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後日談
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しおりを挟む藍色の髪を靡かせて彼が来る。瞳の奥に仄暗い闇を潜ませた、けれど誰より優しい彼が。
幼少期、初恋の彼と過ごした、あの夢のような日々。僕はある時、ちょっとした葛藤に苛まれていた。
彼と出会ってからは、散歩の度に毎日のように彼を探して歩いているから、流石に彼も僕の下心に気付いてしまうかもしれないなんて。
もうすぐ彼とすれ違うというところでふとそんなことを思い、幼い僕は慌てて踵を返した。顔を真っ赤にして、会いたくて堪らない、話したくて堪らない彼の元から逃げ出した。
道を逸れて森に入り、大きな木の根元に蹲って。
そうして息を殺し、彼がいつもの道を通り過ぎるのをじっと待つ。こんなに毎日のようにすれ違うなんて、普通に考えておかしいと感じるだろう。僕が彼に会いたいが為にルートを変えて歩いていることに気付かれてしまうかもしれない。
今日は我慢しよう。そうして、必然じゃなく偶然と呼べるレベルまで日が経ったら、また偶然を装って彼に会おう。一言でいい、ほんの少し話すだけでいいから。
それだけでいい。僕はただ、初恋の彼の姿を一目見たいだけなのだ。
『どうしよう……気持ち悪いって思われてたら……』
もしかしたら、彼はもう既に気が付いているかもしれない。僕の明確な下心に。
あの銀色の瞳は綺麗だけれど、下心のある僕は真っ直ぐにその瞳を見つめ返すことが出来ない。なぜなら、あの瞳に射抜かれると、まるで全てを見透かされたかのような気分になるから。
なんて、そんな後悔を今更したって意味はない。どうせこの療養期間だけの淡い関係だ。
きっと彼は僕のことなんてすぐに忘れるだろうし、僕は病のせいで長くは生きられない。この初恋を抱えたまま、彼の幸せを祈って終わる。僕と彼の関係はそれだけ弱いものなのだ。
それでいい。それで、僕は……。
『──セディ?』
ふいに頭上から聞こえた声にハッとする。
まさか、と強く音を立てる鼓動を鳴らしながら見上げると、そこには木の根元……そこに蹲る僕を見下ろす彼の姿があった。
『こんな場所で何をしている?具合が悪いのか?』
心配そうに眉を下げるギル。ぽかんとした硬直を慌てて解き、湧き上がる混乱のままに問い掛けた。
『ど、どうして、ここにいるってわかったの……!?』
僕がここにいるって、どうして。森に入れば気配なんて分からない。鬱蒼とした木々で、ただでさえちっぽけな僕の体なんて絶対に見えなかったはずなのに。
そう言うと、ギルはきょとんと瞬いてから微かに笑った。
『……当然、気付く。セディが何処に居ても、絶対に探し出す』
まるで愛おしいものを見るような、その瞳に勘違いしそうになったから。
僕は慌てて目を逸らして、真っ赤な頬を隠すように俯いた。すると隣に彼がしゃがみ込む気配がして、更にぽっと全身が熱くなる。
彼は嘘を吐かない。きっと本当に、僕がどこにいても彼なら難なく見つけてしまうのだろう。僕の葛藤や下心なんてお構いなしに。
そんな彼の真っ直ぐな優しさが嬉しくて、けれどなんだか焦れったくて。
彼が僕の頭をぽんと撫でるのと同時に、淡い恋心が更に熱を増した気がした。
* * *
突然大きく変化した公爵様……ギルの接し方に理解が追い付かず、部屋を飛び出したのはつい数分前のこと。
庭園の大きなトピアリーの裏に隠れるようにして蹲り、さっきのギルの言葉や甘い表情を思い出す。あのギルが……あの公爵様が僕に微笑んで見せた、それだけじゃない。あ、あ、愛している、なんて……。
じわじわと実感が追い付いてくる。長い間叶わないと諦めていた初恋が、突然叶った。そんな夢のような実感が。
「僕は、ギルが好き……ギルも、僕のことが……」
思い出すのは優しい微笑み。途端にぼんっと湯気が飛び出すくらい全身が熱く、顔が真っ赤に染まった。
「う、うそ……うそ……っ」
ほっぺを抓って無理やりぐにゃーんと伸ばす。痛い。痛みがある。つまり現実だ。
寝込んで夢を見ているわけじゃない。さっきのこともギルの甘い瞳も、全部現実なのだ。
理解が追い付いても体は動かない。咄嗟に部屋から逃げ出してしまったけれど、この状況から一体どんな顔をして戻れば良いのだろうか。
あれだけ冷めきった関係と日々を続けておきながら、今更何もなかったみたいな顔で戻ることなんて出来ない。絶対に気まずくてまた逃げ出してしまう。その光景が鮮明に浮かぶ。
けれど、そんな面倒なことを繰り返せばそれこそ本当にギルに嫌われてしまうかもしれない、今は何かの奇跡で僕のことを好きになってくれたみたいだけれど、こんなに面倒な本性を知られたらどうなるか……考えるだけで怖くて震える。
