るようになった。
それは夢だというのにやけに現実味があって、非道で、残酷で。愛おしいものを自ら全て捨てていくような己の姿は、まさに悪そのものだった。
だというのに、実際に悪だと罵られているのは愛おしいあの子の方。私はそれを更に追い詰めるように、逃げ場を潰すように。
悪夢だ。あれは酷く残忍な、ただの夢。
そうに決まっているはずなのに。どうして夢を、あの子の最期を思い出す度、これほどまでに悲痛と後悔が湧き上がってくるのだろう。
「殿下。いつまでも塞ぎ込んでいては、事態が好転することは一向にありませんよ」
「それも…分かっています…。少し黙ってください…落ち込んでいる人間に正論を投げつけるのは得策とは言えませんよ」
「嫌味を吐く気力が残っているのなら結構」
「……」
本当に、一々苛立ちを逆撫でしてくる男だ。嫌味なのはどっちなのだか。
空気を読むという概念が無いのがギデオンの短所であり、長所だと思っていた。忌憚ない意見を何の躊躇もなく、皇太子である私に向けてくる人間は非常に少ない。
それでも今はただただ苛立ちが募るばかり。それと同時に、己への自己嫌悪がふつふつ湧き上がる。
「折角数日ぶりに外へ出たのだから、純粋な気持ちで花でも眺めてみてはどうです。殿下はやや荒み過ぎかと」
「……君が強引に連れ出しただけでしょう。塞ぎ込む主を無理やり引っ張り出すなんて…」
「殿下の悪評が広まる前に連れ出した私を褒めて頂きたいくらいです。引き籠り皇太子などと不名誉な称号を与えられたくはないでしょう」
淡々とした語り口が苛立たしい。ギデオンは他人の激情を刺激することにおいては一流だ。そのくせギデオン自身は感情の起伏が薄い為、基本的に口論ではギデオンに全く歯が立たない。
感情を抑える術は皇太子として幼い頃から身に着けているというのに、その才能はギデオンの方が強く持っている。護衛騎士に負けるなど、全く不甲斐ないことだ。
「それに、殿下が塞ぎ込んでいては私も外出できません。二日は禁欲を強いられているのですよ。そろそろ城の使用人たちも喰い尽くしてきた頃です」
「その生々しい話、今する必要ありますか」
やはりこの男、性欲が第一か。
私を心配しているわけでも特に無く、ただただ性欲の発散が出来ないから外に出ろと、そう言いたいらしい。
確かに私が籠るということは必然的に護衛騎士であるギデオンも城に籠ることになるが、だからといってその不服さをこうも生々しく宣言してくるとは思わなかった。
「私に禁断症状が出る前になるべく早く立ち直ってください。昨夜は穴への欲求に堪え切れず、調理用に育てられていた兎を犯してしまいましたよ。飼育係に大目玉を食らいました」
「当然ですよね。その兎絶対に私の食卓に出さないで下さいよ」
晴れやかな昼間の庭園で何という衝撃発言をかますのか、この男は。
「私が犯したいのは兎ではなく人間なのです。出来れば華奢な少年少女を希望します」
「それ表で言わないで下さいね。私の品格まで疑われかねないので」
「まぁそれは妄想の内に留めておくとして。本当に犯すのは合法ショタですのでご心配なく」
「今の話の何処に安心する要素ありました?」
ご心配なくの意図が理解出来なさ過ぎて逆に恐怖だ。淡白な語り口のくせに発言内容は狂っているから、その温度差で風邪を引きそうになる。
風邪…そういえばフェリはもう大丈夫だろうか。一時はかなりの高熱を出したと聞いたが、あの子の苦しむ姿は己の死に様よりも見たくない。
見舞いに行きたい衝動を何とか堪えて、まずはこの混乱に整理をと思っていたが。数日経っても未だにうじうじと悩みこんだまま。ギデオンの言う通りいい加減立ち直らなければ多方面に影響が出てしまう。
一応私は皇太子だから。こうして私情で悩むような時間すら本来与えられない立場だと言うのに。
自立しているなんて思っていたが、実際はかなり甘えているという事実に気が付いた。
「……フェリ…」
「心配なら会いに行けばいいでしょうに。肝心な時に奥手な男など、官能小説では当て馬確定演出ですよ」
「そこは恋愛小説と言ってほしかったですね」
出典元が露骨に性的すぎる。
どこか締まらないギデオンの一言に溜め息を吐く。
それでも、その言葉の大部分には概ね共感だ。肝心な時に動けるからこそ心を射止めることが出来るわけで、そうでない人間に報われる資格は無い。
胸の内で誰よりもあの子を愛おしいと思ったところで、それは所詮己の中だけの呟きだ。実際は、それを実際に口にするものがリードする。
確かに小心者の私では、あの子の主人公になれることは無さそうだ。
「一度当たって砕けてみてはどうです。どうせ彼のことが好きなのでしょう」
「は…、いや、別にそういうことでは…」
「では何ですか。彼への執着と感情をどう説明するつもりなのか是非教えて頂きたいです」
「……」
ギデオンの不意の言葉に動揺する。
周囲からはそう見えるのか、と。抱くのは困惑と納得だ。
正直言って、フェリへの感情を言葉にして説明しろと言われても何も答えられない。その答えは私にも分からないからだ。
フェリのことは愛おしいと思っている。大切にしたい、守りたい、ずっと仲の良いままで。けれどそれは単なる庇護欲で、例えるなら実の兄弟にも誰だって抱く感情だろう。
好きとは、どういう意味の好きなのか。恋愛感情だなんて言い切れない。愛にもそれぞれ全く別の意味があって、感情に疎ければ疎いほど自覚までには時間がかかる。
私がフェリに向ける『好き』は、一体どういう形で、どんな色をしているのだろう。
「私が…フェリに恋愛感情を抱いているように見えますか」
ふと独白のように尋ねる。ギデオンは訝し気に首を傾げると、フェイスベールの下で呆れたような溜め息を吐いた。
「その問いをする時点で、既に答えを自覚しているという事実にまだ気が付きませんか」
遠慮の無いその一言は、屈折することなく真っ直ぐ胸に突き刺さった。
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