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第1話 大英雄の休日

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「アンクさま」

 女の声が聞こえる。
 耳元でささやくような小さな声だった。

「アンクさま、起きてください」

 眠りから徐々に目が覚めてくる。柔らかい感じのする女の声は、段々とはっきり聞こえてくる。毎朝のように聞き慣れた声だ。

 うっすらと目を開けると、メイド服を着た白い髪の女が立っていた。

「アンクさま、おはようございます」

「……レイナか。おはよう」

 うやうやしくお辞儀をしたレイナという名前の彼女に、うながされ起きあがる。狭い寝室の中で、レイナは俺を見下ろすように立っていた。笑顔はなく、ただ仕方がなく起こしたのだという表情で俺のことを見ていた。

 窓の外に目を向けると、薄暗くまだ夜も明けていなかった。

「今、何時だ」

「午前4時です」

「4時……今日は休日の予定だったはずだが」

「はい。急なお仕事のようです。玄関先にナツさまがいらしています」

「ナツが?」

 途端に騒がしい幼なじみの顔が思い浮かぶ。彼女が持ってくる案件は十中八九、厄介ごとだ。

「留守ってことに……」
 
「通じません。とても急いだ様子です。窓からアンクさまの寝床に侵入しようとしていたので、やむなく玄関から中に入ってもらいました」

 やむなく、という言葉を強調してレイナが言った途端に、寝室の扉がガンガンと激しくノックされた。
 
「レイナちゃーーん。ねぇ、アンク起きたー!?」

 扉の向こうからナツの声が聞こえて来る。
 レイナが言った通り、かなり慌てた様子の声色だ。古い木のドアが今にも壊れそうなほどに揺れている。

「失礼しました。玄関で待ってもらうように言ったのですが」

「……よし、このまま寝ていることにしよう」

「聞こえてるぞー!  開けろー!」

 ナツの拳で、一層激しく扉が揺れる。

「わたしが開けましょうか?」
 
 レイナがドアの方に視線を向ける。ドアが壊れるのを心配しているのだろう。
  
「いや、良いよ。自分で開ける」

 あの様子を見る限り、めちゃくちゃ厄介な案件だ。
 本当は庭の菜園から野菜を収穫する予定があったけれど、この分だと後回しだ。ベッドから起き上がり、目をこする。
 
 ドアの向こうでは「いーち、にー」と不穏なカウントダウンが始まっていた。油断も隙も無い。

 毎度のこととは言え、気が短いにもほどがある。

「おい、ナツ」

 ドアを開けると案の定、魔力を立ち上らせて拳を放とうするナツがいた。

「さぁぁああん……!」

「ストップ。朝っぱらから物騒なことはやめてくれ。寝室が跡形もなくなる」

「あ、起きた。おはよう!」

 茶色い髪の至る所から寝癖ねぐせを立てたナツは、拳を引っ込めてニコっと笑った。俺の頭2個分は低いナツは、出し抜けに俺の手を強い力で引っ張った。

「ねぇ、大変なの。早く来て!」

「いや、今すごく眠い……」

「だめだめ。急用、急用、大急用なの!」

 どうにも対話の余地はなさそうだ。急用、とはナツの口癖だが、大急用とは何時もより切羽詰まっているようだ。手を離してくれそうにもない。

「分かった、分かった……今、着替えてくるから」

「何言っているの、もう着替えてるじゃん」

「え?」

 見ると、さっきまで寝ていたはずなのにしっかりと外行きの服になっている。

「着替えさせていただきました」
  
 そう言いながら、レイナが俺のパジャマをテキパキと持ち運び用の洗濯カゴの中に入れていた。

「お前……」

「ご心配なさらず。目を閉じながら着替えさせていただきました」

「そういう問題じゃ……」

「朝ごはんには間に合いそうですか」

「いや、だから……」

「朝ごはんには間に合いそうですか」

 この子も聞く耳を持たない。観念して、首を縦に振る。

「……間に合うと思う」

「そうですか、では準備をしておきます。行ってらっしゃいませ」
 
 レイナはそう言って窓の外に目を向けた。そこにはすでに庭から俺たちに向かって手を振るナツがいた。

「せっかちだなぁ」

 レイナに別れを告げて、2階の窓から飛び降りてナツの近くに着地する。ナツが指差した方向は集落へと向かう小道だった。

「こっちこっち! 早く行こ!」

「おう……それにしてもレイナ、こんな時間から起きてるのか。勝手に着替えさせるのは止めてくれって言ってるのに」

「レイナちゃん、いつも私より早く起きてるよ。卵の仕出しに行く時、井戸で水んでるもの」

「その前に俺の服を変えてるのか、恐ろしいな……」

「早起きは何とやらだよ。アンクも世界を救ったからって自堕落じだらくな生活していちゃダメ。さ、走って走って!」

「はいはい」 

 ナツに言われて走るスピードを上げる。

 俺の家はサラダ村という集落の外れにポツンと立っているため、どこへ行くにもこの長い森の小道を抜けなければいけない。
 早朝の森はまだ薄暗く、小柄なナツに危うく置いていかれてしまいそうだった。動きやすそうなズボンとシャツを着たナツは、ぴょんぴょんとウサギのように森の間を抜けていっていた。

「それで大急用ってなんだ?」

「タソガレグマ! 朝方頃にパトレシアの畑を荒らしていて……このままだとめちゃくちゃ。まずいことになっちゃう!」

「タソガレグマってあの夕方にしか、住処すみかから出てこないやつ? なんでこんな朝っぱらに出張ってるんだ」

「それが……目が真っ赤だったらしくて、『魔物化』している可能性があるの!」

 『魔物化』
 その言葉を聞いて、まだ半分くらい寝ていた頭が一気に覚める。

「本当かそれ……!?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「聞いていない。おいおい、まさかこんなところに魔物が現れるなんて……」

「すごい凶暴な魔物だった!」

「魔物は全部凶暴だろ。生き物が凶暴になるのが魔物化なんだから」

「それもそっか! でもさ、ここのところ魔物化なんて全然なかったのに」
 
「考えられるとしたら、残留している瘴気しょうきか」

 魔物化を引き起こすのは瘴気だ。それ以外に原因は考えられない。
 ほんの数年前まで同時多発的に起きていた魔物化は、このプルシャマナと呼ばれる世界を滅亡寸前までおとしいれた。
 
 その原因は『異端の王』と呼ばれる魔王。
 瘴気しょうきと呼ばれるガスを使用して魔物を作り出していた。強力で凶暴な魔物たちに人間達はなすすべなく、各地で虐殺が起こっていた。

 ……この世界は『異端の王』によって支配される。そんな絶望が世界を覆っていた。

 しかし発生から5年経ったある日のこと、『異端の王』の野望は女神の使徒によって終止符ピリオドを打たれることになった。

「でもアンクなら大丈夫だよ! だって世界を救った大英雄だもんね!」

 ナツがにっこりと笑って、親指を立てた。 

 ……魔王を倒した大英雄(俺)は故郷に帰り、夢にまで見たスローライフを送っている。たまにこうして、魔物の残党討伐に呼び出されはするが、その生活はおおむね平穏だった。


 
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