湧き上がる不安から逃れるように、抱えた膝に頭を埋める。するとふいに、近くから足音が聞こえてハッと顔を上げた。
「セディ」
顔を上げたと同時にあんぐりと間の抜けた表情を晒す。呼びかけと共に隣に腰を下ろしたのは、ついさっき振り切って部屋に置いてきてしまったギルだった。
どうして。そんな言葉が無意識に零れてしまったのか、それとも問いが顔に出てしまっていたのか。
ギルは柔らかく微笑むと、かつての幸福な日々を連想させるような甘い声で答えた。
「……言っただろう。セディが何処に居ても、絶対に探し出すと」
その表情が、初恋の彼と重なった。
視界がふいに滲む。ぽろぽろと大粒の雫が零れ落ちて、ぼやけて見える彼がそれを優しく拭ったのが霞んだ視界で見えた。穏やかな雰囲気に、甘い空気が加わったのを機敏に悟る。
むぐっと噤んだ唇に彼の親指が這って、思わずきゅっと目を閉じた。その直後、ふにっと柔らかい感触が唇に触れる。熱い吐息を間近で感じて、頬が赤く染まった。
「……セディ、私のセディ」
どれだけ鈍くても、目を逸らせないくらい感情の籠ったその声。
いっそ溺れてしまうくらいの愛情が籠った声にふと目を開くと、至近距離で蕩けた銀色の瞳と視線が合った。
「私が馬鹿だった……私が愚かだった所為で、君に苦痛を強いてしまったことを謝罪する。本当にすまない」
そう言って頭を下げるギルにおろおろと慌てる。
謝るなら僕の方だ。そもそも僕が勘違いさせるようなことをしなければ、ギルが誤解して一人で全てを抱えることもなかった。僕がきちんとしていれば、初めから起こらなかったすれ違いだったのだ。
だから、謝らなければいけないのは僕の方。ギルをこんなに苦しめて……湧き上がるのは後悔ばかりだ。
「そんな……僕の方こそ、ごめんなさい。僕が初めに、ちゃんと気持ちを伝えていれば……」
ギルが誰より優しい人だってことを知っていたのに。
違和感から目を逸らして、すぐに諦めたあの日の自分が嫌になる。彼の傍に居られるならと狡い考えをしないで、真正面からきちんと向き合っていたら、きっとこんなに拗れることもなかった。
後悔を感じて肩を落とす。見るからに暗い空気を纏い始めた僕を見下ろし、ギルはふと膝を立てて恭しい姿勢をとった。まるで僕に跪くかのような、そんな姿にぎょっとする。
ギルが僕の手を柔く握って、ふいに語った。
「セディ。もう一度……改めて君に、正式に求婚させてくれないか」
「……求婚?」
予想外の言葉にぱちくりと瞬く。求婚どころか、僕達はもう結婚しているのに。
一体どういうことだろうと首を傾げると、ギルは微かに緊張した様子で答えた。
「式の日に、私は君に無礼な態度を取ってしまった。愛を誓う場だと言うのに……君を突き放すような真似を」
「そ、それは、お互い誤解していたから仕方ないよ」
ギルが首を横に振る。そうではないと、必死に伝える姿に何も返すことが出来なかった。
飄々としていると思っていたけれど、よく見るとギルの瞳には、僕が抱えるものとは非にならないくらいの後悔や自己嫌悪が滲んでいた。
「……仕方なくは、ない。私が己を許せないのだ。愛するセディを傷付けた己が憎くて堪らない」
ぐっと拳を握る姿に息を呑む。まさかギルが、ここまで僕を想って嘆いてくれるなんて思ってもみなくて。
彼が僕への罪悪感で苦しむ姿は、見るだけで胸が痛むというのに。どうしてかそれだけじゃなく、ギルが僕を想って苦しんでいるという事実に少しの喜びが湧いてしまった。
ずっと、彼は僕のことを冷たく蔑んでいるのだと思っていた。そんな時に解けた誤解が、あまりに突然のことだったから。
だから、安堵の方が勝ってしまうのだ。僕への想いと罪悪感に苦しむ彼を見ると、あぁ彼は本当に僕のことが好きなんだって、最低な安堵が。
そんな嫌な部分を悟られたくなくて、僕は俯きながら彼の手をぎゅっと握り返した。
「でも……僕は好きだよ。ギルの全部が好き」
ギルがはっとしたように顔を上げる。銀色の瞳に、柔く微笑む自分の姿が映った。
「さっきの話、改めて求婚したいって……その、僕でよければ」
「っ……!!」
彼の切れ長の瞳が珍しく大きく見開いて、顕になった綺麗な銀色に思わず魅せられた。
へにゃりと情けない笑顔を浮かべると、同時に涙が一粒零れる。簡素な結婚式、ベール越しに見えた彼の冷酷な表情が、脳内で甘い微笑に上書きされた。
「今度はちゃんと……ギルのお嫁さんになりたいな」
ぽそりと呟くと同時に、ギルの銀の瞳が微かに潤む。
一筋の涙と共に浮かんだ微笑み。ギルは震える息を吐き出しながら、ぎゅうっと強く僕を抱き締めた。
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